67話 良心。

 ――怖い。


 そう感じている自分に、イリアム宮から乗る公用車の窓外を眺めながら気付いたミザリーは苛立ちの混じった舌打ちをした。


 久方ぶりに旧帝都の棲家とするヴァール地区へ入った安堵感が、素直な思いを彼女の表層部に浮かび上がらせたのだろう。


 オビタル帝国揺籃期に即位した女帝の名を冠したヴァール地区は、その名が示す通り女帝ヴァールの肝入りで開発が進められた一帯である。


 コルシカ島出身の独裁者に魅入られていた彼女は、諫める近習や廷臣の言葉には耳を貸さず、ハイエリアから遠く離れたこの場所をエンパイアスタイルの壮麗な建築物で満たそうとした。


 かようにして、己の握った大権を気儘に行使したヴァールであったが、太古の皇帝とは異なり軍事的才能を持ち合わせておらず、辺境で起きた叛乱の鎮圧、諸侯同士の諍いの仲裁、船団国による大規模襲撃への報復――その何れも大敗を喫している。


 女帝の権威と権力を失墜させた彼女の治世は不慮の死により幕を閉じ、残されたヴァール地区は忌み地とされ以降の開発計画から取り残されてきた。


 故に、現在では治安と住人の柄の悪さにおいて、クラブ「G.D.D」の立地するダウンタウン地区などとは比べ物にならない地域となっている。

 

