69話 誰が為に鐘は鳴る。
「本当なら、この時間は面会させられねぇんですぜ」
奇妙な組み合わせの客人を朝から案内している獄卒は、恩着せがましい声音を使い何度も同じ事を言った。
「タルタロスの鐘が鳴る頃合いは、誰も入れちゃ駄目なんでさぁ」
「そうか。恩に着よう」
ミザリーは五度目も律儀に同じ
「へ、へへ、へぇ」
前方を歩く獄卒の肩が満足気に揺れる。
情実を嫌うレオ・セントロマなら便宜を図る益など無いが、太上帝の近習はお堅い坊主とは違うらしい――と、獄卒は舌で乾いた己の唇を舐め回した。
ミザリーと共に訪れた車椅子の老婆は自律神経に不調を来しているらしく、目深にフードを被り厚手のローブに包まれながらも「寒い寒い」と繰り返している。
その車椅子を押すのは、健気な美幼女だった。
――おぼこいぜ――ご褒美に呉れねぇかなぁ。
獄卒の聞くところによると、老婆は囚われのエヴァン公に連なる貴人である。
――さすがに貴族の娘っ子は無理か。けど、銀冠じゃねぇし強気で交渉したらポイッと呉れるかも……。そしたら、ぐへへへ。
下卑た妄執の波動を感じたテルミナは悪寒に震えつつも、懸命に無垢な笑みを浮かべ穢れ無き童女の演技を披露した。
「随分と奥まで来ましたけれど、従伯父様のお部屋はまだなのかしら☆」
その瞬間、フードの下に隠されたミセス・ドルンの瞳が大きく見開かれたのだが、当然ながら誰も気付く者は居なかった。
「ぐふふ、もう少しだよ、お嬢ちゃん」
タルタロス牢獄最奥部、厚い鉄扉の並ぶ薄暗い通路を歩いていた。
異端を繋ぐ獄に防音設備を備えるはずもなく、鉄扉の覗き穴を通じ
自由への羨望を煽る為か覗き穴は双眸が収まる幅で、房の中から外を見る事も可能な造りとなっていた。
「ここいらの連中はまだマシでさぁ。
異端嫌疑の度合いに応じた扱いという建前なのだが、実際には獄卒達の手間を省く為なのだろう。
「まあ、そうなんですの。さすがは――」
「た、助けてくれっ!!!」
テルミナ迫真の演技を遮ったのは、彼女の右隣に位置する鉄扉から叫ぶ男の声だった。
横を見れば、
「あ、あんたを――見た事がある。見た事があるんだっ!!」
「――え――誰だテ――ど、
瞳だけでは分からないし、声にもテルミナは聞き覚えが無かった。
「ベルニクの――」
「ブペッ――うるせぇな。気狂いめっ」
「ぎゃっ」
相手の双眸へ白玉のような唾を吐きつけた獄卒は、忌々しい表情を浮かべ覗き穴の蓋を閉じてしまった。
「お嬢ちゃんが怖がるだろうが」
「い、いえ別に――」
ベルニクという言葉に背の冷える思いはしたが、自分を知っていると言う男の素性は気になっていた。
「ほれ、熊の子倅でさぁ」
獄卒が頭の脇で人差し指をくるくると回す。
「完全にイッちまってます」
「ま、まあ」
テルミナは口元を押さえ、相手の期待する通り怯えた表情を浮かべた。
――ジェラルド・マクギガンか。
――けど、どこで――あーしの顔を……。
両者に接点は無い。
彼女に思い当たる節があるとするなら、インフィニティ・モルディブにおけるポーカー中継ぐらいしかなかった。
映像の端にテルミナも写り込んでいた可能性は高いが、それだけでテルミナをベルニク関係者と気付くのか――という疑問は残る。
――となると、入れ知恵した野郎が……。
「着きましたぜ。ミザリー様、ええと――」
ミザリー以外の相手は名すら尋ねていなかった事に、獄卒はようやく思い至る。
せめて美幼女の名だけは後で聞き出そうと決していた。
「ご苦労」
と、ミザリーが鷹揚に告げた時、タルタロスの鐘が鳴る。
「おふっ、丁度良く着きましたな」
そう言って獄卒は壁面で鈍い燐光を放つ小さな丸座へ掌を押し当て、スライド錠の外れる音を確認してから鉄扉を押し開いた。
「――ちょいと、お嬢ちゃんには刺激が強いかもしれやせんが」
などと余計な前置きをした獄卒だったが、輝けるエヴァン・グリフィスを知る者ならば誰もが衝撃を受ける光景だったかもしれない。
「――!」「――!」
ミザリーとテルミナは言葉を喪い息を飲んだ。フードの奥からその光景を見たドルンとて思わず小さく舌打ちをした。
レオが訪れた際と同じく、
大きな変貌を遂げているのはエヴァン本人のみである。
宮廷女達の心を惑わせ続けた彼の顔貌は、絶え間ない暴力と飢餓により原型を止めていなかった。
美しく艶やかだった長い銀冠の多くは抜け落ち、残った毛髪とて光沢を完全に喪っている。
