23 嵐の晩に
寝苦しさにリーシャが目を覚ます。原因はすぐ判った。ギュッと強い力でライナムルに抱き締められているからだ。
「ライナムル……苦しいわ」
ライナムルがハッとする。
「ごめん、リーシャ、つい……」
慌ててライナムルが腕の力を抜いた。
風はいつの間にか吹き荒れて、窓をがたがたと揺らしている。時おり突風がバンッ! と、けたたましい音を立てる。雨は容赦なく叩きつけているようだ。
「随分あれているようね」
リーシャの声に応えるライナムルの声は聞こえない。
「ライナムル?」
様子を窺うと、ライナムルはじっと一点を見詰め、微動だにしない。
「ライナムル?」
「うん……」
今度は辛うじてライナムルが応えた。
「嵐が怖い?」
「いや、そうじゃなくって――ううん、そうなのかな?」
「ライナムル?」
「崖を雨水が流れる音が聞こえる。その流れに逆らって昇ってくるなにかがいる」
「えっ?」
「でも、これは幻聴。子どものころから嵐の夜に聞こえる幻聴。調べて貰ったけれど、そんななにかはいないんだ」
「ライナムル――」
「幻聴はそれだけじゃない。森の中で多くの生き物が呻いている。何を訴えているのかは判らない。でも……僕を呼んでいるのは判る。僕はいつかあそこに行かなくちゃいけない。だけどきっと、行けば僕の命はない」
「やめて!」
リーシャが肘を立ててライナムルの頭を両腕で包み込む。頬がライナムルの
「なんでこんなに冷えているの?」
「驚かないで。嵐の夜はいつもこうなんだ。いろんなものが僕を守ろうと動くから、僕から命を奪っていく」
「ライナムル! それは守ろうとしてるんじゃない、殺そうとしているのよ!」
「あぁ……そう言われるとそうなのかもしれないと思う――オッキュイネは、嵐の夜には頼れない。だからいつもは一人だ。だけど今夜はリーシャがいる。これでもずっとマシなんだ」
「ライナムル……」
ライナムルを嵐になんか取られるものか。悪霊だか魔物だか知らないけれど、わたしがライナムルを守る――リーシャの腕がさらに強くライナムルを包み込む。するとライナムルの黄金の髪がざわざわと蠢き始め、リーシャの腕に、髪に、首に、身体にと巻きついてくる。それは優しく撫でるように、ゆらゆらと沿ってくる。
「ライナムル、髪が……」
「リーシャを感じているんだ。心配ない、髪は流石に僕を傷つけたり苦しめたりしない。リーシャの体温を感じて、力を貰っているだけだよ。だからリーシャ、怖がらないで。好きにさせてあげてくれるかい?」
「ライナムルの意思でそうしているんじゃないの?」
「うん、髪は僕の一部なんだろうけれど、僕の意思では動かせない」
「本当にライナムルって不思議ね」
ライナムルの腕がリーシャの背中に回されて、リーシャを抱き返してくる。小さな子どもが暗い夜に心細がって縋ってくるのによく似ている。
「リーシャ、そんなに頑張らなくても大丈夫。嵐の夜は辛いけれど、我慢していればやがて嵐は過ぎていく。オッキュイネに包まれて二日もじっとしていれば回復する。リーシャがいてくれるなら半日で回復できるよ……だから、眠ってしまおう。リーシャの呼吸と心臓の音が、僕の気を紛らわせてくれるはずだ」
リーシャに寄り添い瞳を閉じるライナムル、その頬や髪をそっと撫で続けるリーシャ、けれどリーシャもいつの間にか睡魔に引き込まれていった――
小鳥の
リーシャがそっとライナムルの髪に触れる。昨夜と同じでクルクルと指に巻き付いてくるライナムルの髪は、昨夜と違って黄金色には輝いていない。辛うじて金色だけど、ずっと薄い色に変わっている。
「リーシャ……」
気付いたライナムルがゆっくりと目を開ける。
「今朝の僕は何歳ぐらいに見える?」
そう言ってうっすらと微笑んだ。
本当のところが言えずに泣きそうなリーシャ、ライナムルはそれ以上何も言わず、ベッドから起き上がると
「うん、今日は随分若いみたいだ。いつもは起き上がるのにも苦労する」
そう言って姿見を覗き込む。
「四十代くらいかな。四十代半ばって感じだね」
「ライナムル……」
「そんな顔をしないでリーシャ。すぐに元に戻るから。いつもくらいには若返るから」
堪らなくなったリーシャがライナムルに抱き着くと、ライナムルもリーシャを抱き返す。ライナムルの背はいつも通りだ。きっと背は、成長しきってしまっているのだろう。リーシャの頭はライナムルの顎にも届かない。
リーシャの目の前で、ライナムルの白っぽくなってしまった金髪がリーシャの頬や髪に絡みつくように踊る。眺めていると白っぽさがだんだん消えて、元の色に戻っていく。
