誓い。

 十三だった。


 グラスが床に落ちて割れた音は、今でも耳に残っている。


「――本当?」


 晩餐の席で娘から問われた父は途端に蒼白となり、手に持っていたグラスを床に取り落とした。


 使用人達が慌てた様子で駆け寄るさまも、奇妙な程に緩慢で鮮明な映像として焼き付き脳裏から決して離れない。


 その日からだ。


 アーロン・ウォルデンは自室に籠り、下らぬ物語を書き続けている。


 ◇


「――きゃ」


 丸テーブルの上に置かれていたコリンズグラスが固い床へ転がり落ち、ウルドの居室に鋭く小さな破砕音が響いた。


「ひ、ひぃ――申し訳御座いません」


 報告を終えて女帝ウルドの居室から下がる際、お供として連れ出った傍付が丸テーブルのグラスを落とした為、狼狽えた侍従長シモンは悲鳴混じりに頭を下げる。


 最前まで訪れていた母后シャーロットが使っていたグラスなのだろう。


 即座に下げておかなかった傍付使用人の不始末をシモンは呪った。


 グリンニス・カドガンに攻められた籠城戦では王風を見せたうえ、内裏だいりに吹き荒れた理不尽な暴力は鳴りを潜めている。


 とはいえ、不機嫌そうな表情のウルドを見ると、シモン・イスカリオテの心中は穏やかではない。


「――良い」


 相変わらず険の感ぜられる表情はしているが、使用人の粗相を気にする様子もなく鷹揚に頷き手を振っていた。


 傍に座る名誉近習レイラが、早く立ち去るようシモンへ目配せをする。


「ふぅ」


 他方のウルドは、心ここに在らずといった風情で息を吐いた。


 長年にわたって燻り続けたウルドの昏い怒りは、旧帝都を焼いた炎と共に姿を消している。


 とはいえ、過去の記憶は些細な出来事でふと蘇るのだ。


 名状し難き感情を抱く相手、母シャーロットの訪問を受けた後となれば猶更だろう。


 ――いかなる意味であったのだろうな。


 シャーロットの言い残した言葉が、ウルドには理解出来なかった。


 ――私の願いが叶った――とは――?。


 実のところ母の人となりについて、彼女は良く分かっていないのだ。


 故郷ウォルデンにおける幼き日々は、父アーロンとの思い出が大半を占めている。

 社交界を愛する母は不在がちで、娘を気に掛ける様子が無かった。


 乳母や召使い達も彼女と交わす会話は必要最小限に止められており、幼年学校には入らず家庭教師から教育を受けて育ったのである。


 他方の父アーロン・ウォルデン公爵は領邦経営を家臣に丸投げし、屋敷で娘と共に日々を過ごしていた。


 実に子煩悩な父親だった記憶がある。


 数多の寝物語を語り聞かせただけでなく、娘が怖い夢にうなされた夜は即興で作ったのであろう滑稽話で笑いを誘った。


 振り返ってみれば、不自然なほど外部との接触が制限されていたとはいえ、そうとは感じさせぬよう父は懸命に娘の相手をしていたと思える。


 だが、いびつで安逸な世界は唐突に終わりを告げた――。


 屋敷の使用人達はアーロン自らが厳選し破格の待遇で雇っていたのだが、たった一人の異物が紛れ込んでしまったのである。


 何者かの差し金だったのかもしれない。


 名すら覚えていないその女は、面白おかしく世間を語り少女の歓心を買った。


 そうして、幼きウルドの耳元で囁くのだ。


 エヴァン・グリフィスこそが実の父である――と。


「――」


 名誉近習レイラは、向かいに座るウルドの閉ざされた美しい双眸を見詰めている。


 最前から不機嫌である事は明白だったのだが、使用人の粗相や母シャーロットの訪問が原因ではないと分かっていた。


 ウルドから伝え聞いた予定からすると、数刻前にトールはアーロン・ウォルデンとの面談を終えているはずなのだ。


 その沙汰について連絡が無い故に、機嫌を損ねているとレイラは判じていた。


 だが――、


「誰ぞに入れ知恵されたと見える」


 ウルドの苛立ちは、その点では無かったのである。


