62話 家族のかたち。

「中学にもなって授業参観とか、マジでだりぃ」

「だな。母ちゃんデブだから見られるの恥ずかしいって」

「俺なんて、禿親父が来るんだぜ。勘弁してくれよ」


 ざわめく教室をよそに、窓の外をボウと眺めている少年がいた。


 小柄で童顔の為か実年齢より幼く見えるのだが、夏用の白いワイシャツから伸びる腕にしなやかな筋肉が育ち始めている。

 新しい生活で課せられた約束が、彼を成長させつつあるのだ。


「マジ、親うぜ」

「だよな」

「昨日なんか――」


 窓の外を眺める少年は、すぐ傍で繰り広げられる級友達の会話に加わるつもりは無かった。

 だが――聞いている。その全身で聞いている。


「あ~あ欝だわ~。こういう時はさ、秋川が羨ましくね?」

「お、おい、それは――」

「悪いって」

「んだよ、お前ら。ホントのこと言ってるだけじゃん。な、秋川」


 想像力の欠如した者は容易に他人を傷付けるが、彼等が報いを受ける事はない。


 仮に報いを受けたとしても気付かない鈍感さに救われて、笑みを浮かべたまま安らかな老いと死を迎えるのだろう。


「え――ボク――?」


 少年は自らの境遇に疑問を抱いた事はない。

 最初から持たざる者だったからだ。


 持っていないそれを欲する気持ちも抱いてはいない。

 与えられる喜びと、失う哀しみの双方を知らなかったからだ。


 とはいえ、好奇心は大いに膨らませていた。

 生れついて持つ者達の話を吸収し、咀嚼し、そして想像の翼を広げてゆく。


 だから――、


 窓から目を離した少年は、ゆるりと級友達の方へおもてを向ける。


「うん、ホントの事だね」


 呑気そうな表情と、のんびりした声音で彼は応えた。


「お前んは授業参観に誰も来ないだろ?――いや、家じゃねぇか。施設だもんな」

「いや、ええと――」

「待てよ。三組のケンジは、施設のババアが来るとか言ってたな」

「ボクは――」

「って事は、秋川もババアが来んの?」

「ば、ババア?――ミドリ先生の事かな。すごく優しかったよ。ただ、ボクは――」


 と、少年が何かを言い掛けたところで、予鈴と共に教室の後ろの戸が開き、授業を参観する父兄達が入って来た。


「うは、始まる」「来たぁ」「かぁ、ダセェ」「は、腹が揺れてやがる――」


 などとボヤきつつ、幾分かの緊張感を抱いて生徒達が教壇を向くと、教室の前に位置する戸が勢いよく開かれた。


 青髭光る中年の担任教師が早めに来たのだろうと思っていた生徒達は、ピンヒールの音を高鳴らせ入って来たモデルのような美女に度肝を抜かれる。


 漆黒のスーツを着た美女は、ドレスシャツの胸元を惜しげも無く解放していた。


「――で、でけぇ」「巨乳すぎんだろ」「えっろ」


 男子生徒と数少ない父親連中は喜びに湧き、女子生徒と母親達は同性として然るべき反応を見せた。つまりは、眉をひそめたのである。


 他方の少年は、困ったなという表情を浮かべていた。


「どうも」


 なぜ、この日この時、彼女が教壇に立って挨拶をしたのか――少年は長らく疑問に思っていた。


本仮屋もとかりやレイカ」


 傲然と名乗りを上げた後、芝居がかった仕草で少年を指差した。


「トオルと一緒に暮らしているの。後見人――ようは親代わりって事かしらね。ま、よろしく」


 中学三年生となった秋川トオルは、既にではなくなっていたのだ。


 ◇


 ――なぜ、ボクは――こちらに来てから、ずっとレイカさんの名前を忘れていたのかな?


