74話 混沌のカナン。

 旧帝都、イリアム宮。


 母の腹よりでて世の光を浴びて以来、初めて重圧と戦う日々を送る事となったアダム・フォルツ選帝侯は心身ともに疲弊していた。


 面倒な領地の差配は代官に任せ、宮廷政治とて宰相エヴァンに付き従っていただけの男は、太上帝への憧憬を除けば特段の欲や理念など持ち合わせていない。


 謂わば、流されるままに生きて来た道楽者である。


 かように浮薄な男はヴァルプルギスの夜を境として、レオと天秤の刃を背に感じながら宰相職をエヴァンに代わって担う羽目となっていた。


 折り悪く、十万余とも言われる新生派連合艦隊が自領へ迫るなか、銀獅子と諸侯を取りまとめて聖都奪還軍の編成を果たさねばならない。


 ――それほど欲しければ、自分でやれば良いではないか。

 ――教皇だの聖都だのと――どうでも良いわっ。

 ――糞坊主め、死ね死ね死ねいっ!!


 と、心中では罵詈雑言を喚き散らしているのだが、いざレオに面と向かえば途端に手足の震えを抑えるのが精一杯といった有様である。


「銀獅子艦隊は元よりファーレンを始めとする諸侯の引き連れた艦隊も万端だと、数日前に胸を張って申したのは貴方ではないか?」


 禁衛府を引き継ぎ長官となった男は、浮薄なアダムをして愚かと言わしめる無能であった。


「いや、イザーク要塞へ全艦艇が揃ったという意味で万端と述べたに過ぎん。出撃可能などと申してはおらぬ事、女神ラムダへ誓っても良い」


 レオ派に属する大司教と血縁であるが故に官職を得た新しい禁衛府長官は、悪びれるどころか非難がましい口調で応えた。


「猊下――聖下の所望された刻日は迫り、悪鬼ベルニクに至っては既にカナン星系へ入っておるのだぞっ!!」


 いきり立つ思いをアダムは噴出させて叫ぶように告げた。


 トール率いる少女艦隊は、クラウディオ・アラゴンの敷いた防衛陣など歯牙にもかけず奔り抜け、プロイス領邦からカナン星系へと不戦不敗の侵攻を果たしている。


 なお、少女艦隊の進路は、聖都へ通ずるエステルポータルではなくハバフク方面と判明しており、さらにアダムを不安にさせていた。


 ハバフク方面に存在する未知ポータルには、ベルニクの奇襲に備える僅かな防衛陣が存在する――と、エヴァンより聞き知ってはいる。


 狙いは未知ポータルから増援部隊を入れる為なのだろうが、防衛陣の援護に差し向けられる兵力が存在しないのだ。


「イーデンブルクとモラヴィアの寄こしたボロふねが宙域で幾つか事故を起こしてくれてな。巻き込まれた艦艇もありイザーク要塞にて現在急ぎ整備中だ」


 そう言いながら、禁衛府長官は慌てる様子も無かった。


「こ、この期に及んで事故に整備だと!?――いったい損傷は何隻程となる?」

「五千隻は下らんだろう」


 ああ――と、アダムは嘆息をした。


 目前の男がレオ派の大司教と血縁で無ければ叩き殺していたものを、という意味合いでの嘆息である。


 とはいえ、アダムにとって救いだったのは、レオから編成を急げとの催促が未だに来ていない点である。


 ――悪鬼がハバフク方面へ向かっている点は悠長と感ずるが、どうあれ聖都へはベルニクが先んじるだろう。

 ――この状況でレオが騒ぎ立てぬ理由が分からん――いや――待てよ。


「例の噂の真偽は分かっているのか?」


 昨夜より、イリアム宮で流布する噂があった。


 情報の出処が不明なうえ、余りに突拍子も無い内容であるが故に、今に至るまでアダムは信じていなかったのである。


「聖骸布艦隊が壊滅したという――」

「コホン、アダム選帝侯」


 禁衛府長官は勿体ぶった仕草で咳払いをしながら、アダムの言葉を遮るように途中で口を挟んだ。


「それは真偽を問う話ではなく信仰の問題となろう」

「――信仰?」


 アダムには話の趣旨が読めなかったのだが、信仰については念を押しておく必要があると考えた。


「な、何の事だ?私の喜捨額を知れば信仰に疑いの余地などない」

「良き事だ」

「つまり私が問うたのは、聖骸布艦隊が壊滅したという具体的証拠だ。交戦時の通信記録なり何なり――」


 再び禁衛府長官は咳払いをする。


「私は有能な男なのだが、無理難題を言われても困る。コンクラーヴェ以降、聖都は大域フィルタリングを有効化して我等との通信を遮断しているのだ」


 と、誰もが先刻承知の話を得意気に語った。


 ――この薄ら馬鹿に尋ねた私が愚かであったか。


 アダム・フォルツにしては珍しく、多分に正しい自己評価を下した。


「もう良い。下がれ」


 何れにしても聖都奪還軍の出撃は、さらに遅れる見込みと明らかになったのである。


 ――もはやレオに頭を下げるほかなかろう。

 ――誠心誠意を込めたなら、即座にタルタロス行きなどとは……。


 エヴァンの変わり果てた姿を知ったアダムは、天秤衆への恐怖心から酒と薬の力を借りねば寝付けぬ精神状態となっていた。


「ん――あ――待たれよ」


 執務室を出ようとしていた禁衛府長官の背を呼び止めた。


「聖下の所在は知っているか?」


 レオへ頭を下げに行こうと腹を決めたところで、数日前より本人の姿を見かけないと思い起こしたのである。


 教皇即位を宣して以降も、レオはイリアム宮でエヴァンが使っていた執務室から宮廷政治を好きに差配していたのだ。


 否が応でも日に何度かは顔を会わせていた。


 ――が、EPR通信も繋がらん。どうなっているのだ?


