37話 逃げるな!
「き、消えたい?」
「はい」
ケヴィンの妻子がプライベートラウンジに設えられた寝室へ入るのを確認した後、ピエトロ・トスカナ・ジュニアは宙港職員である事を示す制帽を取った。
銀髪と、何より己の身分を隠す為に、制服という隠れ蓑を利用したのだろう。
「私は消えたいのです。ここから──トスカナからです」
ケヴィンの向かい側に座ったジュニアの顔立ちは、父である故ピエトロ・トスカナの面影を全く残していない。
遺伝の妙味か、それともケヴィンの如く庶民には預かり知らぬ事情があるのか──。
「そのう、私が申し上げるのも憚られるのですが、ピエトロ卿は──」
「ジュニアで──いや、ジャンとお呼び下さい。母からはそう呼ばれていましたし、私もその方が落ち着きます」
「は、はあ」
どうにも調子の狂う相手だ、とケヴィンは思った。
あらゆる慣例と常識を軽んじるトール・ベルニクは例外として、ピュアオビタルとはそもそもが尊大に振る舞うべき存在なのだ。
幼少期よりその様に躾けられ、尚且つ周囲からもそれを期待される。
「無論、父の大逆に対して陛下より寛大な沙汰が下った事は感謝しております」
首謀者を排出したサヴォイアとは異なり、トスカナやブルグントは領地を安堵された上に実子への権力移譲も認められていた。
つまり、ケヴィンの目前に座る男が、トスカナの全てを受け継ぐのである。
「──が、領主など私は担える器ではありません。ああ、いや、この期に及んでは、正直な思いを申し上げるべきか」
ピエトロ・トスカナ・ジュニア改め、貴族らしからぬ男ジャンは背筋を伸ばした。
「爵位も領地も、この一切を受け継ぐつもりがないのですっ!」
威風堂々、貴人として当然の責務を放棄すると宣言した男を前にして、ケヴィンは咄嗟には返す言葉が浮かばなかった。
「私は幼少期より固く、それはもう硬く固く堅く決意しておりました。貴族とは名ばかりの我が血筋には何の未練もありません。ブルグントも同様ですが、我ら小領など所詮はロマノフ家の犬なのです」
「し、しかし、さすがに領地と領民をお捨てになるのは──」
ロマノフ家の名が出た事で、かの富豪貴族に対する強い反感をジャンが抱いているとケヴィンは察した。
とはいえ、それを理由に領地を捨て去るなど無責任が過ぎよう。
何より高貴なる者の義務を全うしない者は、アフターワールドへ召される資格もない。
だが、ジャンにはジャンの論理があった。
「無責任ではありましょうが、トスカナの領主如きは誰にでも務まるのです。言ってみれば穀物集積所の管理人に過ぎず──いや、その管理すらも実際に差配しているのは役人とロマノフの者共です」
オビタルを支えるトスカナの地表世界から産出される穀物は、穀物メジャーの一翼を担うロマノフ商会が全ての利権を支配していた。
また、その穀物から得られる利益の大半は、オソロセアの財閥であるロマノフ家に還流されるシステムが構築されており、ジャンが語った様にトスカナは流通前の穀物を保管する倉庫としての立場に甘んじていた。
「大規模な穀倉地を有しながら我らに入る税収は微々たるものです。さらに言えば、買い叩かれる一方の生産者も潤う事が無い」
資本と契約に支配され、現状を変える手段は存在しない。
また、ロマノフ家とオソロセア領邦軍の一部は蜜月関係にある為、純軍事的に解決するなど以ての外である。
「ロスチスラフ侯ご存命中は、この不平等に改善の兆しも見えて来ておりましたが──」
ロマノフ家はオソロセアを中心とした辺境諸領邦に対し、財閥の経済力や閨閥を梃子として利用し強い影響力を保持し続けて来た。
それに対して抗い、一定の成功を収めたのが亡きロスチスラフだったのだ。
旧家臣団を一掃し新たな子飼いの家臣団を育て、アレクサンデルの裏書きを得た上で船団国と親交を結ぶなどして、オソロセア領邦内におけるロマノフ家の政治的影響力を相対的に弱体化させた。
だが、ロスチスラフ亡き今、同家を牽制し得る者はオソロセアには存在せず、益々と彼等の力が肥大化していくのは目に見えている。
それが読めていたからこそ、ロスチスラフは権力を前大公の忘れ形見に禅譲すると決め、さらには三人の娘達を分散した上で安全な場所に配したのだ。
