55話 汝、世の理に従うべし。

 案内された豪奢な居室に佇む静謐は、同じ城の中庭で目にした乱痴気騒ぎとは無縁だった。


「奥様──」


 失神から自力で回復した家令は、既に慇懃な仮面を取り戻している。

 

 椅子に座る主人の傍へ恭しい仕草で一礼した後、トール達には届かぬ声で事の顛末を報告した。


 ──EPR通信で済ませちゃえばって思うけど──正統派の貴族ってこうなのかな?


 仕えられる者と仕える側の双方が、権力と権威の相互認証を怠らない。

 

 無駄に見える様々な儀式は事務効率性を犠牲にしながら体制の安定化に寄与してきたのだ。


「──あの──よ、宜しいので?」

「良い」


 レースを数多あまたあしらった漆黒のドレスを纏う女が頷いた。


「銀獅子権元帥とお呼びすべきか?」 


 寡婦であると殊更に主張する薄手のベールを少し上げ、朱く染まった唇に薄い笑みを浮かべた。


「お好きにどうぞ。ともあれ、本日はお招き頂きありがとうございます。プロイス選帝侯──方伯夫人」


 招待された当人ではない男は素知らぬ顔で礼を述べた。


 ◇


 マグヌス・プロイス方伯は選帝侯という立場にありながら、領地と身重の新妻を捨て置いて行方知れずとなっている。


 以来十数年、身重の新妻──つまりは方伯夫人が、領地の差配と選帝侯としての務めを果たしてきたのである。


わらわの子も十八を数える。湖畔城を訪れたと知れば大層喜ぼう。伯の武勇を語る絵巻を好むそうな」


 本人が目にしたなら赤面しそうな内容のものから、いかな彼でも怒声を上げかねないものまで、多種多様な絵巻がEPRネットワーク上を流通している。


「随分と物好きなお子さ──」


 ロベニカに肘をつつかれたトールは慌てて口をつぐんだ。


「先だってのクルノフにおける大立ち回り、わらわの耳にも届いておる」


 そう語る方伯夫人の口調は、幾分か粘着質な響きを帯びた。


「その節は大変なご迷惑を──の前に、お渡ししたい物があります」

「ロマン卿からの言伝か」

「そうです。──ロベニカさん」

「承知しました」


 ロベニカが小さなエナメル質のバッグから純白の封書を取り出してテーブルの上に置いた。封書の表面にはプロイスの家紋──朱色の果実と蛇をモチーフとした紋章が刻まれている。


「お納め下さい」

 

 プロイス領邦が催し続ける不断の宴「ディオニューシアの夜明け」への招待状である。


 招待の基準は明らかにされていないが、ある日突然幸運な者の前へプロイスからの使者が訪れ手渡されるのだ。


「噂に違わず凄い招待状です。──ボクでもアラゴン領邦を無事に通過できましたから」


 朱色の果実と蛇の紋章が、いかなる領邦でも通過できる権利を保証していた。


「ロマン男爵の気前が良くて助かりました!」


 無事に解放する条件として、トールは「頂きます」という一言で招待状を取り上げたのである。


 クラウディオ・アラゴン命名の無法伯なる二つ名は、あながち間違った評価ではなかった。


「折角の機会なので観光もしてたんです」


 と、トールは相手の疑念を深めそうな事を明け透けに語った。彼の好奇心に振り回された数日間を振り返ってロベニカは小さな溜息をつく。


 ──"プロイスはね、地表の自然を軌道上に再現しようという気迫と経済力が凄いんです。"

 ──"は、はあ。"

 ──"選帝侯の暮らす湖畔城も有名ですけど、アルセイス大森林とナイアス運河も見ておきましょう!"