 あるいは治安機構が、この地を汚濁の集積所と決したのかもしれない。トラッキングシステムによる監視が緩く、結果として脛に疵持つ者はここに集まるのだ。


 ――だが――次に狙われるのは、ここいら一帯だろう。


 公用車の窓外に拡がる安モーテルと安酒場が居並ぶ目抜き通りは、戒厳令下の夜にも関わらず酔客と妖しげな女達で賑わっていた。


 ヴァルプルギスの夜以降、閑古鳥の無く他地区の盛り場とは対照的な光景である。


 ――詐術的なコンクラーヴェを終え、聖都のアレクサンデルを始末したなら、いよいよ気狂い坊主を止める手立てなど無くなってゆく。


 レオ・セントロマ枢機卿は、教皇に即位しアレクサンデルを廃した後、天秤衆を使い全ての不道徳を焼き尽くす腹積もりを固めていた。


 ハイエリア、ダウンタウン、そしてグリフィスで行っている聖行を、より広範囲に渡り推し進めていくのだ。


 合理非情を旨とする七つ目のミザリーとはいえ、この愚行――否、蛮行を、嬉々として黙認するイドゥン太上帝を怖れた。


 ――いや、黙認どころではないな。


 レオに意思など持たせていない――と、盤双六に興じながら太上帝は明確に告げたのである。


 ――昔から人をたばかり操るのを得手えてとする女ではあった。が、レオには女の色香など通じない。

 ――となれば、慈愛とやらで上手く丸め込んだのだろうか……。


 彼女の果てぬ憂慮は、到着を告げる柔らかな音色に中断された。


 古びたコンドミニアムのエントランス前へミザリーを降ろし、乗客不在となった公用車は再びイリアム宮へと走り去って行く。


 ヴァール地区内では高級物件に類するとはいえ、宮中内裏だいりへ出入りする者の住む場所には見えなかった。


 だが、トラッキングシステムの追跡を嫌うミザリーはヴァール地区を棲家と決め、ロイド家に目前のコンドミニアムを買い取らせていたのだ。


 その上で自前のセキュリティシステムを構築し、警備員からドアマンに至るまで七つ目の子飼いで揃えている。


「――お帰りなさいませ」


 エントランスに立つ屈強なドアマンが、フードを目深に被る女に恭しく頭を下げつつ重厚な扉を押し開く。


 代々と七つ目に仕えて来た血筋で尚且つ武芸百般を極めた彼が立つ限り、おいそれと不審者が侵入するはずもない。


「ああ」


 短く応えたミザリーがドアマンの脇を過ぎたところで――、 


「ところで、ミザリー様」


 珍しく背後から声が掛かった。


「――どうした?」


 ミザリーは振り向き問い返す。


「お客様が――」

「待ちくたびれてるよ」

「――!」


 特徴的なしわがれ声がエントランス内に響き、思わずミザリーは身を強張らせた。


「死ぬまでイリアム宮に居付くつもりなのかと心配していたところさ」


 仕込み杖に右半身の体重を預けて立つミセス・ドルンの背後には、コンドミニアムの警備員達が畏まった様子で並んでいる。


 秘蹟を宿した隻眼に、七つ目は決して逆らえないのだ。


「よもや帝都へお入りになっているとは思い至りませんでした――」


 ミザリーとしても想定外の事態ではあった。


「知っていたなら、ご招待させて頂いたものを」


 そう言いながらミザリーは、ゆるりと後ろへ下がっていく。背後に立つのがドアマンのみであれば、振り払って逃亡を図る事も可能だろう。


 ――今少しで、クルノフの秘蹟に手が届くのだ。


 エヴァン・グリフィスが囚われている点は痛手といえ、イドゥン太上帝との間に築いた関係性を利用して従来の企図を為す道は残されている。


 だが――、


「逃がさねーぞ、フード野郎」


 何処いずこからともなく現れた美幼女が、バヨネットの鞘で肩を叩きドアマンの隣に立っていた。


「――ベルニク」


 ミザリーは忌々しい思いで、己の進む道を常に阻害する者の名を口にした。


「ちっとばかり、テメェにゃ協力してもらうぜ」


 ◇


 トールの仲介によって当面の目的が一致すると確認したテルミナとミセス・ドルンが、ヴァール地区の安モーテルを出てくだんのコンドミニアムへ向かっていた頃――。


 聖堂閉居となる初日の夜を、大司教パリスは詩編大聖堂の自室で過ごしていた。


「相変わらず貧相な居室じゃわい」


 簡素なベッドに身を横たえ天井を見ながら独り言を呟く。


 偽りの教皇選挙など適当に終わらせて、居心地の良い屋敷へ戻り、水煙草をくゆらせながら女の尻を撫でるさまを思い描いていた。


 かように不埒な大司教パリスは、アレクサンデル同様に聖兵士官出身である。


 非常に貧しい家に生まれたのだが、地頭と要領の良かった彼は学費の免除される聖兵士官学校で高等教育を受ける道を選んだ。


 それなりの成績を修め卒業したパリスは聖兵となり、アレクサンデル・バレンシアとの出会いにより未来を切り開いていく。悪漢アレクサンデルは聖兵らしからぬ俗なパリスを好み、自身の子飼いとして重用したのである。


 そのアレクサンデルが聖兵総長を辞して出家すると聞かされたパリスは、聖職者になるなど想定外であったのだが兎も角も悪漢の後を追った。


 道徳心にすこぶる欠ける自分などは、アレクサンデルの適度に濁した池でしか生きられぬ、との悟りを開いていたのだろう。

 何より、彼の傍に在るのは心地が良かった。


 そんなパリスが最も嫌うのは原理主義勢力と、その頭目たるレオ・セントロマ枢機卿なのだ。


 ――天秤など、庶民の金払いを良くさせる脅し程度に使えば良いのだ。


 パリスは収賄じみた喜捨を愛しており、人が罪を犯す場所であればあるほど聖職者へ富をもたらすと心得ていた。

 彼にしてみれば、歓楽街の粛清など許し難い行為だったのである。


 ――例え仮初かりそめでも、あの頓痴気トンチキが教皇になるなど虫唾が走るわい。


 とはいえ、パリスに為す術など無かった。


 新生派に与する諸侯は誰も来ていない。

 数で倍する大司教とて、パリスを除けばレオ派に属する者ばかりなのだ。


 アレクサンデル派に属する大司教は、レオの荒ぶるカナン星系に入る愚を冒さなかったのである。


 ――儂だってえっちな小娘に無理強いされねば、我が安逸なる屋敷に籠っておったのだが……。


 この情勢下では、どうあってもレオの教皇即位は信任されるのだ。


 まかり間違って不信任を表明したなら害される可能性があり、パリスは高らかに信任を表明することで身の安全を確保するつもりでいた。


 結果を伴わない英雄的行動に、いかなる価値があろうか?


 ――価値など無いッ!!


 こうして、パリスが心中でコンクラーヴェにおける行動方針を改めて決した時、居室の薄い扉を叩く音が響いた。


「ん?」


 ベッドから身を起こしたパリスは、腰の引けた様子で扉へ近づいていく。


 ――アレクサンデル派を事前に始末するつもりでは……。


 そんな彼の一抹の不安は、訪問者の名を聞いて益々と助長された。


「イーゼンブルクのエッケハルトだ。急ぎ招じてくれぬか」

「――ひぃ――ぐ」


 パリスは口元を両手で押さえ、溢れ出そうになる悲鳴を必死に飲み込んだ。


 イーゼンブルクを主巡回区とするエッケハルト大司教はレオ派の中心人物として知られ、かねてよりアレクサンデルを不道徳と非難する急先鋒でもあった。


「我等の関係性を鑑みれば驚愕は分かるが――頼む。扉を開けてくれ。頼みがあるのだ」

「わ、分かった――」


 断ったところで薄い扉では意味など無いと考えたパリスは、心象を良くする為にも素直に応じる事にした。


「すまぬな。こんな夜更けに――」


 珍しく殊勝な物言いをするエッケハルトを奇妙に思いながら扉を開ける。


「――多数で訪れてしまい」

「ぎゃぎゃっ!!」

「ま、待たれよ」


 五、六名の大司教を従える相手に恐懼したパリスが閉ざそうとした扉を、大柄なエッケハルトは強く押さえた。


「いらぬ心配をされるな、パリス兄弟。暫し我等に時間を呉れ」

「な、何のだ?」


 探るような視線を周囲とパリスの居室へ送った後、エッケハルトは囁くような声音で告げた。


「蠅の王が教皇位に就くなど――女神――いや、我等の良心が許さぬ」

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