61話 姓と名。
オソロセア領邦軍の高級将校達が集うサロンは、紳士の社交場アールヴヘイム邸より程近い場所に建っていた。
その為か、軽く運試しをしてからサロンを訪れる将校も多い。
「すっかり寂れていたよ」
同期達の待つテーブルへ着座したアリスタルフ中将は、組んだ膝先に帽子を乗せて首を振った。
「偉大なるアリス・アイヴァースの不在を嘆かねばな」
女主人が忽然と姿を消した結果、アールヴヘイム邸は
気品と猥雑さの絶妙な融合を愛した鳥達は、他の寄り木を求め飛び去っていた。
「噂じゃ蛮族――いや、船団国へ移住したらしいぞ」
「グノーシスへ?バカも休み休みに言え」
「そもそも、貴様が言う噂話は士官学校時代から信用ならん。エリーゼが俺に気があるなどと――」
自身のひと言を契機として取り留めのない昔話が始まる予感に、アリスタルフは苦笑いを浮かべてグラスを酒で満たした。
「――ともあれ、今日は祝うつもりで集まってくれたのだろう?」
琥珀色となったグラスを目前に掲げる。
「ようやく戻って来れたんだ」
帝都フェリクスへの駐留に始まった異邦暮らしは、女帝ウルドによるマクギガン親征で幕を閉じた。
落下傘領主となったフィリップ・ノルドマン伯爵だったが、
他方、出戻りの亡命将校達を受け入れた結果、彼等とジェラルド体制に残った将校達の間に不和が見られ、両者の融和政策こそが急務となっていた。
とはいえ、ポータルは自力防衛可能と判断され、オソロセアの派出した艦隊は邦許への帰還が許されている。なお、パトリック率いるベルニク艦隊は、帝都防衛の任を解かれておらず現在もフェリクスに駐留していた。
「熊の子が裏切ったと聞いた時は肝を冷やしたが――うむ――今宵は祝おう」
「我等が友に。悪友に。出来の悪い同期に」
「奥方殿の支配下に戻ったのだ。当分はサロンにも顔を出せまい、フフ」
グラスの音を響かせた後、若さゆえの過ちを懐かしむべく一息に
「――ふう――そうは言っても――」
同期ばかりの席となり、アリスタルフの口も些か軽くはなっている。
「外征軍は、また直ぐ起つ事にはなろうがな」
「ほう――やはり――」
「聖下をお救いする為、ロスチスラフ侯はフォルツ攻めを諸侯会議で進言されたそうだ。女帝陛下も賛意を示されたと聞く」
そう聞いて、一同は渋い表情となった。
「ファーレンを叩く千載一遇の好機に――惜しいな」
「カナン星系へ至る道を開く道理も分かるが、ファーレンを憎む気持ちは侯とて同じはずだ」
ポータル面で隣り合うオソロセアとファーレンは、遥か以前より互いに相争う血濡れた歴史を持つ。
特に遺恨を残しているのは、ロスチスラフの権力簒奪前――先代治世時代に起きた戦いでオソロセアは敗北し、非合理な天文学的賠償金を課せられたという点である。
先代領主の外交的不手際が主因とはいえ、経済と領邦民の生活は極度に悪化し、宇宙時代にあって正味の飢餓を経験しているのだ。
結果としてロスチスラフの叛乱を後押しする事となったのは、歴史の皮肉な側面なのだろう。
「――卑怯卑劣なファーレンの事だ。今叩かねば、囚われのエヴァン公など捨て置きウルド陛下に擦り寄って来るだろう」
「そうなれば、叩けぬどころか連合軍を組まされかねん」
「想像もしたくない未来だな」
彼等が愚痴をこぼしたところで致し方ないのだが、抑えきれぬ感情というものはある。
「貴様のクイーンは、侯に具申されなかったのか?」
アリスタルフにとってのクイーンとは、直属の上司である外征軍司令エカテリーナ・ロマノフ大将となろう。
「大将――提督の
エカテリーナ自身は、グノーシス船団国と結託してベルニクを攻める計略にも最後まで反対していたのである。
首尾一貫して彼女が唱えてきたのは、宿敵ファーレンへの侵攻であった。
「諸侯会議に先立ちファーレン攻めを訴えておられた。軍のみならず、領民感情を考えるなら今こそ宿怨を晴らす
「――だが――フォルツとなったか」
「うむ」
彼等の間に暫しの沈黙が降りた後、場の雰囲気を変えるべくアリスタリフは殊更に明るい声音で告げた。
「とはいえ、フォルツ攻めにも利点はある。ケルンテンに――」
「ん?」
オソロセアがフォルツへ攻め上るならば、ケルンテンなる小領邦を通過せねばならない。
「外征軍は何度か合同軍事演習の為に訪れているのだが、あそこへ行くと必ず提督が美味いコヴェナント産ワインを振る舞って下さる」
「――ほう」
「それは羨ましい話だが、はてさて?」
「ふむん」
アリスタリフの同期達が、困惑顔を互いに見合わせた。
「――よもや――例の噂は本当なのか?」
ロスチスラフがオソロセアの支配権を簒奪し数年経った頃の事だ。
小領ケルンテンにて、エルモライという家臣の不正行為を端緒としたお家騒動が起きた。