 昨晩の夢を思い起こしながら、トールは湧き立つ疑問に戸惑っていた。


 ――身寄りのないボクにとって大恩人だったはずだ。


 トールの記憶に基づくならば、秋川トオルは彼女を通じ仮初とはいえ家族のかたちに近似するに触れたのである。


 ――なのに――今まで思い出さなかった――。


 母として、姉のように、さりとて女である事も捨てず、適度な他人の距離感を保つ彼女は理想的な同居人だったのかもしれない。


 ――剣道だって、レイカさんに言われて始めたんだよなぁ。


 同居人は彼に三つの約を誓わせたのだが、剣道を習い大人になっても続ける事が含まれていた。


 ――今は本物の剣を使ってるけど……。


 ともあれ、夢と現実うつつの狭間で生きる事となった彼は、何度か「モトカリヤ」という響きを耳にしている。


 ――ひとつは、モトカリヤの啓示だ。


 教理局召喚に先立ってロベニカから叩き込まれた付け焼刃の知識で、ラムダ聖教の基礎を量る担当者の質問に対し「モトカリヤの啓示」と答えていた。


 ――モトカリヤの眼球ってのもあったな。


 七つ目の手に入れた秘蹟で、現在はひとつ目殿とやらが持っていると方伯夫人から聞かされていた。

 言葉の響きで判断するならば禍々しい代物である。


 ――関係――あるのか?――いや、まさか――でも――。


 奇妙な相似のもたらす嫌な予感が、トールの心に影を落とした。


 ――ボクが就職すると、レイカさんは突然消えて……。


 以来、音信不通となっている。


 こうして、得られるはずの無かった喜びを無償で与えた女は、同時に大きな喪失感を彼に経験させてもいるのだ――。


「トール様、お見えになりましたよっ!」


 応接室へ慌ただしい様子で入って来たロベニカの鳴らすヒールの音が、夢の中に現れた恩人への郷愁を誘うと同時に彼を現実に引き戻した。


 いつまでも少年時代の追憶に、トールは浸ってなどいられない。


 本日の客人へは幾らかの気安さを抱いていたが、無礼非礼のあってはならない相手なのである。

 

「おっと、そうですか」


 そう言ってトールは、客人を出迎えるべくソファから立ち上がった。


 突然で尚且つ非公式な訪問となった為に、貴賓を出迎える際に行う典礼の多くが割愛されている。


 緊迫した情勢下にあって多忙な折、それは互いにとって好都合だっただろう。


「待たせたな、トール伯」


 女男爵メイドのマリに案内され、ロスチスラフ・オソロセア侯爵が訪れる。


「フェリクスついでに寄らせて貰った」


 ◇


「久方ぶりに、娘達とも会って来たのだ」


 人払いをして二人だけとなった応接室で、ロスチスラフは父親のかおを見せた。


 親征への慶賀を事由として帝都へ赴いたのには、三人娘と直に会うという企図も含まれていたのだろう。


「名誉近習となられ、陛下からの信も篤いそうですよ」


 常日頃から傍に仕えているのはレイラだったが、気楽な茶会などではフェオドラやオリガにも出番はあった。その点、フェオドラとオリガは程良く世間を知っており、そして程良く世間を知らなかった。


 女帝とて下らぬ四方山話に興じたい時もあるだろう。


 そして何より、乙女決死隊として戦場いくさばに身を投じた云わば戦友である。


「うむ」


 ロスチスラフは顎を撫でながら満足気に頷いた。


 老境に至ってから出来た愛娘達を女帝の傍に置くという不安はあったが、結果的には全てが上手く運んだのである。


 ――領地で暮らした時よりも随分と大人になっておったな。

 ――それが、嬉しくもあり――侘しくもある。


「ま、それは良い」


 ロスチスラフは父の緩みを消し、為政者の表情へと改めた。


「問題は、例の気狂いよ」


 グリフィスにおける天秤衆の暴虐は酸鼻を極め、苛烈な審問による犠牲者は日増しに数を増やしていた。


 これに対し復活派勢力の領主達は、自身への延焼を怖れるばかりの傍観者となっている。


「そろそろレオが教皇破門に動くとも聞く。我等も急いだ方が良かろう」

「はい――」


 トールとて焦燥感を抱いてはいるのだが、テルミナが旧帝都へ侵入を果たすのを待っていたのである。


「儂の方にも急ぎたい理由があってな」

「ファーレンですね」

「うむ。あれを攻めよと軍とメディアが騒がしいのだ」


 復活派勢力混乱の機に乗じて仇敵を討て――という訳である。


 それらの動きを抑え込みながら、ロスチスラフはフォルツへ兵を進めようとしていた。


 彼としては教皇救出を手際よく終わらせて、仇敵ファーレンへ一矢報いる戦略に取り掛かりたいのだろう。


「――毎回、ご苦労をお掛けします」


 トールは素直な気持ちで頭を下げた。


 コンクラーヴェから今日に至るまで、敵であったはずの老獪な男は、トール・ベルニクの良き理解者であり続けたのである。


 ロスチスラフ自身の利害や思惑も有りはしただろうが、詩編大聖堂の不思議な夜に膝を突き合わせ語らった日より、損得だけとは言い得ぬよしみを二人は通じて来た。


 ――と、少なくともボクは思ってる。


 ふとした感慨に捉われつつ、トールはロスチスラフの顔を見た。


「どうした?」

「いえ――別に――」

「――よもや、今さら儂の娘を欲しくなったという訳ではあるまいな?」

「アハハ」


 気負いのない笑声を上げた後、些か礼を失したと感じ頭を掻いた。


「す、すみません」

「構わぬさ」


 ロスチスラフは、片頬を上げ悪戯な笑みを浮かべた。


「伯の望むが儘に進み、そして選ばれよ。恐らく、いらぬ苦労を山と買う羽目になろうがな」

「やはり、そうですかねぇ」

「当たり前だ――相手は――ふむん」


 奸雄として権謀に身を捧げ生きた男は、トールを前にすると常になく老婆心が湧いてくるものらしい。


「が、良き道とも思える。何より、伯ならば上手くやれよう。難事となれば――」


 ロスチスラフの声音に、温かみが混じる。


「――儂もおるではないか」


 この瞬間、トール・ベルニクはようやく理解したのだ。

 

 自身がロスチスラフに何を求め、いかなる存在の影を見ていたのかを。

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