49話 男泣き。
──これでようやく、私の待ち望んだ日々が訪れるのだろうか。
遥か遠く離れたイリアム宮から数えるなら、侍従長シモン・イスカリオテは四十と余年、
先帝──慈愛の波動を放つイドゥンに仕えていた頃の記憶は、
他方、
道化と並び尻を蹴られ、頬を打たれ、罵詈雑言を浴びせられた暗黒のイリアム時代に始まり、蛮族に対して宣戦布告、カドガンが寄せて来たなら籠城戦、裏切ったマクギガンへは親征を為し、挙げ句の果ては御召艦に乗り込み聖都宙域へ押し入る女帝を観た。
決死の思いでシモンが敢行し敢え無く失敗した女帝弑逆をも含め、余りに峻烈な記憶の数々が実際以上の年月を共に過ごしたかのような錯覚を覚えさせる。
──その間、私はずっと願ってきたのだ。
詩篇大聖堂にて身柄を押さえられたのみならず、シモンが青年期に犯したある過ちを知るトールに脅されて、女帝ウルドの側から故郷へ逃げ帰る望みは遂に叶わなかった。
──本日、万感の思いが──遂に──、
というシモンの密かな感慨は、少しばかり華やぐ女帝の弾む声に遮られた。
「見よ、フェオドラ。あの土手腹は余にも覚えがあるぞ」
そう言ってウルドが指差す先には、宇宙港の天蓋部ゲートから降下する戦艦の姿がある。
ジャンヌ・バルバストルと百名の勇士が血と焔に染めたフェリクス宇宙港旧管制塔跡地は、ベルツ家残党が率いた反乱軍に対する戦勝を記念する施設となっていた。
同戦勝記念塔の最上階は灯台を模した構造となっており、宇宙港全域を見通せる展望台として平素ならば観光客で賑わっている。
だが、新生派帝国における最も重要な女──やがて生ずるであろう双児にとってかけがえの無い女が訪れている為、厳重な警備体制が敷かれていた。
本日のフェリクス宇宙港は、特別な緊張感に包まれているのだ。
「御親征の折にでしょうか?」
女帝ウルドの懐妊を契機として、フェオドラは父ロスチスラフの死から立ち直っている。
トール・ベルニクの宣言により、妹オリガに対する嫌疑が少なくとも公式には晴れた点も大きく寄与していた。
無論、口さがない噂は今後も絶えないだろうが──。
「うむ、然り。あれなるはベルニクが火星方面管区艦隊、旗艦マウォルスⅣ世。忠義者のパトリック・ハイデマンが御しておる」
女帝ウルド乗艦の栄に浴した戦艦として三つの艦名が記録されているが、その何れもベルニク領邦軍に属したのは歴史の必然と言えよう。
トールハンマー、マウォルスⅣ世、そしてエク──については後に語る。
「老将は、定刻通り迎えに参ったな」
慣例よりも些か時を急いだ里帰りの日、早朝からのウルドはすこぶる機嫌が良い。
出産を終え産褥期が過ぎるまでの一年余とはいえ、
「──さて、我等もそろり花道へ向かう頃合いか。 委細、整っておろうな?」
戦勝記念塔の地下通路を抜けた先には、搭乗ゲートへ至る花道が用意されていた。
帝都フェリクスから女帝が船出するのを多数の臣民が歓呼の声を上げ見送った──という絵をメディアで流させる必要が有ったからである。
さらには──、
「万端で御座います、陛下」
と、令嬢然として応えたクリスティーナ・ノルドマンを花道に同道させ、彼女を
特別な権官である
当初、忠実な名誉近習であるフェオドラを据える事も検討されたが、ベルニクへ連れ立ちたいウルドの意向と、
だが、これが期せずして望ましい結果をもたらした。
父に代わり領邦の外交事も担ってきた伯爵令嬢クリスは、奴隷船における少女時代の逸話も相まって庶民からの人気が高い。
その為、始末をつけたとはいえ一部諸侯の裏切りがあった直後に、女帝が帝都を離れる事に対する衆目の懸念を払底する効果があったのだ。