見あげるとライナムルも首を傾げてリーシャを覗き込んだ。切ないリーシャが腕を伸ばし、ライナムルの頬に触れる。触れられたライナムルの頬に赤みが差し、少し肌が艶を取り戻したように見えた。涙が溢れてくるのは判ったけれど、なぜ溢れてくるのかリーシャには判らない。涙を拭うこともせず、リーシャは両手でライナムルの頬をゆっくりと撫で続ける。ライナムルはそんなリーシャを見つめ続ける。
そうしていたのはほんの少しの間だけ、ライナムルが視線をリーシャから逸らし、応接室に向けた。
「ロンバスが来た。ワゴンを押している――リーシャ、食事にしよう」
自分の顔に触れ続けるリーシャの手をライナムルが外す。寂しいリーシャの手は仕方なくライナムルの袖を掴んだ。
応接室に行くと、廊下に通じる扉が開錠される音が聞こえた。すぐに扉は開きロンバスが食事のワゴンを押して入ってくる。
「ライナムルさま、今日は思いのほかお若い」
ライナムルはクスリと笑ったが、ロンバスの冗談がリーシャには許せない。それでもロンバスにあたるのもどうかと黙っている。
「いつもはどんな感じなの?」
そう問う口調が少しとげとげしかったかもしれない。
「いつもはヨボヨボですからね――八十と言ったところでしょうか」
「そんななの?」
驚くリーシャにライナムルが苦笑する。
「でもね、母上が言うには、呪いが解ければ、僕は八十過ぎまで元気で過ごせるらしいよ」
「ライナムルさまの寿命が八十過ぎまであってようございました。六十だったら、もう何度も死んでしまっていますからね」
「いやな冗談はやめて!」
リーシャがとうとう怒鳴り声をあげた。さすがにロンバスも拙いと思ったのか、『申し訳ありません』と小さな声で呟いた。ライナムルと二人の時はこんな冗談で笑い転げていたのかもしれない。
ライナムルは何も言わなかったけれど、頭の固い女だとリーシャを思ったかもしれない。今日はなんだか孤独を感じやすい日なのかな? そう思って涙ぐみそうになるが食事が美味しくなくなると思い直し、涙を堪えたリーシャだ。これ以上雰囲気を壊してはいけない。
今朝はスクランブルエッグ、粉チーズを掛けたグリーンサラダ、細く切って揚げた芋、オニオンスープにチーズをのせて炙ったもの、チーズを練り込んだパン、発酵させたヤギの乳を掛けた数種類の果物、ホイップクリームを飾ったチーズケーキの皿もある。
「ドンカッシヴォは僕を早く回復させたいみたいだね」
メニューを見てライナムルが溜息を吐いた。
昨日の嵐はかなり荒れたようですからね、ロンバスが配膳しながらライナムルに応える。
「発酵食品は回復を早める、ドンカッシヴォの持論ですから」
「チーズだらけだ。それに僕、ヤギの乳を発酵させたのは苦手なのに」
「酸っぱいからですか? ハチミツでもお持ちしましょうか。それにしてもその顔で、子どもっぽいことを言わないでください」
ロンバスは笑いを堪えているようだ。
そのロンバスの顔を見てリーシャがやっと気が付く。さっきの軽口はリーシャを安心させるためのものだった――
「そうよね、いつものことなのよね……ごめんなさい、ロンバス。わたし、怒鳴るべきではなかったわ」
するとロンバスがチラリとライナムルを見る。ライナムルは知らん顔でスクランブルエッグを突いている。
「いいえ、リーシャさま。リーシャさまが怖がるもの
「ロンバスも?」
「えぇ、ライナムルさまが十歳の時からわたしはライナムルさまをお守りしています。ある日、嵐の去った朝、わたしが部屋に行くとそこには昨夜とは全く変わってしまったライナムルさまがいらっしゃいました」
ロンバスが懐かしむような目をする。
「昨夜は見間違うはずもなく十歳の少年、それがたった一夜で四十を超えた中年、背も高くなり、話に聞いて承知していたのに、目の前の景色はとても信じられるものではありませんでした」
けれどね、すぐに元に戻るのです。元通りとまではいかないものの、時間が経てばちゃんと若返る。
「そんなことが何度もあって、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていました。リーシャさまの感覚が正しいのですよ。わたしには初心にかえる必要があったのです」
「ロンバス――」
「ライナムルさまが、リーシャさまは回復の魔法を放っていると仰いました。ライナムルさまのお見立てに間違いはないのだと、今朝、しみじみを思いました。ライナムルさまのお老け込みは回数を重ねるほど、嵐の規模が大きいほど、より進行するようです。今回この程度で終わったのはリーシャさまのお陰――どうぞリーシャさま、ライナムルさまのお傍にいて差し上げてください」
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