「――はい?」


 指輪の秘事を知らぬレイラとしては、訝し気ないらえを返すほかにない。


 これを知るのはケヴィンを始めとする一部の軍高官と、トールが口を滑らせてしまったフランチェスカ・フィオーレのみである。


「帰ってきたら――おのれ――」


 拳をギュウと握ったウルドが瞳を見開いた瞬間、ようやく彼女の許へ遥か彼方で諸事を済ませた男から連絡が入った。


「トール!」


 女帝の上げた大音声に、思わずレイラの肩が反応する。


「少し眼を離した隙に己という男は――」

「オリヴィア」


 その一言が、照射モニタに写る男へ浴びせるはずの罵声を飲み込ませた。


「あ、不味い。レイラさんも居たんですね。じゃ、陛下」


 お構いなくとレイラが伝える間もなくトールは言い直した。


「父上からの了承を得ました!」


 自身の父を、他の男が父と呼ぶ不思議をウルドは思った。


「ですから、発表しましょう」

「な、何をじゃ?」


 分かってはいたが、今一度相手の口から聞きたかったのかもしれない。


「ボク達の婚約を。式は半年後――は無理か。やっぱり一年くらい――」

三月みつきとする」

「え?」


 三本指を立てた女帝を前に、さしものトールも驚きの声を上げた。

 貴族、それも女帝の挙式準備が、僅か三カ月で整うとは思えなかったのだ。


「今こそ世は慶事を必要としよう。尚且つ死に損ない――イドゥンの戯言を吹き飛ばさねばならん。さらには期間の短さを理由として常より質素とも出来る」


 ――何より、良からぬ入れ知恵をされた此奴こやつを、ふらふらと気儘にさせておいては危険であろうしな。ククク。


「は、はあ」

「何事も為せば成るッ」


 侍従長シモンが不眠不休で駆け回り常識外れの工期で完成させたプールは、オソロセア三姉妹とウルドが戯れる遊び場の一つとなっていた。


「良いな?」 



 帝国歴2802年 08月05日――。


 侍従長シモン・イスカリオテと、ベルニク領邦ソフィア・ムッチーノ報道官がオリヴィア宮にて共同声明を発表した。


 女帝ウルド並びにトール・ベルニクの婚約が宣されたのである。


 ◇


「ヴァルプルギスの夜は明けた。――が、流された血は余りに多い」


 オリヴィア宮の大聖堂に集う五百余名の参列者を前に、教皇アレクサンデルは慶事の席上で敢えて非情な現実を告げた。


 なお、彼の言う流された血とは、剣戟を交えた聖兵、天秤衆、そしてベルニク軍に留まるものではない。

 異端審問により奪われた人命は、聖都戦における戦死者を遥かに上回るのだ。


「数多の血を贖うすべを知らぬ我は、民の慟哭を癒せぬ無力のみを知る」


 瞳を閉じ頭を垂れた彼の背を、壁面の女神像が見下ろしている。


 EPRネットワークのライブ映像を見ている者は、教皇が女神ラムダへ祈りを捧げていると判じた事だろう。


 大聖堂に集った者達も同様に感じたのか、ラムダの印を結ぶ衣擦れの音が小波さざなみの様に拡がった。


「――されど、愚かな我等咎人に、ひと時の安らぎをラムダは赦し与え給うた」


 そう告げた後、聖壇に立つアレクサンデルは、白の正装を纏い最前列で跪くトール・ベルニクへと手を差し伸べた。


「銀獅子権元帥にして、ベルニク領邦が領主、新郎トール・ベルニク伯――」


 名を呼ばれたトールは面を上げた。


 ――リハーサルの時とは話の内容が全然違うぞ……。


 予行演習では、アレクサンデルが子供時代にで飼っていた猫の話だったのである。


 ――気が変わったのかな。


「立たれよ」

「はい」


 トールが立ち上がるのに合わせ、全ての参列者達も席を立った。


「女神ラムダの御前にて証人となる者達へ刻め。其方が永遠とわを誓う者の名を」


 常に無く緊張していたトールは、ひと呼吸置いてから口を開いた。


「ウルド・オビタル・オリヴィア」


 それは、栄えあるオビタル帝国女帝の名である。


「彼女を妻とします」

