26話 混迷のサヴォイア。
話は──、遠方から迫りくる意外な敵の存在を、マリ達が巫女から聞かされた頃より少し遡る。
サヴォイア領邦は卑近な問題で混乱の極みにあった。
領主アイモーネ・サヴォイアが叛逆者として不名誉な死を遂げた上、後継者である彼の愛息も父の陰謀に加担した嫌疑によって帝都フェリクスに拘禁されている。
結果、暫定的に領主権を握ったのは彼の妻ヴィオランテとなるのだが──、
「あの忌々しい高慢ちきな女から──」
喪服のような黒衣を好むクラウディア方伯夫人と異なり、アイモーネの妻ヴィオランテは乙女の如く純白のドレスを好んだ。
「今すぐ、
悲鳴に近い彼女の怒声が屋敷に響いたが、呼び出された重臣達は頭を下げたまま動き出そうとはしない。
誰もが不可能事であると分かっていたからだ。
オリヴィア宮の大聖堂で悲劇が起きたことは事実であり、それに直接関与した物的証拠は無いものの異端の徴を纏っていたアイモーネの心証は非常に悪い。
さらに決定打となったのは、化け物を生み出したとされる奇妙な植物を、息子アントニオがヴォルヴァ幼年学校の敷地内で、思想的に偏った学校長の協力を得て密かに育てていた点である。
事ここに至っては、アイモーネの名誉を回復する術は既に無く、大逆に加担したアントニオも未成年とはいえ極刑を課せられるだろうと目されていた。
つまり、サヴォイア家は消滅の危機に瀕しているのだ。
「恐れながら──、ヴィオランテ様」
重臣の一人が彼女に現実を伝えるべく口を開いた。
「御子息の赦免どころか、領地の安堵──否、我等の命脈すらもトール伯の慈悲に
彼等からすれば叛逆の真偽など不明だったが、女帝並びに宰相がアイモーネ・サヴォイアと息子を明確に罪人と宣したのである。
無事で済むはずが無かった。
「──む、無法伯に……」
ヴィオランテの眉間に険しい皺が刻まれた。
トール・ベルニク。
それは、彼女が最も忌み嫌う男の名である。
夫アイモーネとて内心では蛇蝎の如く彼を嫌っていたのだ。
言葉の端々に女神ラムダや教会を軽んじる傾向が見られるばかりか、天秤衆と聖職者を大量虐殺した歴史的大罪人なのである。
「アレに尾を振れと──」
だがその男は、女帝と教皇を手懐けるだけでは飽き足らず、大邦オソロセアの後ろ盾を得て新生派勢力の中枢に食い込んでいた。
尚且つ、庶民からは英雄などと持て囃され、彼が治めるベルニクは経済軍事共に著しい成長を遂げており、
挙げ句「高慢ちきな女」を妻とする帝国宰相となっていた──。
「既に権元帥は銀獅子の旗を掲げた大艦隊を率い本領に向かって来ており、カドガン領邦にて演習中の白き悪魔と合流すると聞き及んでおります」
──バ、バルバストル……。
──間違いなく血の雨が降る……。
重臣達の間に怯えの混じった囁き声が行き交った。
ベルニクにとって守護天使に等しい名ではあったが、他方の刃を向けられた者からすると忌まわしい血の匂いが漂うのは間違いない。
聖都アヴィニョンに吹き荒れた異形の二刀流が見せた殺戮の宴は、EPRネットワークにリアルタイム配信されており誰の脳裏にも焼き付いていた。
来る惨劇の予感に、いつしか鬱々とした沈黙が降りる。
そこへ──、
「ヴィオランテ様」
居室の隅で存在感を消すように佇んでいた男が、重苦しい沈黙を破り重臣達の前へ進み出た。
「ん──?」
全く見覚えの無い男の顔貌に、誰だったろうか──とヴィオランテは戸惑いを感じたが、屋敷に立ち入っているならば重臣達の一人なのだと解した。
そもそも彼女は、平素であれば領内政治に関わる事など無い為、眼前で雁首を揃えている者達の中で名前と顔が一致する相手も極僅かである。
「私めの職分を外れましょうが、僭越ながら申し上げます」
不快ではないが、鼓膜に
「女神の慈悲を顧みぬ無法伯が悪魔を引き連れて来たとなれば、我等に弁明の機会を与えるつもりは毛頭ありますまい」
「もはや、尾を振ったところで意味を為しません。座して待つは下の下の策となりましょう」
その言葉を聞いたヴィオランテは、喉を鳴らし唾を飲み下した。
「ま、まさか──お前は
聖句の暗唱と茶葉に対する造詣には自負を抱いているとはいえ、戦の知識や経験も無ければ自領の軍事力すら把握していない。