「ほう」


 面白そうな表情を禁衛府長官が浮かべる。


「どうにも話が噛み合わぬと思っていたのだが――これは道理。いや、愉快愉快」


 相手の態度からは大いに不快なものを感じたが、同時にアダムの背には戦慄が走っていた。

 何某なにがしかの重用事から己が排除されているのだと悟ったからである。

 

 信仰と恐怖が支配するこの場所で、何よりも可愛い自分自身の保身を企図するなら非常に良くない兆候と言えるだろう。


「レオ聖下とガブリエル総代ならば、天秤衆と共に既に帝都を発たれたぞ。忠実で思慮深い奴隷級も伴われたと聞く」

「――あん?」


 決して驚くまいと決めていたのだが、アダムは己を律する事が出来なかった。


「た、発った――だと――どこへ?」

「当然、聖都と決まっていよう」

「艦隊を連れず行くなど余りに――」


 無謀ではないかという言葉を慌てて飲み込んだ。レオ派の大司教に連なる目前の男が瞼を細めたからである。


 イリアム宮に在って、否、復活派勢力圏において、レオ・セントロマの無謬性は女神と等しい程に不可侵となりつつあった。


「い、いや、しかし――聖都奪還軍が露払いをせねばならんだろう」


 その為にこそ、アダムは額に汗して馴れぬ職務に勤しんできたのである。


「それに対する解は、既に自身で告げていたのではないかな?」

「何――ま、まさか――噂は――真――!?」


 噂通り聖骸布艦隊が壊滅しているのなら、確かに天秤衆のみで聖都へ入る事も可能となるだろう。


 そして、アレクサンデル救出を目指すベルニクを聖都へ誘い込んだ後、暫し遅れて編成を終えた聖都奪還軍がエステルポータルを塞げば相手を袋の鼠と出来る。


 聖骸布艦隊を壊滅させた戦力と挟撃したなら、憎きベルニクを討ち取る事も可能となるかもしれないのだ。


 レオが聖都奪還軍の出撃を急かさないのは必然だったのである。


「信仰だ。信仰のみが全ての門戸を開き、穢れた異端を払ってゆく」

「――ぐ――ぬ」


 朧気おぼろげながら状況を把握したとはいえ、アダムとしては返す言葉も無い。


「信仰を証したいならば、喜捨を誇る前に為すべき事を為されよ」


 ここぞとばかりに、禁衛府長官は賢し気な口調となる。


「聖都奪還軍の編成は私に一任し、お尋ね者の捜索に尽力されては如何かな?」

「わ、私は、宰相として――」

「エヴァン・グリフィス」


 嘗てはアダムの盟友であり、へつらう対象であった男の名を告げた。


「奴の死体を持ち去った異端の不届き者が未だ帝都に潜んでいるとか。太上帝に仕える怪し気な女も関わっているそうで、レオ聖下は殊の外に胸を痛めておられる」


 タルタロスへ繋いだ張本人が胸を痛めるなど笑止千万だったが、アダムにそれを指摘する丹力は無かった。


「この不届き者共を見事に捕らえたなら、聖下の覚えも目出度くなりましょうなぁ。クフフフ」


 腹立たしい男の居丈高な助言とはいえ、確かに事実であるとアダムは考えた。


 ◇


 これより数時間後、自らの生き残りを賭して不届き者を捕縛すると決し、治安機構を呼び出し状況を問い質していたアダム・フォルツは三つの報告を受けた。


「ハバフク方面の防衛陣が、ベルニクにより破られ――」

「悪鬼めが」


 毒づきはしたが、アダムにとって想定の範囲内ではある。五万隻の艦艇に立ち向かえるほどの防衛陣は築かれていないのだ。

 

「なお、未知ポータルより一万隻に及ぶベルニクの増援です。例の女王蟻と――その――例の白いのが――」

「白き悪魔か――」


 こちらも想定はしていたが、アダムの感ずる恐怖を減じさせはしなかった。

 天秤も怖ろしいが、白き悪魔とて怖ろしい。


「また――」

「ま、まだあるのか?」


 幾分うんざりした思いもあり、アダムは詮無き事を告げた。


「禁衛府長官より先に――と」

「ほう」


 興味と愉悦がアダムの心内に湧いた。


「銀獅子艦隊司令からの通告です」


 だが、通告という言葉に愉悦は萎み、嫌な予感に蟀谷こめかみが痛んだ。


「女帝陛下に弓引く命には従えぬ事、伏してご承知おき頂きたく、と」

「あん?」

「つまりは、陛下に対し直接的な攻撃は出来ないという意味でしょう」

「意味など説明されずとも分かるわっ!」


 銀獅子艦隊とは女帝に対し絶対的忠誠を誓うよう教育されて来た近衛師団なのである。

 だが、指揮命令系統としては禁衛府長官に従うべき立場にあった。


「当たり前の話ではないか。オビタルならば誰もかような狼藉を働けぬ」


 無論、表立っては、という条件は付くのだが――。


「ともあれ、相手はベルニクだ。気にするなと伝えておけ」

「いえ、そのう――女王蟻の艦尾フラッグが判明しまして――」


 混沌著しいカナン星系へ、悪鬼と悪魔を従え来たるのは――、


「つまりは、御召艦おめしかんです」


 女帝ウルドである。

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