第7話「崩れ始める橋」

Prrrr……、Prrrr……、


「…………。」

いつもと変わらず、けたたましく電話の音が鳴り響くオフィスで俺はうなだれていた。


――昨日、アヤノさんとのデートを途中で中止にし、さらには一人で早足で帰るというなんとも非礼で格好悪い姿を見せてしまった俺のプライドはボロボロに崩壊していた。

あの後、昼過ぎに家に着き、少し汗ばんでいたにもかかわらず、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込み、そのまま夜中の1時まで眠っていた。

あの気持ち悪いコメント欄を一刻も早く脳内から抹消したかったというのもあるが、自分の都合でアヤノさんに迷惑をかけてしまったという現実から逃げたかったのだろう。

1時に目が覚めた俺は少し頭も落ち着き、理性的な判断が出来るまでには回復した。スマホを見ると、アヤノさんから心配のメッセージが多数。


『大丈夫ですか?』

『心配です。気づいたら返信ください』

『不在着信』


再び布団をかぶり現実逃避したかったが、ここで自分の非と向き合わなければ一向に解決しないと決心し、正直な自分の思いメッセージで伝えた。


『すみません、あの後眠ってしまいメッセージに気づきませんでした。今日は本当にごめんなさい。僕の勝手な都合でアヤノさんに心配をかけました。もう元気になったので大丈夫です。今度会ったら、ちゃんともう一度お詫びします。』


