67話 良心。

 ──怖い。


 と、感じている己に気付いたミザリーは、公用車の窓外から目を逸らし苛立ち混じりの舌打ちをした。


 久方ぶりにイリアム宮を後にして、ヴァール街に用意した仮住まいへの帰路である。


 合理非情を旨とする七つ目のミザリーだったが、レオ一派の蛮行を平然と黙認するイドゥン太上帝を怖れたのだ。


 ──いや、黙認どころではないな。


 レオに意思など持たせていない──と、盤双六に興じながら太上帝は明確に告げたのである。


 ──昔から人をたばかり操るのを得手えてとする女ではあった。が、レオには女の色香など通じない。

 ──となれば、慈愛とやらで上手く丸め込んだのだろうか……。


 ミザリーの憂鬱な想念は、目的地到着を告げる柔らかな音色に中断された。


 古びたコンドミニアムのエントランス前へミザリーを降ろし、乗客不在となった公用車は再びイリアム宮へ戻ってゆく。


 宮中内裏だいりに出入りする者の住処には見えないが、自前のセキュリティシステムを構築し、警備員からドアマンに至るまで七つ目の子飼いで揃えていた。


「──お帰りなさいませ」


 エントランスに立つ屈強そうなドアマンが恭しく頭を下げ重厚な扉を押し開いた。


「うむ」


 と、短く応えたミザリーがドアマンの脇を過ぎたところで──、 


「ミザリー様」


 珍しく背後から声が掛かる。


「?」


 怪訝に感じながらミザリーが振り返った。


「その──お客様が──」

「待ちくたびれてるよ」


 聞き覚えのあるしわがれ声がエントランス内に響き、思わずミザリーは身を強張らせた。


「死ぬまでイリアム宮に居付くつもりなのかと心配していたところさ」


 仕込み杖に右半身の体重を預けて立つミセス・ドルンの背後に、コンドミニアムの警備員達が畏まった様子で居並んでいる。


 秘蹟を宿した隻眼に、七つ目は決して逆らえない。


「よもや帝都へお入りになっているとは思い至りませんでした」


 ミザリーとしても想定外の事態だったが、動揺を悟らせまいと努めて落ち着いた声音で返す。


「お知らせ頂けたなら、ご招待も出来ましたでしょうにな」


 そう言いながらミザリーは、ゆるりと後ろへ下がっていく。背後に立つのがドアマンのみであれば、振り払って逃亡を図る事も可能だろう。


 ──今少しで、クルノフの秘蹟は我が手に落ちるのだ……。


 不確定要素は多いが、イドゥン太上帝との関係性を利用して従来の計画を進める道は残されている。


 だが、彼女の望みは既に絶たれていた。


「逃がさねーぞ、フード野郎」


 何処いずこからともなく現れた美幼女が、バヨネットの鞘で肩を叩きドアマンの隣に立っている。


「──ベルニク」


 ミザリーは忌々しい思いで、己の進む道を常に阻害する者の名を口にした。


「おうともよ。ちっとばかり、テメェにゃ協力してもらうぜ」


 ◇


 テルミナ、ミセス・ドルン、そしてミザリーが、ヴァール地区のコンドミニアムで邂逅を果たした頃、大司教パリスは詩編大聖堂の自室で過ごしていた。


「相変わらず貧相な居室じゃわい」


 簡素なベッドに身を横たえ天井を見ながら独り言を呟く。


 偽りの教皇選挙など適当に終わらせて、居心地の良い屋敷へ戻り、水煙草をくゆらせながら女の尻を撫でるさまを思い描いていた。


 不埒な大司教パリスは、アレクサンデルと同じく聖兵士官出身である。


 極貧の家に生まれたが、地頭と要領の良かったパリスは、学費の免除される聖兵士官学校で高等教育を受ける道を選んだ。


 それなりの成績を修め卒業し聖兵となり、アレクサンデル・バレンシアとの出会いが未来を切り開いた。

 

 悪漢は聖兵らしからぬ俗なパリスを好み、自身の子飼いとして重用したのである。


 そのアレクサンデルが聖兵総長を辞して出家すると聞かされたパリスは、聖職者になるなど想定外だったが兎も角も悪漢の後を追った。


 道徳心にすこぶる欠ける男は、アレクサンデルの適度に濁した池でしか生きられぬ──と、悟りめいたものを得ていたのである。

 ともあれ、彼の傍に在るのは心地が良かったのだ──。


 そんなパリスが最も嫌うのは原理主義勢力と、その頭目たるレオ・セントロマ枢機卿である。


 ──天秤など、庶民の金払いを良くさせる脅しに使えば良いのだ。


 パリスは喜捨という名の収賄を愛しており、人が罪を犯す場所であればあるほど聖職者へ富をもたらすと心得ていた。

 故に、歓楽街の粛清など許し難い行為である。


 ──例え仮初かりそめでも、あの頓痴気トンチキが教皇になるなど虫唾が走るわい。


 だが、パリスには抵抗する術が無かった。


 ベルニクは当然ながらオソロセアやサヴォイアなど新生派勢力に与する諸侯は誰も来ていない。大司教もパリスを除けばレオ派に属する者ばかりである。


 ──小娘に無理強いされねば、儂も安逸な屋敷に籠っておったのだが……。


 この情勢下では、どうあってもレオの教皇即位は信任されるだろう。


 無駄に不信任を表明すれば害される可能性が高い為、パリスは身の安全を最優先する心積もりでいた。


 結果を伴わない英雄的行動に、いかなる意味があろうか?


 ──意味など無いッ!!


 などと、悶々と考え込むパリスの耳に、居室の薄い扉を叩く音が響いた。


「ん?」


 ベッドから身を起こしたパリスは、腰の引けた様子で扉へ近づいていく。


 ──教皇派を事前に始末するつもりでは……。


 そんな彼の一抹の不安は、訪問者の名を聞いて益々助長された。


「イーゼンブルクのエッケハルトだ。急ぎ招じてくれぬか」

「──ひっ──んぐ」


 パリスは口元を両手で押さえ、溢れ出そうになる悲鳴を必死に飲み込んだ。


 イーゼンブルクを主巡回区とするエッケハルト大司教はレオ派の中心人物として知られ、かねてよりアレクサンデルを不道徳と非難する急先鋒でもあった。


「我等の関係性を鑑みれば驚愕は分かるが──頼む。扉を開けてくれ。頼みがあるのだ」

「わ、分かった……」


 断ったところで薄い扉では意味など無いと考えたパリスは、相手の心象を良くするべく素直に応じる事にした。


「すまぬな。こんな夜更けに──」


 珍しく殊勝な物言いのエッケハルトに奇妙さを感じつつ扉を開け放った。


「多数で訪れて──」

「ぎゃぎゃぎゃっ!!」

「ま、待たれよ」


 多数の大司教を背に従える相手にパリスは恐懼したのだ。


「いらぬ心配をされるな、パリス兄弟。暫し我等に時間を呉れ」

「な、何のだ?」


 探るような視線を周囲とパリスの居室へ送った後、エッケハルトは囁くような声音で告げた。


「蠅の王が教皇位に就くなど、我等の良心が許さぬ」

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