83話 狂盾。
教皇宮殿の剣戟と怒号の響きは、アヴィニョン大通りにまで轟いていたが、それら暴力的な騒音とは無縁の場所もある。
「──」
セントカロリーナ広場の聖堂内陣へ入ったガブリエル・ギーは、ECMと防音設備により外界と隔絶された異様な静謐さが、却って
「聖下」
慈愛の笑みを浮かべたラムダ像が見下ろす内陣で、祈りを捧げ続けているレオ・セントロマの背に声を掛けた。
「蛮族共が尻を巻き、代わって鬼子が参っております」
既にベルニク艦隊は天蓋ゲートから降下を始めていた。
「──ほう」
作戦を支える柱の一つが喪失した事を意味するが、レオ・セントロマは動揺を見せず静かに立ち上がった。
「来たか」
蛮族が手にした力でベルニクを防ぎ得ると期待はしていたが、全幅の信頼を置いていた訳ではない。
「良き面もある」
自らの手で
「まずは、アレクサンデルの身柄は暫し撒き餌として残せ」
教皇の身柄を捕らえてしまえば、憎きトール・ベルニクが逃げ帰ってしまう──などと、天秤衆の戦力に対する過剰な自信に基づく悠長な意見を開陳した。
「我等には五万余の天秤が在る」
確かに、アヴィニョン大通りとセントカロリーナ広場は、予備兵として残された未だ無傷の天秤衆で埋め尽くされている。
レオの自信は数の力に立脚しており、天秤の勝利を信じて疑わない。
「畏れながら聖下」
他方、
「数で勝るとはいえ我が方は防備に劣ります。さらに言えばベルニクは揚陸戦の手練れかと」
そもそもが、相手は軍人である。
数で圧倒したところで勝てる保証は無い。
「また、蛮族が消えた今、我等を守る艦隊が御座いません」
ベルニクが宙域から蟻の子一匹逃さぬ体勢を敷く前に、急ぎ聖都を離れなければならない。
エゼキエルへ逃げ帰れば、銀獅子だけでなく諸侯の艦隊も残っているのだ。イドゥン太上帝と信仰の威を借りて再び体勢を整えれば良い。
「直ぐにもプロヴァンスへ参りましょう」
プロヴァンス女子修道院は燃やされたが、天秤衆専用の宇宙港は無事で、万が一に備えて脱出用の艦艇も手配させていたのだ。
「ならぬっ!!!」
レオの怒声が、内陣の静謐さを打ち破った。
「ならぬ、ならぬ、ならぬッ」
「ですが──」
「殺せ」
レオの戦意は揺らぎを見せない。
「悪鬼はアヴィニョン大通りを攻め上って来るのだろう?」
教皇宮殿の防空システムは天秤衆が掌握していた。
故に、ベルニク軍は宮殿内へ輸送機で直接降下する選択肢は取れない。天秤衆が辿ったと同じ道をベルニク軍も進まねばならないのである。
「ガブリエル」
猫を撫でる声色に転じて名を呼んだレオ・セントロマは、慈悲深く聖話を聞かせる父と錯覚させるような微笑を
とはいえ、円弧を描く線となった眼から粘着質な輝きが漏れている。
「防備に劣るなら、盾を用意すれば良い」
「──盾?」
ガブリエルは訝し気な表情を浮かべた。
◇
教皇宮殿の防空システム圏外に降下したベルニク軍は、人通りの絶えたアヴィニョン大通りを進んでいる。
トール自らが師団長を務める第一師団は五つの連隊で構成され、第五連隊のみ別動隊として支道を進んでいた。
なお、先陣を切って進んでいるのはジャンヌ子飼いの古参兵が主軸となっている第一連隊と師団長並びに副師団長である。
先頭に領主自らが立つ軍隊は些か現代的ではないが、それこそがベルニクという邦の在り様であり兵士が矜持を抱く根源ともなっていた。
全ての戦は下らぬ理由で始まり、そして下らぬ結末を迎えるのだ。
トール・ベルニクは多数を巻き添えに死なせる理由として、神や思想、あるいは共同体への幻想を利用せず己の命のみを張ったのである。
「全軍、停止!」
ジャンヌの指示が響いた。
通りの向こうに大群が見えたからである。
「敵──いや──ん?」
頭部装甲に映る映像を拡大したトールは不審の声を上げた。
「外道が」
状況を理解したジャンヌが吐き捨てるように呟く。
「ええ」
珍しくトールの声音にも明確な怒りが宿っていた。
向こう正面で立ち塞がっているのは天秤衆ではなかったのだ。
乳飲み子を抱えて怯えた表情を浮かべる母親の大群が並んでいる。さらに少し間を開けた後背に司祭達が瞳を閉じて祈りを捧げていた。
天秤達は母子と下級司祭を肉壁として、後方でハルバードを構え立っていたのである。
「閣下、上を」
通りに面した建物の上には天秤が配されており、ベルニクを民間人で足止めして頭上から投擲する意図と分かった。
「支道も同じ状況の様です」
別動隊として進む第五連隊からの報告をジャンヌがトールに伝えた。
「──」
トールは何も応えず、無言のまま前方を睨み据えている。
待針の森では化け物じみた赤子にも遠慮したが、母子という概念にトールは憧憬めいた感情を抱いていた。
その感情こそが殺人鬼フリッツの運命を数奇たらしめるのだが、それはまた別の話である。
──お母さんを、こんな事に利用するなんて……。
レオ・セントロマの用意した狂気の盾は、トールをたじろがせるよりも却って激烈な怒りを呼び起こしてしまった。
トールは生涯を共にした聖剣を抜き天に掲げる。
夜を迎えた聖都の月明かりと街灯が、聖剣の刃先に光輪を伴う輝きを与えた。
──絶対、殺す!
「告げる」
常と異なる声音がジャンヌの耳朶を打った瞬間、彼女は快楽を伴う震えを下腹部に感じていた。
荒ぶる覇道の片鱗が匂い立ったからである。
柔な言動と少年の様な顔貌に
「第一連隊」
トール・ベルニク師団長より、指示が下される。
「対数フィードバック最大。母と赤子の頭上を越え、敵陣へ入る」
「了ッ!」
第一連隊長の
五十メートル近い跳躍と反動で揺らぐ着地点において、恐らくは大きな損耗を被る事になるのだが、母子への幻想がその損耗をトールに許容させた。
「祈る司祭共は叩き斬れ。一人も生かすな」
この期に及んで祈る阿呆などトールには度し難い。故に許し難い。
「第二連隊は母子を確保しつつ後退せよ。便衣兵と頭上からの投擲への警戒を怠るな」
トールとて、全ての母子を無傷で救えるとは過信していない。
「母子確保までの猶予時間は二十秒とする」
二十秒以内に安全確保できなかった母子は捨て置くほかにない。邪魔となれば排除する事にもなろうし、剣戟や投擲の巻き添えも喰らうだろう。
指揮官として許容せざるを得ない損耗である。
「残る連隊は、二十秒経過した後に雪崩れ込め」
「了ッ!」「了ッ!」「了ッ!」
連隊長達の応答を確認した後、ようやくトールは聖剣を前方に向けた。
「第一連隊──」
それは我欲に過ぎなかった。
「続け!!!」
故にこそ、彼は常に先陣を切るのだ。
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