こんなメッセージを送った。

送ったのは1時39分――



――そして現在、11時17分。

いまだ返信はない。俺は希望がなくなりかけていた。

夜中に送ったメッセージだから朝には返ってくるだろうと、俺は送信のボタンをタップした後、シャワーを浴びてぐっすり寝た。

しかし朝、目が覚め、スマホを見ても通知はない。

そこから出社の準備中、電車での通勤中、職場とずーっとスマホを確認していたが、ついにスマホが震えることはなかった。


俺は社会人になって初めて好きになった人をこんな形で失うのか。

そう思うと情けなさで目頭めがしらが熱くなる。


いやまだ諦めるな。まだ返信が来ないと決まった訳ではない。

なんか温かいものが飲んで気を保とう。

俺は心の奥底でかすかに灯っている希望の光だけを頼りに、二日酔いのおっさんのようにふらふらと立ち上がり、自販機へと歩を進めた。

自販機コーナーへ向かおうとオフィス内を横切っていると、横からなにやら不穏な空気を感じ取った。



「えっ?明日から長期休暇って…」

同僚のなんとも言えない声が耳に入る。

俺は立ち止まることなく、横目でその会話の人物を確認する。

どうやら同僚の山下やましたと大宮さんが話しているようだ。

山下は背を向けていて俺の視界から顔は確認できなかったが、俺にも届く程、背中から動揺が伝わってくる。

そして大宮さんの顔は見ることが出来た。

いつものように笑顔ではあったが、少し引きつっているように見えた。

俺は後で大宮さんに話しを聞いてみようと思い、その場は通り過ぎ、自販機コーナーへ向かった。

なぜか胸がざわつく。


・・・


ホットのブラックコーヒーを買い、自分のデスクに戻っていると、大宮さんが一人でパソコンで作業をしていた。

どうやら山下との話は終わったようだ。

俺は大宮さんのデスクへ方向転換をし大宮さんへ近づく。

すると大宮さんは俺のことに気づき「おう」と言って、椅子を俺の方へ回転させた。

一見すればいつもの様子だが、表情、行動、声色、どれをとっても心ここにあらずといった印象がある。

一体なにがあったのだろうか。

俺は大宮さんの前で立ち止まると、手に持っていたコーヒーを大宮さんに手渡す。

「これ、どうぞ。」

「え、これ多分お前が自分のために買ったやつだろ。一個しかないし。」

「いいんですよ。俺の分はまた買いに行けばいいんで。それよりもなんかあったんですか。」

俺はストレートに疑問をぶつける。

大宮さんは少しの間、唇を結んで考えていたが、なにか心の整理がついたのか、俺があげた缶コーヒーを開け、グビっと飲んだ。

「はぁ~、やっぱホットは染みる~」

そう言って顔を上げ、口を開いた。

「すまんな、達川。心配かけたか?」

「まあ、多少は。でも部長のことなんで、なんとかするかなとも思ってました。」

「お前は俺を買いかぶりすぎなんだよ。尊敬してくれるのは嬉しいけど、俺だって人間なんだから落ち込むことくらいあるよ。」

大宮さんはケラケラと笑う。つられて俺も少し頬が緩む。

「そうですか。じゃあ、いつもお世話になっている分、今度は俺の番ですね。部長、なにかありました?相談なら乗りますよ。」

「…そうか。やっぱお前は良い奴だな。じゃ遠慮なく。だけどここじゃちょっと話しづらいな。喫煙所行くか。」

「はい。」

大宮さんは椅子から立ち上がり、大股で歩き出す。

その後ろに俺も着いていく。


「ていうかさ。達川って、職場では『部長』って呼んで、飲みとかでは『大宮さん』って呼ぶけど、なんで使い分けてんの?」

歩きながら大宮さんがおもむろに聞く。

「本当は『大宮さん』って呼びたいんですけど、やっぱ職場なんでみんなに合わせて役職で呼んでるってだけですよ。」

「なんだ、そんなことか。俺は別に気にしないけどな。」

「部長じゃなくて俺が気にするんですよ」

「ちぇっ、この会社がフレンドリーな職場になるのはまだまだ遠そうだな笑」


***


幸い喫煙所には俺たちしかいなかった。

喫煙所に着くと俺たちは胸ポケットからタバコとライターを取り出し、白い先端に火をつける。

吸入した煙を少し口内でとどめ、少し吐き出してから、一気に吸い込む。

煙が肺に落ちていくのを感じる。

付き合い程度にしか吸っていない割には上手く吸えているほうだ。


「……それで、大宮さん。さっき長期休暇って聞こえたんですけど」

「…あぁ。まあちょっとな。しばらく会社を休むことにした。」

大宮さんはフーっと煙を吐く。

「そうなんですね。でも休むだけならそんな顔する必要ないじゃないですか。」

「まあやっぱ事業部長ってだけあってな。仕事にそれなりの責任もあるわけよ。なのに師走しわすのこの時期に長期休暇って、ちょっと空気読めてないだろ。」

秋も終わり、冬も本格化している。この時期に休むとなるとそれなりの理由が必要そうだ。

「それで山下があんな感じだったんすね。焦ってんの丸わかりでしたよ。」

山下は今、大宮さんと一緒に仕事をすることが多い。忙しくなるこの時期に頼りの上司がいなくなれば焦るのも無理はない。

「山下には悪いことをしたと思ってる。でも、それでも…、」

「やらなきゃいけないことが出来たんだ。」

大宮さんは再度煙を吹かす。その目はまっすぐ鋭かった。執念に燃えるように。

「……いつ、戻るんですか。」

俺はあえて休む理由を聞かないことにした。大宮さんがあまり話したがらないのもそうだが、俺は単純に理由を聞くのが怖かった。

「そうだなー。いつになるかな。まだわからん。」

「そうですか。じゃあしばらく大宮さんのご馳走はお預けですね笑。」

「そうだな笑。帰ってきたら迷惑かけた分、社内のみんなに盛大におごってやるよ」

大宮さんは親指と人差し指で輪っかを作ってお金のハンドサインをする。

「楽しみにしてます。」

俺はそう言ってタバコの灰をこぼす。


この約束は果たされるだろうか。さっきからの大宮さんの顔を見る感じ、かなり重大な事があったに違いない。そして会社を休んでまでその事に向き合おうとしている。これは盛大な死亡フラグというやつか。

だが完璧超人の大宮さんだ。ケロっと帰ってくる姿も想像がつく。

どちらに転ぶのか。俺は後者を望むだけだ。


…………


「そろそろ戻るか」

しばらく喫煙所内に無言が続いた後、大宮さんが切り出す。

「そうですね」

腕時計を見ると12時を指している。もう昼休憩の時間だ。

俺たちはタバコの火を消し、灰皿スタンドにタバコを捨てると喫煙所を後にする。

言葉を交わすことなく各々のデスクに戻っていく。

大宮さんのデスクが近づいてきたとき、大宮さんが口を開く。


「達川」

「あ、はい」

「コーヒー、ありがとな」


そう言って大宮さんはデスクに戻っていった。

俺もなにか言おうとしたが、何も言えなかった。

あの執念深い目に戻っていたから。

今の彼が纏っていた空気は俺の音など容赦なくかき消す。

そう思うほどに。


***


デスクに戻った俺は一人放心状態だった。

大宮さんとの会話が頭から離れない。

パソコンモニターの上から顔を出すと、そこではいつものように仕事をしている大宮さんが見える。隣で山下が青い顔をしてうなずいていた。おそらく大宮さんが休むため、仕事の引き継ぎをしている最中なのだろう。