「ふ──万端か。卿の物言いは、常の如く子気味が善いわ」
尚且つ、ノルドマン家の隆盛に全てを捧げる覚悟のクリスは、此度の任官について家格を押し上げる絶好機と捉え野心に満ち満ちていた。
女帝ウルドも、その意気や由──と概ね好意的に受け止めている。
過去の彼女ならば、忌憚なく才気に
「ならば、いざ参ろうぞ──あいす──い、いや、夫の生家へな」
そう言ってウルドが歩き出すと、数歩の距離を置いてクリスとフェオドラが続き、ベルニクへ伴う召使い達も
出立セレモニーには同道しない侍従長のシモンは、降下を続けるマウォルスⅣ世の艦影を背景に立ち尽くしている。
──つ、遂に、行かれるのだ……。
期限付きとはいえ、シモン・イスカリオテは女帝から解放されるのである。
今宵のオリヴィア宮に女帝は居ない。明日も居ない。明後日も居ない──。
もはや、乗馬服姿の背中に怯える必要も無ければ、唐突にプールを作れなどと難題が降りかかってくる心配をせずとも良いのだ。
故に、シモンは両の拳を突き上げ、思い切り快哉を叫びたい衝動に────だが、しかし──。
唐突に心中に湧き起こった感情の波は余りに圧倒的で、尚且つ自分自身でも理解が出来なかった。
──ど、どういう事なのだ?
シモンは訳が分からず、混乱していた。
人々の視線が己に集まっている事が恥ずかしく──、そして、何より恨み、何より畏れ、何より敬い、何より──何より──何──。
「泣く程の事でもなかろう、シモン」
何よりウルドの視線が痛かった。
まさしく、彼女の言う通りなのである。
僅かな期間、女帝がオリヴィア宮を空けるだけであるにも関わらず、金で涙を流す
快哉を上げるはずが、余りにも大きな喪失感に襲われたのだ。
「案ずるな、シモン」
大の男が見せる涙を、軽んじる女ではない。
シモンが耳にした事も無いほどに、ウルドは優しい声音となった。
「立派な双児を成し、再び戻って参る。その折は、
女帝の言葉に真心を感じたシモンは、益々と嗚咽が止まらなくなる。
「そもそもが、フェリクスとベルニクは目鼻の先であろ」
フェリクスポータルを抜ければ、そこは太陽系の火星近傍なのだ。
「余暇にでも顔を出すが良い。茶ぐらいは振る舞ってやろう」
「は──うっううっ──がたき──ううっ──せっっ──」
シモンは泣き崩れ、床で肩を震わせた。
虫の知らせだったのだろう。
「うむ──ではな」
この日が、二人にとって
◇
一陣の風になびくバイオレットの髪を頬から払い、女男爵メイドのマリは丘陵地に拡がる
ミコに連れられて、蜘蛛の巣と呼ばれる巨大な空間から昇降機で外へ出ると、丘陵地を見回せる高台となっていたのだ。
「どこだ──と聞いてもカンバラシと応えるんだろうが──で、ここは、どこだ?」
「神原市です」
ミコの回答を聞いて、コルネリウスは苦笑いを浮かべ肩を竦めた。
「トスカナ──いや、イーゼンブルク──」
これだけの麦穂を実らせている地表世界と言えば、何れかの領邦──と考えるのがオビタルの一般常識なのだ。
蛮族たるグノーシス船団国出身のコルネリウスとて、幾度も略奪を働いた宙域として知悉している。
「だが、やはり、地球ってオチなんだろう。ところで、兄弟──」
妙齢のマリや、年齢ばかりか正体不詳のミコではなく、同年代の男と不可思議を共有しようとオリヴァーに声を掛けたコルネリウスは言葉の途中で口をつぐんだ。
「おい、どうした?」
オビタルと古典人類の間に産まれた男は、自らの頬を伝う雫に指先で触れていた。
「──俺とて──わ、分からん──なぜ──だ?」
彼が抱く当然の疑問に答えるなら、
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