「──とまあ、非常に愉しませて頂きました」

「僥倖」


 方伯夫人は鷹揚に頷いた。


「これだけの都市を造成し維持する経済力。大宴への招待客をあらゆる領邦から庇護し得る歴史的な重み──」


 故に復活派勢力が押さえる旧帝都の隣で未だ中立を保っていられるのだ。


「ロマン男爵が頼りにされるのも当然でしょうね」


 ──巨乳戦記でクルノフは最後までエヴァン公に抵抗した。

 ──名参謀フリッツ君がエドヴァルトさんのお宝で頑張ったのかと思ったけど……。


 トール・ベルニクでなければ、ジャンケットのユキハは少女艦隊の秘事を明かさない。


 となると、別の力学が働き、弱小領邦を手助けしたと考えるべきなのだ。


 以上が、ロマン・クルノフの背後に強大な勢力が存在するとトールが推測した理由である。


「──アレの治める地は重要でな」

「なるほど」


 デルフォイから上がってきた情報によるとエヴァン・グリフィスもクルノフを求めているが、迂闊に手を出せなかった理由は方伯婦人の後ろ盾がある為なのだ。


 他方のトールも当面は緩衝地帯として同星系を残しておきたい。


「ボクと方伯夫人の利害は一致すると思います」


 招待状の中に収められていたロマン男爵の書状を目で追いながら方伯夫人は頷いた。


 書状にはロマン男爵の悲哀と情感を込めた詩文がしたためられている。


 つまり、プロイスが催し続ける不断の宴とは、EPR通信を使わずに書状で秘事を交わす為のカモフラージュなのだろう。


「まずは、クルノフの件は脇に置きまして──」


 トールが抱える喫緊の課題は別にある。


「近いうちにボクは聖都へ向かう必要が出てくるはずなんです」


 プロヴァンス女子修道院を焼いた教皇アレクサンデルを、レオ・セントロマと天秤衆が許すはずもない。


 聖骸布艦隊に護られているとはいえ、かの悪漢が危地にあるのは明らかだ。


 ──グノーシス船団国の件では、アレクサンデル教皇に借りがあるからね。

 ──ちゃんと助けてあげないと……。


 だが、聖都アヴィニョンへ向かうには、旧帝都のカナン星系を抜ける以外のルートが存在しない。


「秘密の小径を通る方法もあるのですが、今回は少し事情があり正面から行きたいのです」


 μミューポータルを通れる僅か一万隻の艦隊では、復活派勢力や銀獅子艦隊に行く手を阻まれるだけである。


「我が領地を罷り通り、カナンに入りたいと申すか」

「はい。さらに申し上げれば、貴領に至るまでにも大岩があります。今回、ボクが訪問させて頂いたのも、むしろそちらの大岩の件が主なんですよね」


 クルノフの一件で、因縁の生じたクラウディオ治めるアラゴン領邦である。

 

「大岩──伯から見れば路傍の石であろう?」

「とんでもない。蒼槍も健在ですし、可能なら戦いは避けたいのです。方伯夫人を頼れば、それも可能かと思いまして──いや──」

「──」


 彼女の気分を害さぬ為、トール・ベルニクはアラゴン艦隊に対して致命的な損耗を与えなかった。


「姉君──クラウディア・プロイス方伯夫人なら可能なのでは?」


 弟が姉の言う事に逆らえないのは、古来より続く世のことわりである。


「──伯は──噂に違わぬな」


 薄手のベールに覆われ確とは言えないが、苦笑を浮かべる方伯夫人の様子はロベニカにも伝わってくる。


「一つ条件がある」

「何でしょう──インフィニティ・モルディブを所望されるなら──」

「いらん」


 方伯夫人は言下に断った後、意外な申し出をした。


「三日ほど湖畔城に逗留し晩餐を共にされよ」

「はあ?」


 実に安易な条件に思われ、トールは訝し気な返事となった。


「ゆるり、伯の武勇伝を聞かせて頂きたい。──どうにも近頃、娘に心の翳りが見える。が、伯と会えば華やごう」


 そう告げて方伯夫人は、委細決まったとばかりに席を立った。


「なにぶん、お年頃でな」

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