63話 愉快な三人組。

 イリアム宮──内裏だいり最奥の居室に、イドゥン太上帝とフードを目深に被った女がロココ調のテーブルを挟んで座っていた。


 テーブルの上には銀細工の施された豪奢な盤双六が乗せられている。


弟君おとうとぎみの状況は非常に宜しくない」


 最高位の貴人を前にしても、女はイヴァンナへ指示を下す時と同じくフードを外さない。


 彼女と太上帝との関係性は君臣と異なるのだ。


「獄卒の性悪か白眼の天秤に煽られてかは分からんが、あれへの甚振りが度を越している。プルガトリウムを待たず命脈が尽きよう」

「ええ。胸が痛みます」


 自身の胸をそっと押さえたイドゥン太上帝は、憂いを帯びた瞳を伏せ哀し気に呟いた。


 だが──、


「ミザリー、貴方の番手ではなくて?」


 数舜後には何事も無かったかのように柔和で満たされた表情を浮かべ、イドゥン太上帝は盤双六に関心を戻していた。


 ──真に奇怪な女だな……。


 ミザリーは呆れた思いを抱きながらさいを振って自らの駒である白石を動かした。


 唯一の肉親である弟がタルタロス牢獄に繋がれ、故郷のグリフィス領邦では天秤衆が異端審問の名を借り暴虐の限りを尽くしている。


 街にはヴァルプルギスの傷痕が未だに残っていた。


 だが、イドゥン太上帝の心に揺らぎは見られない。


 慈愛に満ちた貴人と賛美される女の持つ闇の深淵は、全てを超克したと自負していた己の浅慮さをミザリーに思い知らせてきた。


 ──あるいは全てを黄泉よみに置いて来たのやもしれぬ。

 ──ならば情実では無理筋か。


 そう考えたミザリーは、話の運びを変えようと再び口を開いた。


「プロイスの寡婦がベルニクの特異点と結んだ」

「まあ、方伯夫人が?」

「我等をクルノフから遠ざけようという腹積もりなのだろう」


 の地に眠る秘蹟を手にする為、エヴァンと天秤衆を使いクルノフを討とうと企図したのだが、七つ目のミザリーは想定外の状況に陥り次なる打ち手に窮していた。


 ──特異点に触れたカドガンは私の駒に戻る事はあるまい。

 ──裏切らせたマクギガンも奪われた。

 ──毒は潜ませてあるとはいえ効果を現わすには刻を要する。


「それは困りましたわね──それっ」


 言葉とは裏腹にイドゥン太上帝はさいを振るのを忘れない。


 その様子をミザリーはフードの奥に潜む昏い双眸で観察している。


「ペネロペ」


 太上帝の幼名である。


「狂信者共から弟君おとうとぎみを救わねばならん」


 目下、ミザリーの計画にとって最も大きな障害となっているのは、呪われし覚醒を果たしたレオ・セントロマだった。


 彼等に己の分限を悟らせ、エヴァン・グリフィスを解放し、従来の正道に戻す事が急務である。


「聖教会の枠組みに拘泥するレオと天秤ずれでは城塞と秘蹟の価値を解せぬ。このままでは──」


 ミザリーがさいを掌に握ったまま言葉を重ねていると、テーブル越しに腕を伸ばした太上帝の指先が彼女の頬に触れた。


「良いのです」


 太上帝は深い笑みを浮かべ、美しい双の瞼は円弧を描き長い睫毛まつげが瞳を隠した。


 放たれるのは、圧倒的慈愛──。


 準静電界の電位変化では説明不可能な揺らぎがミザリーを包み込んでゆく。誰もが抗する気力と必要性を喪失してしまう心地の良い沼である。


 だが、ミザリーは知っていた。


 これこそが、全てを喰らい尽くそうと牙を研ぐ虚無であると。


「──よ、良い訳がなかろう」


 吞まれてはならぬと己を律し言葉を継いだ。


「木っ端の分限に──レオに意思など持たせてはならん。我らの重用事を仕損じよう」

「相変わらず心配性ね」


 ミザリーの頬に触れていた指先を離すと、イドゥン太上帝はくすりと少女のように笑った。


「あれに意思など持たせてはいませんよ」

「何?」

「持たせるものですか」

「まさか、ペネロペ──。お前が全てを!?」


 春陽の如く暖かい波動が五感を貫いているが、ミザリーは全身の震えを抑える事が出来ない。


「女神ラムダの御心のままに。さ、ミザリー」


 太上帝の背面に位置する窓から差し込む陽光が、バイオレットの髪を輝かせ銀冠にも劣らぬ美しさに仕立て上げていた。


「早くさいを振るのです」


 ◇


 イドゥン太上帝と七つ目のミザリーが優雅に盤双六に興じたうららかな午後、レオ・セントロマ枢機卿は教理局に主だったメディアを招いていた。


 プロヴァンス女子修道院焼き討ちより三月みつきが過ぎている。


「我等の調査によりコンクラーヴェにおける不正が発覚した。女神の聖業を汚す許し難き罪である」


 女帝ウルドの生死をたばかり選挙結果を誘導したという理屈であった。


「しかる罪業と天秤への不敬により、アレクサンデル・バレンシアを破門に処した。トール・ベルニクを始め、この罪に加担した者共も同様である。当然ながら、異端審問も執り行う運びとなろう」


