50話 死生観。
<< 帝国科学院より付託を受けたベアトリーチェ先端研究所は、ウロボロス・II型ウイルスについて── >>
名称の由来はウイルス粒子の形状が
ともあれ、トスカナを見舞った災厄について各領邦のメディアが伝え始めたのは、シエーナ広域救急指令センターが最初の通報を受けてから約七十二時間後の事となった。
報道が大幅に遅れた理由は幾つかの不幸と不運、さらには怠慢が重なった結果である。
まず、領邦外へ情報を発する業務を担う各メディアの外信部が、局所的流行の初期段階でウロボロス・II型ウイルスの犠牲者となったのだ。
部外者は立ち入れないセキュアなオフィスで働く彼等が感染リスクに曝されたのは、
なお、外信部以上に壊滅的な被害を被ったのが、トスカナ領邦の医療行政を司る中央保健福祉局だった。
医療関係者に強い影響力を持つ福音の頸木が暗躍したのである。
こうして、
だが、最も責められるべきは──、
「な、なぜだ?」
慇懃無礼な態度を崩さぬ譜代の家臣と高官達を前に、ジャンは弱々しくも抗議の声を上げた。
狂妹シャルロットの館をケヴィンと共に飛び出し、領主屋敷へ戻るまでの道すがら、英雄トール・ベルニクの逸話を高名な右腕に乞うて身を奮い立たせて来たのだ。
自身が生を受けた邦を襲う未曾有の危機を前にして、ジャンはピュアオビタルとしての責務を果たそうと動き始めたのである。
「我が妹は継承権を放棄すると明らかにした。貴方等も耳にしただろう」
他方、家の名誉を取り戻す為に粛清の嵐を猛らせる腹積もりだったシャルロット・トスカナは、奇怪な流行り病の報せを受けると、一転して独り館に立て籠もる事に決めてしまっていた。
「私とて未だ浅学非力な身上との自覚はある。とはいえ、当面は私が領主となり危機に当たる以外の選択肢などあるまい?」
家臣達から
父ピエトロが大逆の罪を犯したとはいえ、彼は紛うこと無くトスカナ家の長子であり、尚且つ女帝ウルドも直系の子孫が継承する事を認めているのだ。
「──恐れながら、ジュニア様」
と、うっそりとした声音で前に進み出て来たのは、穀物管理局に対する利権と影響力を一手に握る家臣だった。
穀物が産業の根幹であるトスカナにおいては領主に並び立ち得る権力者であり、シャルロットが書き連ねた粛清リストの筆頭にその名が上がってもいる。
「無論、妹君が継承権を放棄された旨は聞き及んでおりますぞ。とはいえ、元より全ては妹君の滑稽話であろうというのが我等の理解なのですが──。何分、シャルロット様は滑稽話が実にお好きですからなあ、クホホホ」
兄を殺しかけた不肖の妹シャルロットは、オカルティズムに傾倒するが故に軽んじられるのか、あるいはその逆か──。
同情の念も湧き始めたジャンだったが、他人事ではないぞ──と心中で首を振った。
軽んじられているのは、妹ではなくトスカナ家なのである。
「そしてまた──、ジュニア様ご自身も邦を捨て、
トスカナ領邦継承を望んでいた妹との争いを避ける為、そして何よりロマノフ家の犬として生きる不自由さを嫌い、ケヴィンの手を借りジャンが領邦から姿を消そうとしたのは事実である。
兄妹で相争う事態を懸念する前に、何れが継承するにせよ家臣団の支持を得られるか否かを憂慮すべきだったのだろう。
家臣達が畏怖するのは主人たるトスカナ家ではない。小指の先で小領トスカナ如きは揺さぶれるであろうロマノフ家である。
この全ては、ロマノフ家の犬に甘んじる怠惰が生み出したトスカナの悪弊なのだ。
父ピエトロは手段を誤ったが、この現状を打破しようと試みたのである。
その意思と意気を、せめても息子である己は汲んでやらねばと改めてジャンは決していた。
だが、かように純な想いも、一朝一夕には家臣達と共有できるはずもない。
「唐突に舞い戻られたかと思えば──どこの──」
そう言いながら長広舌を連ねる家臣の男は、ケヴィンに対して粘着質な視線を向けた。
