35話 勝ちて好奇の穂を拾う。

「いいかい、分かったね。私の可愛いトーマス坊や」

「で、でも――」


 二百兆という数字を見た時の高揚した気持ちは失われ、フレイディスに残ったのは激しい焦燥感のみである。


 いずれ切り刻む予定でいた男のオフィスに座り、ブランデーをくゆらせながら愛息トーマスと共にライブ中継を見ていた彼女は、一転して窮地に追い込まれていた。


「嵌められたんだよっ!ベルヴィルのガキに!!」

「若が?」


 フリッツは幾つかの情報を彼女が耳にするよう動き、ヴィルヘルムが必敗の勝負に乗るよう誘導したのである。


 つまるところ、それはフリッツが、フレイディスの夫に対する裏切りを知っていた可能性が高い事を意味していた。


「若じゃないッ!」

「ひっ」


 怒号にトーマスは身を縮こまらせた。


 母親からの支配欲と過干渉に晒され続けた幼少期は、トーマスの精神を大いに歪ませると同時、盲目的な服従心も植え付けている。


 己自身で認めるのは困難だが、地表世界に母が幽閉されていた時期こそ、彼にとっては平穏な日々だっただろう。


「ともかく荷物をまとめて逃げるよ」

「ぼ、僕も?」

「当たり前だろ。お前は――」


 反応の鈍い息子に苛立ったフレイディスが手を上げたところで、オフィスの扉が荒々しく開かれた。


「よう、ババア」


 不敵な笑みのフリッツと、バヨネットの鞘で肩を叩くテルミナの挨拶は、期せずして重なりハーモニーを奏でる。


「元気だったか?」

「チッ」

「わ、若っ」


 トーマスは、主人を見付けた忠犬の如く、フリッツに駆け寄ろうとした。


「お待ちッ!」


 そのトーマスの襟足を、フレイディスがむんずと掴む。


「さっきも言っただろ。母さんの邪魔をする奴は全員殺すんだよって」

「で、でも――」

「相手はチビと、妾のガキだけだ。アタシと坊やの二人で切り刻むんだよ」


 だが、フレイディスの企みは、ハルバードを持った女により儚く潰える。肉人形使いのマリが、ブリジットを伴い入って来たのである。


「綺麗な部屋ね」


 ヴィルヘルムのオフィスを見回しながら、マリが呟いた。


「ハッ、メイド風情が来る場所じゃないんだよ」


 ブリジットの構えるハルバードが放つ不吉な輝きに怯えつつも、フレイディスは憎まれ口を叩く余裕を見せた。


「そうね――。でも、もう全てトール様の物なの」


 マリは単なる事実を告げる。


「だから、あなたは不法侵入者」


 ◇


「いったい、どういう事なんですか?」


 胸下で腕を組んだロベニカが怖い表情で尋ねた。あるいは、トール・ベルニクが目にしたならば、大いに喜色を浮かべた光景だったかもしれない。


「――は、はぁ――その――」


 統帥府長官ヨーゼフの執務室に呼び出されたセバスは、どうにも気まずい状況に追い込まれていた。


「先ほど、ご覧になった通りで御座います」


 パブリックビューイングに居合わせた者全てが見ている。


「いやいや、セバス殿。私の見間違いでなければなのだが――」


 とはいえ、見たままだ――という回答でヨーゼフが納得するはずも無い。


「貴方は領邦予算の凡そ五年分を動かされたのですぞっ!」


 トールからの依頼を受けたセバスが、何処いずこかとEPR通信した数分後、莫大な資金がインフィニティ・モルディブの当座アカウントへと送金されたのである。


「トール様が、これほどの資産をお持ちだなんて――」


 貧乏領邦として苦労した日々は何だったのかという思いが、ロベニカの心内に浮かんだ。

 無論、領主の金ならば好きに使えば良いのだが――。


「いえ、正確にはトール様の資産では無いのです」

「確かに手続き上は貸出処理されているようですけど――有り得ないわ」

「よしんば、借りられるとするなら、相応の資産をお持ちという事になるッ!」

「で、ですから――本当に――」


 二人が、セバスを責めるのは酷というものだろう。


 送金する権限と手法を与えられているだけで、彼自身は事の全貌を把握などしていないのである。


「先代エルヴィン様より託された秘事のひとつで御座います」

「え、例の――」


 地下書庫と言い掛けたロベニカは、慌てて口を閉ざした。ヨーゼフが知れば、脳卒中で倒れかねないと懸念した為である。


「尚且つ、インフィニティ・モルディブの金融機関にしか送金できません」

「――ギャンブル専用――資金――?」


 そう決め付けるには、動かせる金額が大きすぎた。


 だが、実際にトールがインフィニティ・モルディブを訪れた際は、非常に大きな金額が動いていたのである。


「以前は良く遊びに行かれてましたものね」

「左様で御座います。その度に多額の送金をして、全てを――」


 トールは無茶な賭博で金を失うが、カジノ側の得た莫大な利益の一部は、リベートとしてジャンケットのユキハに還元されていた。


「近頃では憑き物が落ちたかのようにカジノなど行かれず喜んでおりました。それが、うう――セバスは――」


