第5話「氷解」
PiPiPi………、PiPiPi………、
時刻は7時39分。7時30分に設定したアラームの1回目のスヌーズで目が覚める。
まだ朝は寒く、身体の上に乗っかっている羽毛布団がやけに重く感じられる。
だが今日は起きなければ。今日は日曜日。アヤノさんとの約束がある日だ。
俺はスマホのメモを開き、今日巡る場所を再度確認する。最後のディナーは伊月おすすめだ。
伊月は飲みに行った次の日の朝には「おすすめディナーリスト」を送ってきていた。
この中から選べば間違いないらしい。そんな素早い仕事ぶりに感心し、俺はその中からローストビーフが美味しそうな店を予約した。これだけ協力的にしてくれたのだから、なにか成果を挙げなければ伊月に申し訳がない。
俺は重たい羽毛布団をはねのけ、無理矢理身体を起こし、カーテンを開ける。
幸い今日は快晴のようだ。俺は差し込む光に目を細めた。
俺の住んでいるアパートは3階。窓から面している通りに目を落とすと、3人の小学生が厚手の上着を羽織り、公園へ走っていく姿があった。
一人はサッカーボールを持って先頭に、もう一人はキーパーグローブを持ってその子のすぐ後ろについて走り、最後の一人は野球用具一式を持って少し後ろを走っていた。
みな笑顔で、仲良し三人組のようだ。この友情がいつまでも続き、大人になっても3人で飲みに行けるような平和が訪れることを心から願う。
そんなことを考えていると、時刻は7時53分を指していた。
よし。ゆっくり準備しても、11時の待ち合わせには間に合いそうだ。
俺はぐーっと背伸びをすると、顔を洗いに洗面台に向かった。
・・・
チンッ。
トースターが軽やかな音を奏でる。トースターを開けると、少しの焦げ具合を纏った2枚トーストが姿を見せる。俺はそれらを皿に移すと、キッチン台に置き、引き出しからバターナイフを取り出し、一つにはバター、一つにはブルーベリージャムを塗っていった。そして俺の後ろではコポコポとコーヒーメーカーが音を立て、良い香りを醸し出してくる。心地よさを感じながら、食器棚からアイボリーのマグカップを取り出して、コーヒーが落ちるのを待つ。
休日にこんな優雅な朝を過ごしているのはいつぶりだろうか。思い出すのも難しいほど前のことだ。仕事に精を出せなくなってからというもの、仕事に引っ張られるかのように、プライベートもダラダラと過ごすようになっていた。そのため久々に有意義な休日を過ごすことに困惑している自分もいる。
美味しそうなトーストが乗った皿を食卓に運び、キッチンでマグカップにコーヒーを注ぐ。芳醇な香りを楽しんでから、一口飲むと癖になる苦みが口いっぱいに広がった。
食卓について、リモコンを手に取り、テレビをつける。テレビ画面の右上の時刻は8時19分と表示されている。ついたチャンネルはちょうどニュース番組をやっていた。俺はニュースは主にニュースアプリで確認することが多い。テレビのニュースはかなり久しぶりだ。
俺はテレビニュースを横目に、最初にバターが塗ってあるトーストに口をつけた。おいしい。まろやかな味わいにかすかな塩味。やはり俺は少し値が張ってもマーガリンよりバターが好きだ。
口いっぱいにパンが満たされ、それをコーヒーで流していると、テレビから『衆議院選挙、いよいよ!』という声が聞こえてきた。画面に目を向けると、キャスターが専門家と今回の衆議院選について語っていた。
「専門家の安木さん。今回の衆議院選挙はやはり一波乱ありそうですか。」
「そうですね。日本推進党の支持率が異様に伸びていますからね。広末さんを筆頭に多くの議席を獲得すると思います。過半数を占める可能性も十二分に考えられますから、政権交代が起こると国民の皆さんは考えておいた方が良いでしょう。日本の未来は今回の衆議院選で大きく変わるかもしれません――」