「ほう」


 アレクサンデルが、聖職者には些か不似合いな笑みを浮かべて告げた。


「なかなかの豪気ぶりであるな?」


 その言葉が参列者の緊張をほぐしたのか、静まり返っていた聖堂内に笑声と歓声が上がり、大扉の向こうで待つウルドの顔貌を幾分かやわとした。


 揺れる帝国の女帝を妻とするなど、豪気と評するほかにない。


「では」


 現世うつしよの位という意味では、女帝と唯一比肩し得るのは教皇のみである。


「新婦も参られよ」


 アレクサンデルが宣した後、弦楽器による荘厳な音色と共に大扉が押し開かれた。


 あらゆる視線を集めるその先に立つのは、飾り気のない純白のドレスに身を包み薄いヴェールを頭に戴いた乙女である。


 誰よりも美しく、残酷で、傲岸不遜な女だった。

 

 誤解を恐れず敢えて端的に評するならば、悪女のたぐいなのだろう。


 故にこそ、神々しい。


 微笑む英雄の許へ向かって乙女が歩く朱色の道は、未来に流れる血を暗示していたのかもしれないが、万雷の拍手と管弦楽団の奏でる交響曲は今宵それを忘れよと囁いている。


「わぁ」


 花嫁の顔貌を覆うヴェールを払ったトールは思わず感嘆の声を漏らした。


 ――綺麗だ……。


 トールの想念に気付いたウルドは、得意気な眼差しを浮かべ頬を緩めた。


「余じゃ。当然であろ」


 安堵のせいか、言葉とは裏腹な思いが迸る。


 ――頑張った甲斐があったわ。


「え、何を頑張ったんですか?」

「い、いや――その――」

「――コホン――」


 アレクサンデルが軽く咳払いをする。


「そろそろ、誓いの言葉を始めて良いか?」

「あ、すみません」「は、始めよ」


 トールとウルドの声が重なった。


 なお、新郎新婦が交わす誓いの言葉とは、古典文明に由来があるとされている。


「病める時も、健やかなる時も――」


 たとえ、死すとも。


「富める時も、貧しき時も――」


 奪え!


「女神ラムダの御前にて、互いを愛し慈しむと誓うか?」


 トール・ベルニクが頷くと、互いの手を握る二人の視線が交錯し、決して離さぬと言うかのようにウルドの指先が深く絡んだ。


 欲し求めるままに――、


「誓う」


起転承[乱]結Λ 真祝編 .....了


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―― 起転承[乱]結Λ 真祝編 ちょっとだけ、あとがき――


 幕間と言うには、あまりにも本編でしたが、


 こうして王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしましたとさ……。


 ~Fin.~


 と、羽ペンで描いて結びとする道もあるでしょう。

 でも、まだまだ続くので御座います。


 全ての風呂敷を綺麗に畳めるのかと不安に感じる日があります。


 場末のWEB小説如きで悩むなとも思うのですが、ボクの中では巨乳戦記という世界は些かの矛盾を孕みつつもリアルに存在してしまっているのです。


 元々は、「ハッピーエンドのために過去改変します!」というお話で、書き切れなかった部分を補完するつもりで始めたのが「巨乳戦記 ΛΛ」でした。


 何れのお話しに出て来る人物も、ボクの中では猛々しく生きてしまっていて、しっかりとした末を用意して成仏させる必要があります。


 ともあれ、残るは長~い[結]章と、短い[Λ]章のみです。


 あ、その前に、ボクの大好きな人物のSSを一本出せて下さいね。サポ様限定SSの改稿バージョンです。


 彼を当分の間は活躍させられないので、SSで出しておきます。


 その後、ようやく[結]が始まります。


 めでたしめでたし――の、さらにその先を皆様と共に歩けるよう願って。


S.M. / S.S.

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