10話 世は戯曲。
リリン・バビロン。
女は実に奇妙な名前だった。
「――恥も外聞なく申し上げれば、ひと目見た時からです」
そう告げるフィリップ・ノルドマン伯は、照れと負い目を紛らわせるかのように酒杯を
一夫一婦制を唱えるイーリアス学派でもなければ、貴人にとって複数の妻、あるいは夫を娶る事は何ら非難されるべきものではない。
ましてやフィリップは妻と死別しており二人の子供は成人している。
本来なら祝福すべき慶事なのだ。
それいてなお、彼が敢えて「恥」という概念を持ち出したのは、自らの年齢と立場、そして使用人に手を付けたという自責の念に依拠するのだろう。
「あらあら、お父様。年端もいかぬ小娘が好む絵物語のような恋をされましたのね、ホホホ」
多分に険の混じったクリスの言葉に父フィリップは空咳で応えたが、他方のリリンと称する女は、落ち着き払った様子で漆黒の瞳を瞬かせるに
かような不満を露わとするクリスの隣に座る弟レオンは、実に気不味そうな表情を浮かべつつ賓客であるトールの様子を窺っている。
レオン自身としても、この一件に絶対権力者たるトールが、いかなる反応を示すのかという点に多大な感心を寄せていたのだ。
「そういえば――」
そう言ってクリスは、圧を伴う眼差しをトールに送った。
「先ほどから長らく黙しておられますけれど、権元帥にして帝国宰相、尚且つ女帝陛下を妻とされた英雄の御意見を頂戴したいところですわ」
狭い卓ならばトールの足を爪先で蹴り上げたいところだったが、大人数の会食も可能なリフェクトリテーブルは生憎それを許さない。
――ささ、トール伯。
――お父様をきつぅく諫めて下さいなっ!
といった思いが、クリスの表情から溢れ出ていた。
「は、はあ」
だが、肝心のトールは気の抜けた
部屋に入って
渦巻く問いの解を導き出そうと、ひたすら己の記憶を探り続けていた。
――どう見ても、レイカさんだよね……。
それは、トール・ベルニクではなく秋川トオルの記憶だったのだが、彼自身にとっては実父エルヴィン・ベルニク以上に現実感を伴う過去である。
この記憶の混濁と錯綜について、現在も様々な見地からの解釈が試みられているが、本書においては本人同様に全てが事実であったとの前提で記す。
――ボクを施設から引き取り――育ててくれた。
漆黒の夜会服を纏うリリン・バビロンと名乗る女の相貌が、トールの記憶に宿る恩人「本仮屋レイカ」と些かのぶれも無く重なっていく。
彼女はクリスに怯えるでもなく、さりとてフィリップに媚びる様子も見せず、優雅な仕草でラム肉にテーブルナイフを刺し入れていた。
現状では雲上人と言えるトールが同席する晩餐会で、領主を射止めたとはいえ一介の使用人風情が取り得る落ち着きようでは無い。
つまり、リリン・バビロンを端的に表するなら、
――確かめたい……。
トールは今すぐにでも彼女の手を取って別室へ行き、全ての疑問をぶつけたい衝動に駆られていた。
真名を問い、経緯を尋ね、果たしてあの世界は実在するのか――否、むしろこの世界が実在するのかを知りたかったのだ。
もはや、今が夢でないのは明らかだが、さりとて秋川トオルとして過ごした日々も現実なのである。
そして何より――、自分を置いて彼女が姿を消した理由を教えて欲しかった。家族という幻影を与えておきながら、再び取り上げたのも彼女なのである。
――でも……、
トール・ベルニクにしては珍しく、少なからず躊躇いと怯えがあった。
――なぜかボクも忘れてたしね。
ラムダ聖典に「モトカリヤの啓示」なる記述がある為に、モトカリヤという名前はオビタルならば誰もが知っている名である。
だが、奇妙な相似を示す名と関わる記憶は、トールから長らく失われていた。
――エヴァン公の真名を知ろうとしていた時、ようやく夢を見てボクは思い出した。
――という事は、レイカさんも……。
トールは怖れていた。
母であり姉でもあるはずの女の記憶から、秋川トオルという存在が消えていたなら――。
ならば、自分は一体どこから来たのだろうか?
