2話 若気の至り。

 気取った給仕に案内されたテーブルで、ロベニカ・カールセンは見覚えのある眺望ちょうぼうだと感じながら窓の外を見ていた。


 記憶を辿ってゆくと人待ちをしながら邦都の景観を眺めた夜が蘇る。


 ――何だか懐かしい……。


 当時のトールは英雄としての名声をまだ得ておらず、艦艇不足を補う為に商船を借り上げるのにも苦労していた。


 そこでロベニカは、大学時代の同窓であるグレン・ルチアノを頼り、このリストランテで会食をしたのである。

 

 多数の商船を擁するルチアノグループの御曹司ならばと考えたのだ。


 無論、大学時代にグレン個人から受けていた好意を当てにしなかったと言えば嘘になるだろう。


 蛮族からの宣戦布告という未曽有の危機と、頼りにして良いのか否か判然としない領主の存在がロベニカを必死にさせたのである。


 ――若かったのね。私。


 ロベニカは頬杖をついて軽く息を吐いた。 


 月日は流れ、彼女も六十四歳となっている。


 古典人類の感覚で表現するならば微妙なお年頃――つまりは二十代後半という事になるのだろう。


 十分に若いと言える年代ではあるのだが、分別という名の手枷を強く意識するようになっているのも事実だった。


 ――今なら、他の――、


「遅くなってすまないね。ロベニカ」

「――あ――」


 同じ店だからこその既視感なのだろうか。


「グレン」


 約束の時刻を寸分も違えることなく、今宵の待ち人グレン・ルチアノは爽やかな笑みと共に現れた。


 ◇


「引退?」


 統帥府長官ヨーゼフ・ヴィルトの執務室を訪れたロベニカは、立ったまま報告のみを済ませ出て行くつもりだったのだが思わず手近な椅子に座り込んでしまった。


「な、なぜです?」


 うるさ型の老臣として煙たく感じている者が多いとはいえ、宮廷政治に深く関与せざるを得ないトールに代わって領邦経営を担って来た中心人物である。


 仮初とはいえ十年という平和な期間を経て、ベルニクは大いなる変貌を遂げていた。


 嘗ての様な冴えない辺境領邦の面影は、もはやどこにも存在しない。あらゆる指標が強勢な領邦である事を示している。


 帝都フェリクス近傍という地勢、希代の英雄トール・ベルニクが手にした中央政界における影響力、隣邦の強豪オソロセアと結んだ固い同盟――だけが成長の源泉ではない。


 私心を抱かず、私欲に奔らず、そして誰よりも領主に対し正直な男が邦許を差配した故にこそ、個性的な家臣団と巨大な官僚機構の歯車が上手く嚙み合ったのである。


 未だにヨーゼフの姿を屋敷で見かけると逃げ出すテルミナ・ニクシーとて、彼の功績については否定しないだろう。 


「分からんか?」


 そう言ってヨーゼフは、頬に刻まれる深い皺を撫でた。


「十分に働いた――と、妻には言われたよ」


 長命のオビタルとてやがては老いる。


 外科的措置を施し死の間際まで老化に抵抗する者も居るが、多くのオビタルは己が生きた証としてを受け入れるのだ。


 死の間際まで青年の姿を保ったとして、いかほどの価値があろうか。労苦と悔恨、さらには幾ばくかの喜びを顔貌に刻んで原子に還れば良い。


「閣下の御力でベルニクは富み、尚且つ民も潤った」


 浮き沈みがあるとはいえベルニクの経済は成長を続けており、軍事以外の教育、医療、福祉といった内政分野も十分な恩恵を受けていた。


 良い政治とは、突き詰めれば富の再分配が適正である事に尽きる。


 王政であれ、共和制であれ、人工知性体群による統治であれ、パンを上手く分け合えない政治システムは崩壊すべきなのだ。


「後は次代に託し、私は引退――いや隠居する頃合いだろう」


 穏やかに語る老人を見て、ようやくロベニカは悟った。


 彼は安心したのだと――。


 トールが帝国一のアホ領主と思われていた時代、彼は内務相として懸命に領邦経営を支えていた。


 ところが、蛮族襲来を契機に目覚めた領主は無類の働き者となる。


 蛮族を撃退し、女帝を攫い、帝国を分け、船団国首船を落とたかと思えば、聖都まで攻め上りレオ・セントロマの頸をも刎ねた。


 トール・ベルニクは常に勝利と共にある。


 とはいえ、安定指向を是とするヨーゼフの目には、無謀な戦いに挑む破滅型の為政者とも映っていた。


 ――でも、この十年は大人しかったものね……。


 聖都での戦いを終えて以降のトールは、復活派勢力との武力衝突を避け、領邦と新生派勢力圏を富ませる事のみに注力したのである。


 ――ヨーゼフ長官が安心するのも頷ける話だわ。でも――、


「で、ですけど――」


 依然としてオビタル帝国は二つに分かたれたままであり、何れの勢力圏においても各領邦は軍事費を拡大し続けている。


 但し、ヴァルプルギスの傷を十分に癒さずに経済を圧迫した故に、復活派勢力圏で暮らす民衆の不満と不安はより深刻だった。


 その為、グリフィスを震源地として、共和主義なる太古のイデオロギーを掲げる勢力が広範な社会階層からの支持を得つつある。


 共和主義は種の禁忌に触れかねない思想なのだが、それが却って人々の興味を誘ったのかもしれない。


 貴族や富裕層の子弟でありながら傾倒する者も現れ始めており、宮廷自由主義派などと自称し豪奢なサロンで上質な酒を飲みながら体制批判を弄んでいた。


 総じて下らぬ連中ではあるのだが――。


 なお、憂慮すべきは帝国内の事情だけではない。


 スキピオ率いるグノーシス船団国は、故ルキウスと結んだ条約を履行せず、彼等の略奪行為は両勢力に対して被害を与え続けていたのだ。


 とはいえ、いかなる理由かは不明ながら、ベルニクとオソロセア領邦では略奪を働いていない。