周りの社員も大宮さんが抜けた後の会社に怯えているのか、どことなく落ち着いてない。

そしてこんな異常事態ですら俺に声がかからない。俺は自分が思っているよりもずっとお荷物のようだ。

俺は再度買ったコーヒーをちびちびと飲んでいた。


ポコンッ


ズボンのポケットから振動を感じる。

取り出すとアヤノさんからの返信が来ていた。


『良かったです!いつもと様子が変だったので、あの後とても心配で…。でもお元気になったなら良かったです。ぜひまたお会いしましょう。』


良かった。返信してくれて。2時間前の俺ならば歓喜していただろう。

だが今は安堵以上の感情はない。

今の俺の優先順位はアヤノさんよりも大宮さんの方が上になっていた。


あの執念の目。おそらく大宮さんは何か取り返しのつかないことをする。

出来ればそんなことはしてほしくない…――。




「知ったような口聞くなってな…」




俺にできることなんて何もなかった。

大宮さんは自分の判断で道を選んだんだ。なら俺は彼の帰りを待つだけだ。


自身の心の中で整理をつけることができた。

これでようやく大宮さんを送り出すことが出来そうだ。


・・・


時刻は17時半。定時だ。

俺はそそくさと身支度を済ませ、リュックを背負う。

半数以上の者が残っているオフィスを横切っていく。

大宮さんのデスクを見ると、いまだ大宮さんと山下が打ち合わせをしていた。

さすがに山下が気の毒に見えてくる。

俺は静かに大宮さんに近づいた。それに気づき大宮さんが俺を見る。山下も。

「お疲れさまです。お先に失礼します。」

俺は帰りの挨拶にしては深すぎるお辞儀をした。

なにも返事が返ってこない。俺が頭を上げると、そこには真顔の大宮さんがいた。

「うん、お疲れ様」

その声はとても重々おもおもしかった。

俺はしっかりと大宮さんの挨拶を受け取ると、隣にいた山下には軽い会釈をしてその場を去った。

そしてオフィスを出て、エレベーターの下ボタンを押す。


これで良い。

これからも普段のように過ごしていくだけだ。

そこで大宮さんの帰りを待つ。

これで良いんだ。


俺は今日何度目かもわからない心の整理をつけ終わると、ちょうど下の階に行くエレベーターがやってきた。

扉が開くと、中には二人の男性社員が乗っていた。

俺は乗り込むとエレベーター内右前のボタンの目の前に立ち、閉ボタンを押す。

ドアが閉まりエレベーターが下に動く。

ここは27階。下まではしばらくかかるな。


「なあ、お前池田いけだと連絡ついた?」

「いやそれが全然。先週の金曜の午後に取引先に行くって出て行ったきりだもんな」

静かな空間で乗っていた二人の会話が響いた。

「土日は連絡してないけど、週明けも連絡もつかないってちょっと心配だよな…」

「さすがに明日には会社に来るだろ」

外出から帰ってこない奴か。土日挟んで計3日半とはかなりだな。


「あの~…、すみません」

「え!?あ、はい!」

急に声をかけられ、大きな声を出してしまった。

身長はそこまでだが大柄で風格がある男。髪型も短髪でジェルできっちりセットされている。だが見た目に似合わないかなりの低姿勢だ。

「ごめんなさい。七橋の社員さんですか。」

「は、はい。事業投資部です。」

「そうですか。私たち営業部なんですけど、この顔に見覚えあります?」

そう言って男はスマホの画面を見せてきた。


「あ!」

ポーン


俺が声をあげると同時に1階に着いた。

三人はエレベーターを出て、邪魔にならない場所に移動する。

「知ってるんですか?」

この男、CAについて話していた二人のうちの一人だ。特に熱弁していた方。池田というのか。

「はい。直接話したことはないですが、見たことはあります。」

「そうなんですね。もし街中とかで見かけたら連絡ください。名刺とー、あとこの写真渡すので。」

男は胸ポケットから名刺を取り出し、俺に差し出した。

この男は細前真也ほそまえしんやというのか。全然細くないぞ。

細前はスマホを取り出し、池田という男の写真を共有する。俺のスマホに送られてきた。

「俺の名刺は渡さなくていいな」

後ろにいたもう一人の男性は細前とは対照的に細身でナチュラルパーマ。ピカピカした腕時計。第一印象は韓流イケメンだ。

「自分たち営業部でも彼の自宅とかに行ったり、最悪警察に捜索願そうさくねがいとかを出すつもりではあるんですけど…。探せる人は多い方が良いので、ご協力お願いします。」

細前はいかにもな営業マンらしいお辞儀をする。

「わかりました。僕もそれとなく意識して探してみますね。」

俺は受け取った名刺を名刺入れにしまいながら答える。ついでに俺の名刺も渡しておいた。

「ありがとうございます!えっと、達川…、達川?あぁ、あなたが噂の…。」

細前は俺の名刺を見るなり、眉をひそめ俺の顔を見る。それに対し俺は無言で見つめ返した。

「あ、ああ!ごめんなさい!なんか伺ったことがあるお名前だと思って…!いや、私はあなたに対して悪い印象とかはないので、どうか誤解なさらず…!」

細前は必死に頭を下げて弁明した。

「大丈夫ですよ。僕は怒ってないので」

「ありがとうございます!」

細前は再度頭を下げる。本当見た目に合わないな。


「なぁ~、まえっちゃん。もうよくね。行こうぜ。」

後ろのイケメンは気怠けだるそうにしていた。細前は「そうだな」と言って、俺に「じゃあ、失礼します」と残し去って行った。


まさかの展開だったな。

俺はもう一度池田の写真を見る。長い間連絡がつかないとなるとただ事ではないだろう。


CA……。

起きるトラブルの根幹にはこの会社の名前が出てくる。

「嫌になるな…」

ぼやきながらビルのエントランスを出る。



俺の足下には季節外れのカラスの羽根が落ちていた。

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