 憑き物が落ちるどころか、凡そ現実感を伴わない金額をベットしたのである。セバスとしては、トールが再び賭博に狂うのではと怯えていた。


「ま、まあ、セバス殿。そう気を落とされるな。何より、今回の閣下は勝ったのですからな」


 気の毒に感じたヨーゼフは、声音を柔らかくしてセバスの背に手を添えた。


 勝った――どころではない。歴史上最高額であろう狂気のベットは、当然ながら歴史上最大のリターンを生んでいる。


 コンコルド効果の陥穽かんせいはまったヴィルヘルムは、ベットした資産を保全する為、ゲームを降りられない状況に陥った。


 その結果として――、


「インフィニティ・モルディブ全ての利権を手に入れちゃいましたね……」


 ヴィルヘルム・モルトケは、文字通り命以外の全てを失った。その命すら生殺与奪をトールが握っているのだ。

 

 亡父エドヴァルトの仇を討ちたいとフリッツが言えば、躊躇う事なくトールは命を奪う事を許すだろう。


「ホントにもう――」


 感心すれば良いのか、呆れれば良いのか。


 ――トール様の傍に居ると普通の人生は送れそうにないわね。


 ロベニカの抱いた思いは、事実その通りとなる。


 ◇


 トールと近しいか否かに関わらず、幾つかの混乱と、数多の好奇を生んだ狂乱の一夜が明けた。


 その張本人は、燦々と降り注ぐ陽光の元で船上の人となっている。


「トール伯は、海上に馴れてらっしゃるの?」


 クルーザーの舳先に立ち、行く手に迫る島を眺めるトールの背中へ、海風に飛ばされぬようつば広の帽子を抑えるグリンニスが問うた。


 彼女の後ろには、少しばかり蒼ざめた表情のフォックスが立っている。


 地表世界に不慣れで、尚且つ船旅など経験しないオビタルは、船酔いに悩まされるケースが多い。


「ちょっと前にも船に乗ったんですよ」


 地中海では、大型客船に乗りフレイディスの許を訪れていた。


 今回はユキハの調達した中型クルーザーで、運転は彼女がしている。以前のトールが島を訪れる際も同様だったらしい。


「でも、私達が同行して良かったのかしら?」


 クルーザーに乗船しているのは、彼女とフォックス、そして――、


「――おまけにハンスまで」


 ハンス・ワグネルは物珍し気に海の様子を眺めていたが、名前が出た事に気付き軽く会釈をした。


 身柄を拘束したフレイディス及びトーマスの監視と、モルトケから奪った資産の整理に追われ、テルミナ達は動けなくなっているのだ。


 領邦から商務補佐官リンファを始めとする経済官僚並びに法務関係者達が、急遽の出張に駆り出されてもいる。

 彼らを迎える準備を、マリとクリスが担っていた。


「フリッツ君は悔しそうでしたけどね」


 夢にまで見たエドヴァルトの秘宝へ向かう機会を逸したのである。


 フリッツ・モルトケに与えらえた任務は、混乱したモルトケ一家とフロント企業が暴挙に出ないよう抑える事にあった。

 その点、エドヴァルトの息子という立場は有利に働くだろう。


「ただ、何よりハンスさんは来るべきだと思ったんです」


 トールがそう告げると、グリンニスは不思議そうに首をかしげた。


 自分を殺そうとした相手と同じ船に乗るだけでも奇妙だが、屋敷で会ってから一度たりともトールから復讐心や警戒心を感じた事が無いのである。


 ――豪気というよりも、好奇が勝る方なのかもしれないわ……。


 グリンニスの見立てた通り、トールはハンスに対して多大なる興味を抱いていた。


「私が――ですか?」

「ええ」


 笑んだままトールは頷いた。


「つまるところですが、エドヴァルトさんの宝と、恐らくはその鍵であるユキハさんを守ったのは、レディトゥス・ファウンデーションの基金なんです」


 同財団法人の資産は複雑な経路を辿り、セバスが動かせるプライベートバンクに流入している。


 セバスの主人であるトールは、借り入れという形でインフィニティ・モルディブへと金を流せるのだ。


「天下のアホ領主がカジノで散財する。誰も注目しませんよね」


 トールの中で、以前のトールに対する印象は変化し始めていた。


「――そうでしょうな」


 遠い海原を見詰めたまま、ハンスは応えた。


「あっさりと千兆が動かせる訳ですから、基金の総資産なんてボクには想像も出来ません」


 財団法人の組織構成は判明していない。セバスとて仔細は知らされていない。


「個人、企業、領邦――単体で作れる基金じゃありません。だから、思ったんですけど――」


 屋敷の地下、船団国で得た情報、グリンニスから聞いたハンスの話――、以上を総合してトールは一つの結論を導いていた。


 何名居たのかは不明だが、故事に倣えば十二名となろう。


「――カッシウスの使徒――じゃないかなって」

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