32話 聖人に列する。

「嘘よ」


 ヘッド部分が黄金となっているチップレーキで、クリスの前に積まれていたチップをディーラーが全て回収した。


「──イカサマ、イカサマ、イカサマ」


 インフィニティ・モルディブを訪れて以来、バカラで勝ち続けてきたクリスだったが、ついに確率の死神が彼女の戸を叩いたのである。


「クリス」


 隣に座るマリが、クリスの腕を引く。


「もういいの。私達の仕事は終わり」


 本来の計画は自然の成り行きで金を借りてキャッシュの流れを追い、トールに対する融資元を探る事が目的だった。

 

 だが、ユキハの供述とデルフォイの裏取りによりスキームは分かっている。


 マリ達が派手にカジノで遊ぶ必要は無くなったのだ。


「はあああ? 終わりですって?」


 ここで終われる訳が無い、とクリスは思った。


 夢のように膨れ上がった資産を、寸刻前の勝負で失った──。


 失ったモノは何であれ取り戻す必要がある。


「借りる。借りるしかないわ」

「バカ言わないで」


 引っぱたいて連れ戻すべきかとマリは考えたが、ユキハとの一件で自己嫌悪に陥った夜を思い起こし踏みとどまった。


 感情を表に出さない為に気付かれていないが、実際の彼女は激情家なのである。


 ──どうしよう。クリスは完全に病んでしまった。

 ──こんな場所に来るべきではないだったのね……。


 依存症と言って差し支えないだろう。


 ──トール様──助けて──。


 そんな彼女の願いが通じたのか否か、フリッツと共にトールがハイローラーエリアに入って来た。


 興味深そうに周囲を見回した後、マリとクリスの姿を見付けると嬉しそうな様子で手を振っている。


「わぁ、マリのドレス、凄く似合ってるね!」

「え──うん」


 ロベニカが選んでくれたドレスだったが、今さらながら露出過多ではないかと不安になってきた。


 ──でも……。


 マリはレーダーの反応を確認する。


 ──これで正解だったみたい。


「トール様、あの──」

「ギャハハ。文無しになったのかよ、クリス」


 マリの乙女な機微など露知らず、フリッツは無遠慮に笑いながら、バカラテーブルを凝視するクリスの肩を叩いた。


「ま、博打なんざそんなもんだ。おけらになったところで帰ろうぜ」

「──嫌よ。こんな──負けたままで──」

「ずっとやってりゃ必ず負けるんだよ」

「でも──」


 未練を残すクリスだったが、先立つモノが無いのも事実である。


 借りたところで零落した伯爵令嬢には返す当てもないのだ。


 だが──、


「クリスさん」


 無邪気さに定評のある悪魔の使いが微笑んでいる。

 

「ここまで来たら、とことんやりましょう」


 もはや二人にカジノで散財させる意味などないが、別の目論見に状況を利用できると考えたのだ。


 ──愚かと思われたいなら……。


「無ければ、借りれば良いだけですよ」


 ──底抜けにバカな方が効果的だからね。


「幾らでもどうぞ」



 トールがカジノで悪魔の使いとなっていた頃、聖都アヴィニヨンの教皇宮殿で歴史的な公会議が開かれようとしていた。


「レオ殿が見当たらんな」


 十三名の枢機卿が集うべき円卓に残された空席を見やり、自身の隣席に座る同僚──つまりは枢機卿に囁いた。


「太上帝の近習に引き立てられ多忙と聞く」

「いや、少し前にプロヴァンスを訪れていたそうだが──」

「とはいえ、公会議を欠席するなど許される事ではなかろう」

「確かに聖務であるな」


 端々で己の見解を述べる声が漏れ始めるが、コンクラーヴェの頃とは風向きが変わり始めていた。


 これまでのラムダ聖教会内はアレクサンデルよりレオに信を置く者が多数派を占めていたのだ。聖骸布艦隊に属する聖兵や、一部の大司教のみがアレクサンデルの支持層だったのである。