ふーん。与党が変わるのか。今の日本に不満を持っている声も多くあるし、これを機に少しでも動いてくれればいいが、俺は対して期待していない。一応選挙には行っているが、いつも白紙で投票する。結局どの政党がトップに立っても、みな似たような政策だ。だから俺はあまり興味が無いし、自分のことで精一杯なため、画面を挟んでこっちの空気は冷めている。俺は1枚目のバタートーストを食べ終わると、すかさずブルーベリージャムが塗られたトーストにかぶりつく。
ブルーベリージャムトースト旨っ!この優しい甘さと、ふわふわなパンが最高にマッチして、さらにコーヒーによって、苦みで緩急を生み出している。まさに至高だ。
満ち足りた朝食を食べ終え、テレビの時刻を見ると、8時32分。
まだまだ時間あるな…。
軽くランニングして、戻ってきてシャワー浴びて、着替え、髭剃り、ワックス…。
うん、これでいこう。
朝早く起きると、途端に意識が高くなる現象。名前はないのだろうか。そうと決まれば、まずはランニングだ。俺はランニングにハマっていた頃のウェアとシューズを引っ張り出すと、それに着替えて、シューズを履いた。久々に履いたがサイズもちょうど良く、靴擦れの心配がないことを確認すると、ワイヤレスイヤホンとスマートウォッチで音楽をかけて、玄関のドアを開けた。
***
「ごめんねー。ちょっと遅れちゃった!」「大丈夫だよ、じゃあ行こうか。」、
「すみません。お姉さん、今待ち合わせですか?」「はい、そうですけど…」
多くの人がごった返す日曜の昼の駅前。カップルや友達との待ち合わせ、きな臭い勧誘。有象無象の現象が周りで起きる中、俺も待ち合わせをしていた。
俺はランニングを終えた後、シャワー、着替え、髭剃り、ワックスといった身だしなみを整え、出発まで今日のプランを何度も確認した。
そして10時20分に家を出て、電車を乗り継いで約30分。11時の待ち合わせの10分前に渋谷駅前に着いた。
今日は天気は晴れだが、少し風が強く、気温よりも体感が寒く感じられる。
俺は風で少し崩れかけている髪型を何度も直しながら待っていた。
腕時計に目を落とすと、時刻は10時58分を指している。そろそろだろうか。
そう思っていると、後ろから「達川さん」という声が聞こえた。
振り返って目に入ってきた光景に俺は固まってしまった。
白いニットにベージュのロングコート。色を合わせたサイズ大きめのベージュパンツ。カールがかった茶色い髪。以前の硬派な印象とは打って変わって、そこには柔らかな色合いで統一された秋物コーデの可愛らしいアヤノさんが立っていた。
「あ、えっと…」
「おはようございます、達川さん。お待たせしてしまいましたか?」
「あ、いえ!全然待ってないです!」
「そうですか。良かったです。じゃあ時間ももったいないですし、早速いきましょうか。」
「あ、はい!そうですね!」
アヤノさんの変わりように語彙力が吹き飛んだ俺に余裕はなく、肯定か否定かを返答するだけの人間になってしまった。このままではまずい。今日は俺がリードするデートなんだ。俺がしっかりしなくては。そう思いアヤノさんの方を向くも、その可愛さにまた頭がパンクしてしまう。以前はクールビューティーという印象だったが、今回はとても可愛く、柔らかい。スラッとした体型も、大きめのパンツとカールの髪型で印象がガラリと変わる。こんなギャップを見せられて戸惑わない男はそうそういないだろう。どうにかしなくては…。
「あのー…」
頭の中でぐるぐる解決策を考えていると、アヤノさんが俺の顔をのぞき込むように聞いてきた。
「は、はい、何ですか?」
俺はうわずった声で返事をする。
「今日はまずどこに行くんでしょうか。私、何も知らないので…。」
アヤノさんは申し訳なさそうに目を伏せる。その仕草も可愛らしい。
だがそんな可愛らしいアヤノさんの行動を見る度に、前回のアンドロイドのような無機質な態度との変わりように違和感を覚える。本当に同じ人か?