 コンクラーヴェを無効とし教皇とは認めぬというていで、レオの王国からアレクサンデルを排除したのだ。


「急ぎ、再びコンクラーヴェを開き、正統なる女神のしもべを決する。枢機卿、大司教、諸侯各位への参集は既に発した」


 大司教の多数は従来よりレオの派閥に属しており、ヴァルプルギスの直後に呼び寄せた諸侯には念書を記させていた。

 故にコンクラーヴェの結果は火を見るよりも明らかである。


「参集に応じぬ者は、全て異端とされよう」


 ◇


「な、待って正解だったじゃろ?」


 照射モニタに写る報道を見ながら、大司教パリスは得意気な表情を浮かべた。


「散々待たされたんだ。読み違えてやがったら殺してたぜ」


 向かいの席に座るテルミナが苛とした口調で応える。


 封建制がはぐくんだ強固な自治権が障壁となり、ニューロデバイスによる個人認証は領邦間を跨がない。情報共有を試みた歴史はあるのだが、様々な利権団体による横槍が入って現在に至っている。


 とはいえトール近習の一人であるテルミナが正体も隠さず平然とカナン星系に入れるはずもない。


 そこで、テルミナが最初に企図していたのは、密輸船に紛れて忍び込む手段だった。


 だが、エヴァンが実権を握って以来、厳しい綱紀粛正が役人に行き渡り、結果として袖の下が通り難くなっていたのである。

 戒厳令下という事もあってさらなる困難が予想された。


「かといって聖巡船を利用しようとは、真に罰当たりな娘じゃわい」


 聖都アヴィニョンに留まる枢機卿と異なり大司教は領邦間の往来が多い。その為、聖巡船と呼ばれる小型艦艇を割り当てられていた。


「テメェの糞船なら何も調べられずに入れるんだろ?」

「以前ならばな──昨今は、ほれ、儂は──」


 生え抜きのアレクサンデル派である大司教パリスは、レオの荒れ狂う勢力圏へ入るのは危険が伴う。


 タルタロス牢獄へ直行という可能性もあった。


 無論、いずれにせよ大司教パリスは、べドラムゴラ医療センターで素数を諳んじる日々が待ち受けているのだが──それはまた別の話である。


「だが、しかし! 猊下に招待されちまったからのう。フホ、フホホ」


 コンクラーヴェに、当然ながら彼も招かれていた。


 テルミナが懐かしの女王様スタイルでパリスの許へ殴り込みに訪れた際、黒鞭で打たれながらも「暫し待たれよ!」と叫び続けたのは、この未来を読んでいたからである。


 ──レオ猊下は必ずやコンクラーヴェを執り行う。待たれよ、それまではっ、い、痛いぃ、もっと、もっと、うう、ま、待たれよおお。


「安心安全な船旅じゃ」

「けど」


 テルミナには一つの疑念が残っている。


 ようやく聖巡船で旧帝都へ向かうと思いきや、因縁巡るクルノフへ立ち寄っているのだ。


「いつ出発するんだよ」


 クルノフの宇宙港に停泊し、既に二時間が経過していた。


「う、うむ。死んでくれと──いやいや、来ないように祈っていたのだが──」

「あん?」

「クルノフへ迎えに来いと言われておってのう」

「そいつは一体──?」


 誰なのだと問おうとしたところで、客室の扉が開きしわがれた老婆の声が響いた。


「待たせたね、パリス」


 皺だらけの鼻先を小刻みに動かした。


「筋肉馬鹿も相変わらずだったけど、あんたの生臭な匂いが変わらなくて安心したよ。坊主ってのはそうでなくちゃ。おやおや?」


 テルミナに気付いた老婆は、ニヤリと頬を歪め笑みを浮かべた。


「どこぞのお嬢ちゃんかと思えば、ベルニクの長手じゃないか」

「テメェは何者だ?」


 手を後ろに回し、バヨネットの柄を確かめた。


「ミセス・ドルンさ」


 どこかで目にした名だと感じたテルミナが記憶を手繰っていくと、ガウスに贈られた派手な色彩のカードに思い当たった。


 ──礼儀講座?


「楽しい旅になりそうだねぇ。お嬢ちゃん」

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