第11話「神の見えざる手」

「ただいま」

「おかえり、ご飯できてるよ」

アヤノは玄関まで来ると、俺の鞄を持ってくれた。

「ありがとう、先にシャワー浴びてくる」

俺は自室に行って、スーツを脱ぐ。

そして部屋着と下着、バスタオルを持って、浴室に向かった。


――アヤノとの同棲が始まってから今日でちょうど一週間。

俺はすっかりこの生活に染まりきっていた。

あの銃自殺事件のあと、アヤノをけまわす人はいなくなった。

やはりあの自殺した男がストーカーだったのだろう。


つまりこれで本来の目的も果たされ、一緒に住み続ける必要はなくなった――はずなのだが、一週間経った今も俺は帰ることはなくシャワーを浴びている。


どうやら俺とアヤノは相性が良いらしい。

お互い家にいても何も気を遣うことはないし、なにより生活が楽になった。

両者ともマメな性格のようで、家事は分担して協力している。

だから一人暮らしの頃よりも家事の負担が減り、しかも健康的だ。通勤も楽だし。

合理的に考えても、これはむしろ同棲をやめる理由を探す方が難しい。


しかも別に交際関係にあるのだから一緒に住むことになんら問題はない。

目的を果たしたけれど、まだ同棲を続けても良いかと相談したら、アヤノも了承してくれた。むしろ喜んでいた。


だから今の悩みは元々住んでいた家を引き払うかどうかだ。

もし同棲が難しくなったときに家がないのは面倒だ。だがこのまま使ってもない家の家賃を払い続けるのは、なんとなく気分が良くない。かといって引き払うと、住所変更などの手続きも出てくる。

メリットとデメリットを天秤にかける日々だ。

まあ追々おいおい決めればいいか。



「はぁ、さっぱりした」

俺はシャワーから上がると、食卓テーブルに並べられた料理を見る。

一人暮らしでは作るのが面倒だった煮物や天ぷらが並んでいる。とにかく簡単で時短な料理ばかり作っていた頃と比べると、なんて豪勢でバランスのとれた食事であろうか。

「今日は時間があったから結構作っちゃった」

アヤノは得意げに鼻を鳴らす。

「いつもすごいな!作ってくれてありがとう。」

「私も東二が洗濯とかトイレ掃除をやってくれてるから凄く助かってるよ。ありがとう。」

お互いに笑顔が溢れる。


俺は椅子に座り、「いただきます」というと、目の前の海老天ぷらに箸を伸ばす。

「はい、お塩。それとも天つゆが良い?」

「いや、塩で食べるかな」

アヤノから塩が入った小瓶を受け取り、サクサクの衣に振りかける。

そして箸で持ち上げると、ゆっくりと口に運ぶ。


サクッ


噛んだ瞬間、心地よい音が響き渡り、次にジュワっと海老のうまみが口内を埋め尽くす。

美味しい…。

「おいしい?」

「…あぁ。すごく。」

俺の本心から漏れた言葉にアヤノはクスっと笑って、「よかった」と言う。


こんな美人で、礼儀正しくて、お金もあって、家事全般完璧。

才色兼備とは彼女のための言葉だと思った。


俺はその後無我夢中で彼女の料理を堪能した。


・・・


「あ、そうだ」

夕食を食べ終え、食欲が満たされた幸せを噛みしめていると、アヤノが思い出したように言う。

「急で申し訳ないんだけど、明後日って空いてる?」

「明後日?日曜日か。」

俺は壁に掛けられたカレンダーを確認する。

「うん、空いてるよ。なんかあった?」

「実は明日明後日で須美すみの葬儀があるの」

「須美?」

「先日亡くなった…、私の友達」

「あぁ…、畑島さんか…」

アヤノの顔が曇っている。やはりこの件のダメージはいまだでかいようだ。

「私も今日知らせが来て。本当は身内だけの小規模でやるつもりだったらしいんだけど、私は来て欲しいって須美のお母さんから連絡が来て。それで行くことになったの」

「そっか。行ってくると良いよ。でもなんで俺の予定まで?」

俺は首をかしげる。

「東二にも来て欲しい。私、今はなんとか元気を取り戻せてるけど、会場に行ったらどうなるかわからない。泣き崩れてまともな状態じゃいられないかもしれないから…。だから側にいるだけで良いから、一緒に来て欲しいなって…」