◇
「ファーレンとアラゴンが動く確約は得たが――」
ニコライ・アルマゾフは、組んだ足の膝上を指先で間断なく叩いている。
それが何某かの連絡を待つ時に見せる彼の癖なのだと、出会って数週間程でダニエル・ロックは気付いた。
「サヴォイアは油断ならん」
「――そうか」
「日和る可能性も見込んでおくべきだろう」
飲みかけのグラスを卓上に置くと、ダニエルは考えるように顎下に手を伸ばした。
享楽と喧噪の
十年近くに渡って利用してきた拠点の由来は、ノルドマン家が禁衛府長官を務めていた頃より、同家がグリフィス領邦に有していた別荘であるが、フィリップ・ノルドマン亡命に伴い地元有力者の手に地権が移っていた。
さる人物の仲介を得てこの屋敷をダニエルは供与され、共和主義を標榜する
当初の組織はデイモス・クランと称していたが、侮蔑的に
「だが、領主の座を確実に射止める為、兄弟全員を毒殺した男なのだろう?」
聖職者のみを志すと周囲に喧伝しておきながら、銀の種馬たる父が方々に蒔いた種を全て摘み取ったのである。
アイモーネ・サヴォイア自慢の毒殺を得手とする隠密部隊に、七つ目の長手が潜んでいた故にニコライの知るところとなっていた。
それを伝え聞かされていたダニエルからすると、この期に及んでアイモーネが動かぬ道理は無かろうと思えたのである。
アイモーネの如く欲深き男が、教皇位という餌に眩まないはずがないのだ。
「私が知っているという事は、無法伯も知っているのだ」
仕えていたミザリーの失踪により七つ目との接点は途絶えているが、ニコライとてトールが七つ目に加わった事は把握していた。
「何らかの手を打っている可能性はある――今のところその形跡は無いが――」
「ロスチスラフの死も防げなかったのだからな」
「うむ」
ニコライが頷く。
トール・ベルニクは盟友ロスチスラフの死を防げず、その手引きをした実の娘オリガはヴォイド・シベリア送りとなっている。
べドラムゴラ医療センターへ送致されているが、DecNefにより刻み込んだ青鳩への強烈な忠誠心からオリガが口を割る可能性は低い。
このまま死ぬまで軟禁されるか、あるいはプルガトリウムに堕とされる末が待っているのだろう。
また、仮に口を割ったところで、今更さほどの痛痒事ではなかった。
希代のカリスマ指導者を唐突に喪ったオソロセアは必ず弱体化する。
尚且つ、前ボリス大公の忘れ形見をも巻き込む跡目争いに発展してくれたなら、小競り合いを繰り返してきた隣邦ファーレンの大願が成就する可能性は高い。
残る懸念は、いかにしてベルニクの参入を防ぐかだけなのである。
「では――」
「まあ、待て。ダニエル・ロック」
逸る若者を宥めるかのように、ニコライは右手を柔に振った。
ダニエルの風貌は老いた白髪の翁となっているが、実際の年齢は三十半ばであるに過ぎず、復讐のみを誓う昏い魂の奥底には若気の残滓が未だ残っている。
「私は今ひとつの吉報を待っているのだ」
そう言いながら、ニコライの薄い目端が油断なく光った。
「マクギガン――いや、ノルドマンからのな」
◇
夜の照明に薄く照らされた中庭のガジーボに、不安気な表情を浮かべる少女がひとり立っていた。
彼女の髪色はブリュネットだが瞳の色は黒く、そのアンバランスさこそ魅力と言って良いだろう。
「ごめんよ、待たせたね」
急ぎ足で訪れた正装を纏ったままのレオン・ノルドマンは、ガジーボの小さな段差を跳ねるように跨いで少女の傍へ駆け寄った。
「ああ――レオン様」
少女が浮かべる輝く笑顔とは裏腹に、囁くような声音でその名を呼んだ。
使用人に過ぎない身分の少女にとって、レオンとの逢瀬は露見してはならない秘事である。
奇妙な同僚リリン・バビロンの如く堂々と振る舞うなど常識の埒外だった。
「マリア」
父を見習ったわけでもないのだが、使用人に恋した因果に思い悩む日もあるとはいえ、本人を前にしたならレオンの懸念は露と消えてしまう。
――それに、トール伯も父上に怒らなかったしな……。
今宵の晩餐で、レオンは新たな免罪符を得たと感じていた。
無論、トール本人に問うたなら、使用人との結婚を許すも許さぬもなく、ひたすら己の記憶と葛藤を繰り広げているうち晩餐会の幕が下りたに過ぎないのだが――。
「また、すぐに戻らないと駄目なんだけど」
明日には、コスフォード基地へ向かう軍用機に乗り込まなければならない。
「今夜は一緒に過ごせる」
「――嬉しい」
「僕もだよ、マリア」
こうして若き二人は、互いの愛を確かめ合う一夜を過ごすのだ。
だが、その愛が真実であった試しなど、遥か古典の時代に遡ったとしても稀な事例となるのだろう。
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★ガジーボ
あずま屋。
周囲に壁が無く屋根のみの見晴台。
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