そんな少しの不信感が俺の暴発した頭の熱を冷ます。なんとか持ち直せ。
俺はひとつ大きな深呼吸をすると、アヤノさんに向き直った。
「そうですよね。ごめんなさい。もう大丈夫です。行きましょうか。」
俺はそう言うと彼女をリードするようにスタスタと歩き始めた。
「はい。楽しみです!」
アヤノさんは弾んだ声でそう言って微笑む。
誰だこの人。俺の不信感はさらに膨れ上がる。だがそれではせっかくのデートを楽しむことが出来ない。前回のアヤノさんのイメージは忘れた方が良いな。
俺は湧き出た邪念を頭の片隅に押し込んだ。
「まずはお昼の時間ですしランチにしましょうか。近くに美味しいって評判のたらこスパゲティのお店が……」
***
「んー!美味しいです!」
アヤノさんは口元を手で隠しながら、嬉しそうに言った。
店選びなんて久々だったが、ちゃんと調べて良かった。彼女の喜んだ顔を見て俺の頬も緩む。
俺は手にしている箸でスパゲティを挟むと、口に運んですする。
確かにこの店のたらこスパゲティは美味しい。
「そういえば達川さんはどの辺にお住まいなんですか?」
食べ進めているとアヤノさんが聞いてきた。
「そうですね。国分寺の近くですかね。」
「あ、そうなんですね。じゃあ結構遠い感じですか?」
「まあ、若干って感じですね。慣れましたけど。確かにあまり東京のサラリーマンが住むエリアではないかもしれません笑」
そう言って俺は苦笑いをした。
俺も以前まではかなり立地の良い京浜東北線沿いの場所に住んでいた。大手の商社に入社したからには私生活からエリートらしくいこうと、新卒のサラリーマンとしてはかなりの家賃の物件を選んだ。さすが商社勤めというべきか、金銭面で苦労することはなかったが、今思えば気づかぬうちにストレスがかかっていたのだろう。通勤、社内、退勤後、買い出し、家での過ごし方。どのシーンにおいても意識の高いことを求められているように感じる生活に追われた。別に誰もそんなことは求めてないのだが、自分で自分の首を絞めていた。自分は都会の暮らしに合っていないのだろうかと疑念を持ち始めた頃にあの事件だ。すべてが嫌になり、せめて家くらいは静かに過ごしたいと思い引っ越しを決断したのだ。
「そう…ですか…。ごめんなさい、私、失礼なこと聞いちゃいました…?」
苦虫をかみつぶしたような顔で過去の生活を振り返っていると、アヤノさんは上目遣いで申し訳なさそうに聞いてきた。
「大丈夫ですよ。こちらこそ黙り込んじゃってすいません。それよりもこの後なんですけど、美術館に行こうと思うんですけどどうですか?」
俺は話題を変え、この後行く場所について話した。
「良いですね!たまにですけど私、絵画とか見るので」
そう言ってアヤノさんは持っていた箸を置き、脇に置かれていた水を一口飲む。その所作はとても丁寧で、動きによどみが無く上品だ。良いところのお嬢様なのだろうか。そこらへんは前回会ったアヤノさんを見ても思った。だが首から上の容姿と口調は可愛らしい女子大生のようで、なんとなくチグハグさを感じる。
「あのー…、つかぬことを聞くんですけど。」
耐えきれなくなった俺は、アヤノさんの態度について直接聞いてみることにした。
「はい?」
アヤノさんは首をコテンと傾けた。
「アヤノさん、なんかイメージ変わりました?」
「?」
アヤノさんはピンときていない様子だ。
「前回、猫探しの際にお会いしたときは、あまり喋らなかったじゃないですか。ご自身でも感情を表に出すのが苦手とも言ってましたし。でも今日は結構明るい感じがしたので、なんかあったのかなって。」
するとアヤノさんは急に顔を赤らめ、恥ずかしそうにうつむき、「変…ですか…?」と言った。
俺は「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて…」と手を振って精一杯否定する。