三女オリガは、一時的な汚名を被ろうとも、無役の禿翁ラニエリが支配するヴォイド・シベリアへ渡った。
ドミトリと医療関係者以外は直接に面会する事も叶わない。
そして、次女レイラはオリヴィア宮に在り、最高権力と無法者を夫に迎えた女帝ウルドの寵愛と庇護を受けている。
長女フェオドラのみがオソロセアに戻ったが、エカテリーナへの権力移譲手続きを進める為に過ぎない。
また、政治に関心の薄い彼女ならば、妙な焚付けに乗せられて危険な道を進む恐れも無かった。
こうしてロスチスラフが三人娘の安全を優先した結果、オソロセアという大きなピザから最大の取り分を得るのは、前大公の忘れ形見エカテリーナと、彼女を庇護し続けてきたロマノフ家となろう。
「つまりは、ロマノフ家の春が来るのです。翻って我らには厳冬が──」
ロスチスラフという老獪な枷から解かれたロマノフ家は、オソロセアだけでなくトスカナやブルグントに対してより強い締付けをして来るとジャンは考えた。
既にその気配はあるのだ。
「大逆を庇い立てするつもりはありませんが、父の愚行はその流れに抗う意図もあったのでしょう」
そう言ってジャンは肩を落とし息を吐いた。
「私にはそれに抗う能力も、恥ずかしながら気概もありません」
彼はロマノフの駄犬として生きるより、いっそ野に下り自由に生きたいと考えたのである。
それが茨の道であると知らぬ無知は、貴人として育てられた無垢さ故だろう。
「そんな折、トール伯の懐刀であるケヴィン殿がトスカナに参られていると聞き、まさに女神の天啓を得たりと感じたのです。ベルニクへ逃げよと!」
「は、はあ──」
と、ケヴィンは些か気の抜けた返事をしたが、ここまで奥面も無く「逃げる」と宣する男を嫌いにはなれなかった。
今となっては遥かな昔日にも思えるが、彼にも経験があったからである。
──卑怯、無責任と言うならば、俺とて同じなのだ……。
蛮族に立ち向かうべく月面基地に集った将卒と艦艇、ルチアノ・グループの商船、そして無能と見做されていた若きトール・ベルニクの背──。
ケヴィンは彼らを捨て置いて逃げようとしたのである。
それを生涯の恥と胸に刻んではいたが、一方でジャンの気持ちも大いに理解できた。
──誰だって逃げたい時はある。
人は弱いとケヴィンは知っている。なぜなら己自身がそうだからだ。
──俺は卑怯で、気が弱く、勇気も無い。そういえば頭もさほど良くは……。
誰も彼もがトールやジャンヌ、あるいはロスチスラフに成れはしない。
自ずと分限があるのだろう。
──だが……、
ケヴィンは瞳を閉じた。
──あの日、閣下に見つけて頂かなかったら、俺は一体どうなっていたのだろうか。
逃げた先でベルニク軍の勝報を知ったケヴィンは、慌てふためき妻子を連れて親戚の暮らすサヴォイア領邦辺りへ駆け込んでいたのだろう。
──ん? いやいや、待てよ。今まさに閣下はサヴォイア攻めに向かわれたのだから、またも俺は逃げ出さなければならなくなるな……。
一度逃げたなら、延々と逃げ続けなければならない。
嘘に嘘を重ねた者の末路と同じである。
それは実に辛い人生と思えた。
現在のケヴィンは、文字通りトールに捕まえられた事で幾多の死線を潜らされた上、期せずして分不相応と感ぜられる立場となった。
中央管区艦隊司令という職責に対する重圧から胃痛に悩む日もある。
己の無力と至らなさを痛感させられる事など日常茶飯事だ。
──だが──少なくとも、朝の目覚めは悪くない……。
その理由は単純にして明快である。
「ピエトロ卿──あ、いや、ジャン殿」
ようやくケヴィンは閉じていた瞳を開いた。
妻のリンダが場に居合わせたなら、寡黙な少年の瞳が秘めていた煌めきに囚われた一人の少女を思い起こしただろう。
「逃げるのはお薦めできません」
「──え?」
またも分限を超えた荷物を背負う羽目になる予感に怯えを感じたが、ケヴィン・カウフマンには確信がある。
「まずは、貴家の状況をお聞かせ下さい」
逃げてはならぬ、と。
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