「──誰とも知れぬ人物を我等より側に置いておられる」
ベルニク領邦軍中央管区総司令官ケヴィン・カウフマン大将──。
トールの右腕として数多の武功を成した男を、
急場でトールより与えられた帝国宰相特使という立場を、ケヴィンは未だ明らかにするのを躊躇っていた。
故に、家臣から見れば高名とはいえ、ケヴィン・カウフマンは単なる軍人である。
「これでは我等も容易には首肯できませんぞ。 ふむん──やはり、まずは顧問官の決済を仰ぎませんとな──」
遠慮の無い家臣の言葉にジャンは
顧問官とは、領主の補佐役として置かれるトスカナ独自の権威で、領主不在の際には代官としての役割も果たす要職である。
その職に就くのは、当然ながらロマノフに連なる者だった。
「そうか……」
と、口惜しそうに肩を震わせるジャンの背を、後方からケヴィンは黙って見詰めていた。
ケヴィン自身はウイルスの恐ろしさをトールから既に聞かされており、領主の継承問題など手早く片付けてしまい、軍が戒厳令を敷いて迅速な措置を取るべき局面だと理解はしている。
おまけに、トールの予想が正しいなら、状況はさらに悪化するはずなのだ。
──良きことも悪しきことも、閣下の見通しが外れた試しなど無かった。
やがて来たる銀河の覇権を賭した新生派勢力と復活派勢力の決戦こそ、
──恐れ続けていた大規模な艦隊戦だが……。
旗艦ブリッジの緊張と喧騒、肩で戯れる猫様、荷電粒子砲の咆哮、飛び交う閉域EPR通信、まかり間違って生身で外に出てしまえば、例えオビタルと言えど数十秒後には酸素が欠乏し意識を失う。
これら全ての、巨大な虚空と比すなら矮小な物理事象のタペストリーが、宇宙空間における艦隊戦なのである。
──だが、今、その全てが懐かしい……。
家族と過ごす長期休暇を経た後、期せずして他領の政争に絶賛巻き込まれ中のケヴィンは、軍人こそが己の天職なのだと遂に自覚したのである。
──やはり、こんな所では死ねんな。
長年を共に過ごし、そして共に戦場を翔け巡ったケヴィンは知っていたのだ。
トール・ベルニクの抱く本心を──。
立場上、表立って口にはしなくなったが、何かに目覚めセバスと二人バスカヴィ宇宙港から屋敷へ舞い戻った時から一切ぶれる事がない。
彼は想い続けている。
彼はその為に手を打ち続けている。
彼は夢を実現すべく代価を支払い続けている。
──正直に言えば、私も見たくなってきたのだ。
それは上司の影響か、あるいはY染色体の為せる狂気なのか。
人命と道徳に対する冒涜である。
──圧倒的──遥かな古典の時代より──あゝ、いや、この際は架空の戦記までも含もう。もはや史上類を見ない、そう──誰も想像すらした事の無い──。
例え朽ち果て原子に還る事になろうとも、戦史に不朽の名を刻むであろう戦いを、トール同様にケヴィンも焦がれ始めていたのだ。
故にこそ、生き残る為に最善を尽くす必要があった。
生きて、そして戦場で死ぬ。
「方々」
消沈し、次の言葉を失っているジャンの前へ進み出た。
トール・ベルニクから役目と肩書を与えられてはいるが、一介の軍人如きが政治に介入する過分を小心な男は逡巡し続けてきた。
だが、事態は切迫している。
与えられた権力と、剣を振るわねばならない。
「帝国宰相特使である。まずは相応に畏まられよ」
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次の話を読むと感慨深い……かも。
[起] 2話 目覚めれば逃亡中。
https://kakuyomu.jp/works/16817330648495045364/episodes/16817330650156492361
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