四肢の爪は全て剥がされており、その全身に鞭だけでは不可能な傷痕が生々しく残っていた。
良く見たならば、右脚に至っては壊死しかっているのも分かっただろう。
もはや信仰の罪に対する刑罰などではない。歪んだ妄執を抱く者達が与えられた玩具を好きに甚振った結果に過ぎなかった。
「――い、生きてんのか?」
演技を完全に忘れてしまったテルミナが地声で当然の疑問を口にする。
「勿論でさぁ。殺しちゃ楽しみが――ああ、いやいや、女神の審判まで大切に預かるのがタルタロスの務めですから」
そう事も無げに告げた獄卒は、軽い足取りでエヴァンの許へ近付いていく。
「鐘が鳴ったんで、今から降ろしまさぁ。ちょいと面倒で――」
獄卒が杭の後ろ手に回り金属音を鳴らしながらエヴァンの拘束を解くと、枯れ葉の如く力無いエヴァンの身体が地面に落ちる。
後頭部をしたたかに硬い床へ打ちつけたが、痛がる様子もなく仰向けのまま身動きひとつしなかった。
「ふう」
さしたる重労働をした訳でもないが、獄卒は額の汗を拭う仕草をして見せた。
「近頃じゃ、どうにも気合いが足りない男になりましてね。コイツを起こすには――」
腰に吊るしたバックから注射器を取り出し告げた。
「――バシィンと打つ必要があります。打てば愉快に話しますんで暫しお待ちを」
「いや、待て」
エヴァンの右腕を取る獄卒の動きをミザリーが制した。
「ひとつ確認なのだが」
事前に調べてはあったのだが、念の為に問うておこうと考えたのだろう。
「房の中は監視していないのだな?」
「そりゃそうです。出れもしねぇんですから」
囚人に対する非道な扱いを、映像記録として残さない知恵だけは働くのだ。
「その点、改善の余地ありと太上帝には進言しておこう」
「はぇ?い、いや、そいつはお薦めでき――ぬぎゃ――!!」
漏れる悲鳴はテルミナが体躯に似合わぬ万力の右手で押さえつけた。
無防備な獄卒の背に回った彼女は、相手の腰に吊るされた短剣を抜いて、尻の割れ目を刺し貫いたのである。
するりと入ったので、恐らくは既に穴の在る辺りだったのだろう。
取り落とした注射器を拾い上げたミザリーが、獄卒の脳天へ「バシィン」と針を打ち込んだ。
数舜後に痛みを忘れた獄卒は、呆けた眼差しと笑みを浮かべ床に崩れ落ちていく。
「なかなかに効くようだ」
「コイツには勿体ねぇ末だがな。まあ、往生しやがれ」
「あんた達――こっちも起きたようだが――」
車椅子から降りたドルンは、既にエヴァンの傍にしゃがみ彼の頭を膝に乗せ頬を撫でていた。
その姿には相手への慈しみめいた想いも感ぜられたが、隻眼に秘められた内なる彼女の気持ちなど誰にも推し量れない。
「――生きて運び出せるかは微妙だね」
車椅子で運び陽光に晒すだけでも息絶えてしまいそうに見えた。
「糞ッ」
しっかりと獄卒の頭を蹴り上げてからテルミナは、ドルンとエヴァンの許へ駆け寄った。
「おい、エヴァ公。テメェを助けてやる。ベルニク様のご厚意だ」
「――」
「気合いで生きろ」
「――ぁ――」
――駄目だ。コイツは死ぬ。きっと。
そう考えたテルミナは、与えられた任務の優先順位に基づき行動した。
「死ぬなっ!死ぬなら、その前に教えてくれ」
トールから与えられた意味不明な指示を履行しなければならない。
「お前の名前を教えてくれ。エヴァンじゃない。本当の名前だ」
そう尋ねた瞬間、ミセス・ドルンとミザリーの視線が奇妙に交錯したのだが、生憎と必死のテルミナは気付けなかった。
「頼む」
彼女の想いが通じたのか否か、今際の際にあるエヴァンは問いに応えようとしたのだろう。
確かに彼の瞳は、
「――く――は――」
良く聞き取ろうとテルミナが耳を寄せた。
「――オオ――ガ――ミ――」
だが――、
「御託は終わりさ」
と、小さく呟いたドルンが、仕込み杖の先にある
「あ、お、おい、テメェっ!!!」
予想外の展開にテルミナは狼狽えるが、彼の胸から溢れ出す血を止める術はない。
「これで運びやすくなった」
膝に乗せていたエヴァンの頭をそろりと床に置いて立ち上がると、スカート裾に着いた埃を掃いながら告げる。
「死人はトラッキングシステムに検知されないのさ」
呆然とするミザリーと歯噛みするテルミナへ向かって、ミセス・ドルンは人の悪い笑みを浮かべた。
「さっさと車椅子に乗せな。ずらかるよ」
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