「……わかった。空けとくよ。」

俺はそう言って、食卓テーブルから立ちあがる。

アヤノは暗い顔でうつむいたままだ。


俺はこの一週間、アヤノの明るい顔だけを見ていた。

もちろんすべてが嘘だった訳ではないだろう。だがその中に空元気があったことは間違いない。

突然に友人を亡くしたショック。それを俺は汲み取れていなかった。

自分の至らなさに悔しさを覚える。


俺は目の前の彼女になんて言って良いかわからなかった。

結局何も言えず、「部屋にいるね。なんかあったら呼んで」とだけ告げ、部屋の扉を開け、自室に入る。


「彼氏失格だな、俺…。」


ぽつりと吐いた言葉はシャボン玉のようにすぐに消えていった。


***



「来てくれてありがとうね。アヤノさん。」

「呼んでいただいてありがとうございます。」

両者が頭を下げる。

「須美からはあなたの名前を聞いていたから。大学で凄く仲良くなった友達がいるって」

「…はい。須美は私の大切な…親友です。」

アヤノは目に涙を浮かべ、声を震わせている。

「須美が突然こんなことになっちゃって…。本当なら親族だけで済ますつもりだったんだけど…、あなたを呼ばないと不義理な気がして…」

相手の女性も涙をこぼしていた。

「今日は…、須美を、しっかり見送ってあげて…」

言葉が詰まりながら、女性は話す。

アヤノは何も言わずに深く頭を下げ、俺の元へ戻ってきた。


「今の方は親族?」

「そう。須美のお母さん。会ったのは今日が初めて」

俺はもう一度遺族の母親である女性の方に目を向けると、膝をつき、ハンカチで口元を抑えながら、号泣している光景が飛んできた。

見ているだけで痛々しかった。

胸が苦しくなり、視線をアヤノの方へ移す。

アヤノは唇をギュッと噛みしめて、涙をこらえている。

しかし涙袋の容量はとうに超え、ぽろぽろとこぼれ落ちていた。


「だ…、」

大丈夫?と言おうとしたが、すぐに引っ込める。

大丈夫な訳がない。そんな言葉は気休めにすらならない。

俺は無言でアヤノにハンカチを渡す。

アヤノも無言でそれを受け取る。


誰も何も喋らない。聞こえるのは慟哭どうこくや鼻をすする音。

重苦しい空気が立ちこめる。


人の死というのはこういうものだと改めて感じた。

人は毎日多くの命が失われている現実を当たり前に受け止めているようだが、その数だけこの空気が生まれることをあまり考えていない。

俺もそうだ。毎日ニュースでどこかで事故が起きたとか、有名人が亡くなったとかが報道されるが、捉えるのは字面だけだ。

その裏で、どれだけの涙が流されているのか。


かといって毎日誰かの死に心を痛めていては辛いだけだろう。

人は鈍感な方が幸せなのかもしれない。



そんな事を考えていると葬儀が始まる時間になった。

「……行こ」

アヤノはそれだけ言うと、俺を会場の部屋へと引っ張る。

俺は引っ張られるがままに葬儀会場の部屋に入った。


・・・


「今日はありがとうございました。」

葬儀が終わり参列者が部屋を出る中、俺とアヤノに畑島さんの母親が声をかけてきた。

「こちらこそありがとうございました。私の参列も許可していただいて」

俺は深々と頭を下げる。

「いえ、アヤノさんの彼氏さんなんですよね。なにも問題ないですよ。」

彼女は腫らした目で微笑む。


「アヤノさん」

彼女はアヤノの方を向く。

「…はい」

アヤノはか細い声で返す。

「須美のお墓参り、これから行ってくれたら嬉しいわ」

「…!」

アヤノはまた唇を固く結ぶ。

そして一つ大きく頷いた。

「…ありがとう」

彼女はそう言い残して、家族の方へと去って行った。


「本人も辛いはずだろうに…」

娘が突然殺されて、犯人も見つかっていない。そんな辛い状況でも娘の友達にこんなに気を使えるとは。

俺は彼女の心の強さを身に染みて感じた。


「俺たちもそろそろ帰ろうか。」

そろそろ親族だけでやらなければいけないこともあるだろうし、俺らは帰るべきだろう。

アヤノはうんと頷く。


俺たちは、次の火葬について集まって話している親族たちの横を静かに通り、葬儀場のエントランスへ向かった。

自動ドアが開き、外へ出る。

葬儀は10時から始まり、今はまだ12時。外は明るかった。



「…ん?」


外に広がる駐車場エリアに一人の人影を見つけた。

黒いキャップに黒サングラスとマスクで顔を隠し、丈長の黒いトレンチコートと黒い厚底ブーツ。

近くに車はなく、ただそこに立っていた。

「なに…、あいつ…」

快晴の昼には異質すぎる人物に、アヤノは俺の背中に隠れて怯えている。


全身黒で覆われた人物。先日の自殺した男を思い出し、背筋が凍る。

俺はその人物から目を逸らさずに、おそるおそるポケットからスマホを取り出し警察に電話をかけようと試みる。


しかし俺がポケットからスマホを取り出した瞬間、その人物は後ろを向き、走ってどこかへ行ってしまった。


「っ…、はぁ…!はぁ…!」

一気に緊張感が解けて、俺はその場に座り込む。

「と、東二。大丈夫?」

アヤノは突然座り込む俺に心配の声をかける。

「だ、大丈夫。ちょっと気が緩んだ」

息を切らしながら答える。


しばらくして息が整った俺は立ち上がり、アヤノの手を握る。

「早く帰ろう。葬儀のこともあってアヤノも疲れたでしょ。タクシー呼ぼう」

俺はスマホからタクシーアプリでタクシーを呼ぶ。

いまだ指がかすかに震える。

自分が思っている以上に恐怖していることに気づいた。

「…よし、OK。…あ、ほら、あそこにベンチあるし、来るまであそこで待ってようか」

エントランスの脇に設置された木製のベンチを指差す。

俺たちはそこに腰掛けた。

アヤノは座ると同時にどっと疲れが来たのか、俺の方に頭を預けて眠ってしまった。

その寝顔は泣き疲れた子どものようだった。


俺はそのままアヤノを寝かせておくことにし、先ほどの人物について考え始めた。


さっきの黒づくめの人物、なにか引っかかる。

先ほど起こったシーンを思い出す。が、肝心の答えがわからない。

頭の中がむず痒くなる感覚を覚え、俺は頭を掻く。


くそ。あとちょっとな気がする。あの人物を俺はどこかで見たことがあるのでは。


あいつをどこかで…、どこだ…、あいつ、あの走り…、走り…方?


「あぁ!?」

俺は大声を上げ、その場で立ち上がる。

「う、ぅん?あれ、どうしたの?タクシー?」

「嘘だろ…?いやでもそんな…、なんで…?」

アヤノの声は俺には聞こえていなかった。

「ねぇ、どうしたの…」

俺はどれだけ考えても意味がわからなかった。




「あの人。大宮さんだ。」

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