 結果として両領邦の運輸、観光産業に多大な貢献をしたのだが、他領邦から反感や疑念を抱かれる状況ともなっていた。


 かように――、


 現世の常とはいえ、至る所に地雷は転がっていたのである。


 何より今はタイミングが悪いとロベニカは考えていた。


「まだまだ長官をトール様は必要とされるはずです。だって――」

「待ちなさい」


 何事かを言い募ろうとしたロベニカを、右手を上げてヨーゼフが制した。


「閣下への話は通してあるのだ」


 考えてみれば当然ではないか――とロベニカは思った。


 これほどの重用事をトールへ伝える前に話すわけがない。彼女が引き留めるまでもなく、既にトールは納得し了承しているのだろう。


 それでも尋ねずにはいられなかった。


「トール様は何と?」


 問われたヨーゼフは顔をしかめた後、すぐに苦笑いを浮かべて口を開いた。


「統帥府を抜けるなら、次はデルフォイに入らないかと言われたよ。まったく――」


 僅か二名の人員で始まった特務機関デルフォイは、テルミナ長官の鞭――もとい弛まぬ労力によって巨大な諜報組織へと育っている。


「――人使いの荒い御方だ。ハハハ」


 トールなりの老臣に対するねぎらいを伝えるジョークだったのだが、万が一にもヨーゼフが首肯したなら喜んでデルフォイへ送り込んだに違いない。


 テルミナとヨーゼフの言い争いを好むトールの悪癖は、家中で広く知られている話なのである。


 ――だけど今のトール様は、とても落ち込んでいるはず……。

 ――きっと心配を掛けさせまいとしたのだわ。


 そこに思い至ったロベニカの胸は疼くように痛んだ。


「――寂しく――なります」


 とはいえ、断腸の思いで領主が受け入れた話ならば、ロベニカに出来る事はヨーゼフの花道を汚さぬよう尽くすのみである。


「何、すぐ忘れるさ。――おっと、それよりロベニカ首席補佐官」


 ヨーゼフにしては珍しく、少しばかり軽口めいた口調となった。


「今宵は予定があるのではなかったのか?」

「あ――」


 言われて時計を見ると、帰り支度を急ぎ済ませる必要がある時刻となっていた。


「も、申し訳ありません。報告の途中で――」

「構わん」


 極めて稀に、ヨーゼフは鷹揚な上司となる。


「プライベートを大切にしたまえ。故にこそ、私と妻は今でも愛し合っているのだ」


 これをてらいなく言える男は、嘘吐きと――のみである。


 ――きっと――なのね。


 そう感じたロベニカは、ヨーゼフには気付かれぬ様くすりと小さく笑んだ。


 ◇


「グリフィスへ渡る」


 数週間前に受けたグレン・ルチアノからの誘いは唐突だった。


 不義理な話ではあるが、商船の一件以来ロベニカはグレンと連絡を取ってこなかったのである。


 余りに多忙な日々を過ごしていたし、会う気持ちになれなかったのだ。


 蛮族迫る非常事態だったとはいえ、損得勘定など持ち合わせていなかった頃の好意を利用しようとした自分が許せなかったのかもしれない。


 だが――、


「えっ!? そ、それが、会えなくなるっていう理由?」


 ――当分――いや、多分――もう会えなくなるだろう。


 などと言われては、さしものロベニカとて躊躇いを捨てて誘いを受ける他になかった。


「そうだ」

「でも、なぜなの? グリフィスに行くなんて馬鹿馬鹿しいにも程が――」


 そこまで言い掛けて、ロベニカは理解した。


 経緯と理由は不明ながらルチアノグループの御曹司は、筋金入りのピュアオビタル嫌いである事を思い起こしたのである。


「理由は言えない。――と言えば分かるのでは?」


 分かりはしたが、納得など出来なかった。


 彼女の価値観で判断するなら、イデオロギーなぞ祖国を捨てる代価足り得ない。


 成長を続ける祖国ベルニクを拠点として、やがてはルチアノグループの全てを引き継ぎ経済活動に勤しめば良いではないか?


 それこそが自身の為であり、ルチアノの為であり、何よりベルニクの為である。


「誰も正解など持ち合わせていない」


 暫しの沈黙の末にグレンの口から語られた言葉は、ロベニカの問いに対する応えでは無かった。


「尚且つ、誰も未来を予見できない。トール伯が――、彼のベルニクがここまでの躍進を果たすとは誰も予想だにしなかっただろう?」

「それはトール様が――」


 誰よりも働き、誰よりも狡猾で、そして誰よりも――。


「だが、これから先は分からない」


 そう言って肩を竦めたグレンを、ロベニカは不快に感じ始めていた。


「先だっても予想外の事が起きたばかりじゃないか」


 続く話の内容を悟ったロベニカは下唇を噛んだ。


「実に驚いたよ。まさか、ロスチスラフ侯が――」


 なぜそれを愉し気に語れるのかと怒鳴りつけたかった。


 今すぐに朱色で満たされたワイングラスの中身を、口角を上げた相手の顔へ浴びせたい強い衝動に駆られている。


「――娘に殺さ――」


 この数舜後、首席補佐官ロベニカ・カールセン(64)は、未だ消えぬ若さを証すると共に一人の友人を失った。


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★あの日、君は若かった。


[起] 30話 気乗りのしない会食。

https://kakuyomu.jp/works/16817330648495045364/episodes/16817330649787669085

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