アヤノさんは変わらずうつむいて黙っている。
俺はやらかしたのかと思い冷や汗が止まらなかった。彼女の返答を待っている時間はとてつもなく長く感じられた。
「勉強したんです…。」
「勉強…」
俺は予想外の単語が彼女の口から発せられたことで、オウム返しをしてしまった。
「以前言ったように私は感情を表に出すことが苦手ですし、人見知りです。だからあの時も本当はもっと話したかったんですけど、なかなか話せなくて…。ですが私がすんなり猫を返さないことにイライラしていたのにも関わらず、達川さんは私とコミュニケーションを取ろうとしてくれました。そんな優しい人に私は冷たい態度を取ってしまって申し訳なかったんです。だから愛想良くなろうと自分なりに勉強して今日に臨んだんです…」
小さい声で恥ずかしそうに、そして声色が少しずつ前のアヤノさんに戻っていく姿を見て、俺の心の中の不信感は消し飛び、代わりに彼女に対する好意が滝のように流れ込んできた。
この人はただ不器用なだけだ。自分の弱さを克服しようと自分なりに頑張って、でも少し空回りして。そりゃ行動に一貫性が感じられないのも当然だ。彼女自身が変わろうとしていたのだから。すげぇ可愛い。
だが、まだひとつ疑問が残っている。自分から聞くのは恥ずかしいが。
「じゃあ、帰り際にDM送ってくださいって言ったのはどうしてなんですか?」
「そ、それは…。」
アヤノさんは目を泳がせ、肩をすくめる。
「達川さんが良い人なので…、今後も仲良くしてくれたら良いなって…」
その瞬間、俺は今にも大きくガッツポーズしてしまいそうだった。
女優並みのルックスを持つ女性が恥ずかしそうに、俺と仲良くしたいと言っている。
こんな嬉しいことがあるだろうか。
決めた。
俺の中に迷いはもう無い。いつかこの人に告白しよう。
俺は拳をぎゅっと握りしめた。
***
ランチを済ました後、俺たちは美術館や遊園地を巡った。自分でも子どもらしいデートプランだとは思うが、お互いに楽しんだと思う。
最後のディナーは予約した伊月おすすめのお店。写真以上に美味しそうなローストビーフや
高級な夕食を嗜んだ後、俺たちは駅で解散することになった。
「今日はありがとうございました。あんな素敵なお店を予約してくれるなんて嬉しかったです。」
「こちらこそ。とても楽しんでもらえたなら良かったです。」
アヤノさんは深々と頭を下げる。この丁寧さが抜けないところはお嬢様だな。
「また都合を合わせて行きましょう。今度は私から誘えるように頑張ります。」
アヤノさんはにっこりと笑い、決意表明をする。
「ええ。楽しみにしてます。じゃあもう寒いですし、解散にしましょう。」
「はい。では、また。」
そういってアヤノさんは手を振ってバス停へと向かう。
彼女がバスに乗るのを確認すると、俺は今日を振り返りながら、駅の改札口へと向かう。
正直、最初のアヤノさんの変わりっぷりには驚いた。常にあの無表情で一日を過ごされる覚悟でもいたので、そういった意味では救われたとも言えるか。
自分を変えようとして可愛らしい服装で身を纏い、口調まで可愛らしく。今思えばメッセージでのやりとりで積極的だったのも勉強の一貫だったのだろうか。
というかあれが彼女本来の性格なようにも感じる。心を開くことに時間がかかるだけで、一度心を開けば、ああいった態度になるのだろう。今日一緒に過ごしてそう思った。本当に愛らしい性格をしている。
久々にこんなに誰かを好きになった。なんとなく人生に希望を持てなくなっていたが、アヤノさんのためなら生きていけると感じられるほどに。
今日から俺は新しいスタートを切ろう。アヤノさんと付き合えるように頑張ろう。
そう決意し、俺はスマートフォンをかざして改札を通った。
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