 だが、船団国への遠征という十字軍的行動が全てを変えた。


 手段と経緯はどうあれ、数多の異端者を殺戮してのけたのである。


 彼等の信仰に照らし合わせるなら紛う事なき正義だった。


 結果、教皇アレクサンデルへの信任が高まり、一般メディアでの扱いも改善されつつある。


「レオ殿も、エヴァン公に入れ込み過ぎては?」

「ううむ、政治は──いや、聖下が参られましたぞ」


 鈴の音を響かせながら、三名の小姓に先導された教皇アレクサンデルが姿を現した。

 枢機卿達は一斉に席を立って、信仰における彼等の最高権威を出迎える。


 教皇アレクサンデルは円卓の奥にしつらえられた玉座に巨躯を落とし、各人に対して座れという風に右手を振った。


「刻限ゆえ、公会議を開く」


 そう言ってアレクサンデルは、円卓を軽く打った。


「議題は、我がかねてより公言してきた旨である。不遜不敬と言われようともな」


 はて、どの事案であろうか──と何れの枢機卿も心内で迷った。不遜不敬な放言に事欠かない男だったからである。


「聖教会には、二人の忌み子が在る」


 枢機卿達の顔貌がんぼうから表情が消えた。危険の過ぎる内容と察したからである。


「頭骨の重みで倒れそうな教理局と、無辜むこの血で盃を満たす天秤共よ」

「お、畏れながら聖下。無辜むことは言い切れぬのでは?」


 天秤衆とて誰彼構わず異端の嫌疑をかけてきた訳ではない。基本的には厳密な調査をし、周囲と本人の証言も得た上で信仰の傾きを量っているのだ。


「我より罪を重ねた者など、そうはおるまい。だが、女神ラムダの慈悲を日毎に感じ、今日こんにちでは教皇位に在る。故に全ては無辜むこなのである」


 と、言い切った。


ひるがえって、プロヴァンスの放つ悪臭は、もはや腐臭に等しい。全ての証拠を握るベルニクはいずれメディアに出すだろう。トール・ベルニクとは、かような男なのだ」


 天秤衆育成にまつわる旧弊と悪習に対し、心を痛める関係者は聖教会内部にも数多く存在した。


 だが、異端審問を怖れ、誰も声を上げなかったのである。


 あるいは隠しておきたい弱みを握られている者もいた。人は誰しも醜悪な罪業を抱えているのだ。


 却って公然と不道徳を行うアレクサンデルには、弱みというものが無かった。


「そして今、彼奴きゃつ等は、マクギガンとクルノフを血祭るつもりでおる」


 多数の天秤衆が、両領邦へ向かっているとの報が入っている。


「これが政治的要請に基づく動きであるのは、貴方等とて否定できぬはずだ」


 エヴァン一派が異端審問を利用し、領主の精神状態が安定しないマクギガンと、立場を鮮明にしないクルノフを取り込む腹積もりであるのは誰の目にも明らかだった。

 

 他領邦に対する見せしめとすべく、苛烈な審問となるだろう。


「──それを阻止されるおつもりでしょうか?」

「いいや」


 意外にも、アレクサンデルはあっさりと首を振った。


「マクギガンは捨て置く。クルノフはベルニクが好きにすれば良い」


 トールが如何様に対応するか、アレクサンデルには予想が出来た。


「我はプロヴァンスの罪と天秤の政治利用を民に詫び、しかる後に──」


 アレクサンデル・バレンシアという希代の悪漢は、この一事の為に自らの半生を聖教会に捧げて来たのである。 


「──文字通り、焼き払ってくれるわ」


 遠い幼き日の少年は、肉人形となり果て死んだ姉の亡骸に誓ったのだ。


「せ、聖下!」

「さすがにそれは──」

「大変な事になりますぞ」


 聖教会の罪を公表する事で民衆からの信任を失うばかりでなく、教理局や天秤衆との抗争激化は組織を弱体化させるだろう。


「ラムダ聖教会は存亡の淵に立たされます」

「聖下、ここはどうか穏便に」

「分かっておられるのか? 間違いなく聖教会の危機が──」


 繰り言をさえずる枢機卿を前に、アレクサンデルは穏やかとも言える表情で玉座から立ち上がった。


「これは、聖教会の危機ではない」


 怠惰以外、全ての罪源を兼ね備えると公言し、あらゆる不道徳に手を染めて来た男は、この瞬間、聖人にその名を連ねたと言えよう。


「信仰の危機である」

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