近隣領邦の混乱を嫌ったロスチスラフの介入により内戦は免れたのだが、
オソロセアの安定化に追われ、事態を速やかに収束しようと
数年後に同家臣の冤罪が判明した際、側近に対して些か悔恨めいた言葉を告げている。
――愚直な口と
――エルモライは忠臣として領邦の為に死し、他方の俗物はコヴェナントのワインに酔い痴れておる。
――せめても手向けに、エルモライ・ロマノフの名を我が胸に刻もう。
かくして月日は流れ、全ては過去となった――はずである。
「本当に貴様は噂の好きな男だな」
アリスタリフは呆れた様子で同期を見やった。
「エカテリーナ提督は偶々に姓が同じというだけさ。不運なロマノフの忘れ形見がオソロセア領邦軍に入れるはずもない」
◇
方伯夫人へ秘事を誓いプロイスを起ったトールがベルニクの屋敷に戻ったのは、ヴァルプルギスの夜から十日が過ぎた後となる。
日中に帰り着いた為か、休む
つまりは、特務機関デルフォイである。
「ん、少し人が増えたような?」
トールがデルフォイ執務室を訪れるのは久方ぶりなのだ。昨年までは少年ディオと、もう一名のみという寂しい陣容だった。
「まあな。各領邦の長手も増やしてるぜ」
長手とは、他邦へ送り込む諜報員の事を指す。
トールの指示によって方々を飛び回って来たテルミナだが、組織の拡大も着実に進めていたのである。
「こっちだ」
広い執務室の一角を個室ブースとして、室長用のセキュリティを確保していた。
組織拡大に伴う機密保持対策の一環なのだろう。
――もっと大きな部屋に――いや、いっそ庁舎を丸ごと渡した方がいいかもしれないな。
情報の持つ力を重視するトールは、特務機関デルフォイへ投じる金を惜しまない。
「お邪魔します」
「――ちっ、テメェのもんだろうが。全部」
「あ、そうか。まあ、そういうものですかね」
「いつまで経っても調子を狂わせる野郎だな。座れよ。ちなみに、コーヒーはセルフだから」
そう言って彼女は、ブースの端に設えられた機器を指差した。
「ディオの学校が始まったからさ」
ヴォルヴァ幼年学校の学期が始まり、後見人となっている少年ディオは同校の寮に入っていた。
「――で、お次は何だ?」
近況報告もそこそこに、テルミナは本題に入れと直截に促した。
「新生派勢力圏に限りゃ長手は揃ってるから、それなりの情報は入る。けど、テメェが直々に足をお運びになったって事は勢力圏外の話なんだろうな」
トールが頷くと、テルミナは瞳を細め睨んだ。
「――待て――言うなよ。あーしが当ててやる」
領主の意を汲む事を目的とした彼女なりの思考訓練なのだろう。勿論、統帥府長官ヨーゼフ・ヴィルトには知られない方が良い態度ではあったが――。
「旧帝都だ」
最も情報を手に入れ難く、尚且つ最も侵入が困難な場所を告げた。
「だろ?」
「――はい」
その危険性を理解しているトールは、常になく深刻な表情で応えた。
「申し訳ないのですが、現状ではテルミナさんを頼る他ありません。おまけに時間も無いのです」
「今となっちゃ、蛮族共の寝倉より始末が悪いわな」
「レオさんが暴れ回ってますから」
戒厳令下にある上に、血と罪に飢えた三十万の天秤衆が徘徊しているのである。
「気狂い野郎を殺しゃいいのか?」
「それは難しいでしょうし、近付く前に彼はエゼキエルを起つでしょう」
「聖都出征か」
「ええ。ですから、彼の始末はボクが付けます」
生かしておくべきではない――と、トールは決している。レオ・セントロマの主義、言動、そして何より正義感が気に入らない。
端的に言えば、虫唾が走る。故に殺す。
「テルミナさんにお願いしたいのは――こちらも困難を極めるはずですが、エヴァン公の方なんですよ」
「タルタロス牢獄じゃ、勝手にくたばっちまうだろ?」
形式的な異端審問を経て、量子煉獄プルガトリウムへ送られるのだ。
「エヴァン公も敵と言えば敵なのですが、今はまだ死なれては困るんです」
トールの抱くエヴァンへの児戯た憧憬からではない。
「彼の持つ秘事が必要です」
「ふむん――ま、確かに秘密は一杯抱えてるんだろう」
「そうなんです」
「――救出可能なら奴を助けて連れ帰る。だけど、そいつが無理なら――締め上げて秘密だけは吐かせりゃいいか?」
後者となる可能性が高そうだと思いながらもトールは頷いた。
「何を聞き出せば良い?」
「幾つか質問はあるのですが、救出不可能な場合は時間的制約もあると思います」
エヴァン・グリフィスの現住所はタルタロス牢獄なのである。
「最も重要な質問は――」
トールの発した指示は、テルミナ・ニクシーにとって意外な内容となる。
「本当の名前を教えて下さい――です」
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