迫り来る無法伯の大艦隊は恐怖だったが、かといってそれと戦うなど想像の埒外である。
「いえいえ、さすがにそれは困難でしょうが──」
男は首を振り、口端に笑みめいたものを浮かべた。
「隣邦のフォルツを頼られては如何か?」
アダム・フォルツ選帝侯が治める復活派勢力の領邦である。
エヴァンとレオの死後、傀儡宰相であったはずのアダム・フォルツは意外な才覚を見せ、実にバランスの取れた政治を執り行い復活勢力内の声望を集めていた。
彼自身はイリアム宮にて太上帝の傍で政務を取り仕切っていた為、国許は代官のウォルフガングに差配を任せている。
「ま、待たれよ、ピルトン殿。それでは名実共に我等は陛下を裏切る事になるではないか」
傍に立つ重臣が狼狽えた様子で異議を唱える。
ピルトンと呼ばれた男は、薄い笑みを浮かべたまま相手へ顔を向けた。
「ですが、現に陛下と無法伯はそう見なしておられるのでしょう?」
「それはそうだが──」
釈明の余地が無いのであれば、いっそ事実にしてしまえという話である。
「だが、フォルツに我等を助ける義理などあるまい」
「うむ──。縁も友誼も結んでいないサヴォイアを守る為、奴らがベルニク艦隊の矢面に立つとはとても思えぬ」
「何よりイドゥン太上帝の約された、不戦の誓いを違える事になろう」
古今東西の歴史が示すが如く、永遠に守られる誓いなど存在しない。
とはいえ、それは今ではないと誰もが考えていた。
復活派勢力が誓いを破り武力行使を図るのは、新生派勢力と決定的に覇権を争う大戦時になるのであろうと目されていたのだ。
それが果たしていつの日になるのかという点は、政治学者や歴史学者を魅了して止まないテーマでもあった。
「皆様ご承知の通り、私は一介の医者に過ぎません──」
ピルトンの言葉を聞き、ようやくヴィオランテは男の素性に思い至った。
彼はアイモーネ・サヴォイアに仕える侍医集団の一人なのである。
ヴィオランテにも良く理由が分からなかったのだが、夫アイモーネは譜代の家臣よりも医療関係者を相談役として傍に置く事を好んだ。
結果として多数の侍医を抱え、他の重臣達も無視できない政治勢力へと奇形的成長を遂げていた。
その裏では『福音の頸木』が蠢動していたのである。
「──卑しい医者に過ぎませんが、フォルツの代官であるウォルフガング殿と親しくさせて頂いておりましてな。ああ──無論、医道に国境が存在しないが故にですぞ」
新生派と復活派の国交は著しく制限されてはいたが、医療分野と宗教及び人道的活動に限り例外が認められていたのは事実である。
必然的に、それらを諜報活動に互いに利用する側面もあった。
「ウォルフガング殿は誠に徳と信仰に篤く、政治的垣根を超え我が領邦の誇る良心の砦『福音の頸木』へ多大なる支援をされてきた御方──」
信仰と医療を隠れ蓑にしたアイモーネの毒殺部隊であると重臣達は知っていたのだが、素知らぬふうを装ってピルトンの話を聞いていた。
迂闊な事を口にしたなら、冷たい
アイモーネという主人を失った狂気の集団が、いかなる行動に出るかなど誰にも予想出来ないのだ。
「──そのウォルフガング殿へは、貴方から話をされるという事なのか?」
職権を侵食された不満を表に出さぬよう細心の注意を払い、外交事を担うはずの重臣は涼しい表情のピルトンに尋ねた。
「左様で」
主人が事をしくじり命を落としたとしても、残された組織は生き残る為に最善を尽くすのだろう。
「私より事の理を説けば、フォルツは動きましょう。恐らくは、かの誇り高きアラゴンも」
信仰と医療を奉ずる『福音の頸木』が有する毒牙を、フォルツとアラゴンが欲する可能性はある。
他方、不敵な笑声を前にして一同は押し黙ったが、心内では天秤に様々な思惑を乗せて保身の最適解を探っていた。
ヴィオランテとて例外ではない。
「ふむ──」
彼女は顎に手をかけ数瞬考え、直ぐに決断を下した。
残された刻と手札は少ない。
「──良案だけれど、一つ、いや二つ条件がある」
彼女が最優先すべきは、自身の命と愛息アントニオの身柄なのだ。
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