29話 女主人の帰還。
トール・ベルニク率いる艦隊は、あらゆる人々の注目と関心が集まるなか、悠然とポータルを抜け、サヴォイア領邦からクルノフ領邦へと押し入った。
予想されたポータル面での戦闘行為は行われなかったのである。
この一事は、ロマン・クルノフ男爵が新生派勢力に与したのだと、各領邦の目に写った。
弱小クルノフは、英雄が率いる艦隊に膝を屈したと考えたのである。ロマン男爵は近々に女帝ウルドの許へ臣従を誓いに行く――などと、既にメディアでは盛んに報じられていた。
他方で、復活派勢力であるアラゴン選帝侯は、クルノフと繋がるポータル面に多数の艦隊を集結させ始めている。
アラゴン選帝侯が待っているのはクルノフの異端審問なのだが、メディアが天秤衆の動向について報じる事は無かった。
メディアにとって天秤衆と教理局は、女帝や教皇以上に禁忌なのである。
こうして、トール・ベルニクはクルノフに入り、ロマン男爵の臣従を確約させるべく邦都を一路目指し――
「いやぁ、インフィニティ・モルディブって、どの建物もホントに立派ですね。儲かってるんだろうなぁ」
――てはいなかった。
艦隊は腹心のケヴィン中将に任せ、トールは少数人でリゾート地に降り立っていたのである。
「アタシが戻ったからには、ぜ~んぶ坊やの物だからねぇ」
フレイディスは、愛おしそうに殺人鬼トーマスの頭を撫でている。
ともあれ、そんな豪奢な街並みに感心しつつ辿り着いたのは、要人御用達の高級ホテルだった。
「前々から思ってたんだけど――」
ホテルのロビーで、待ち受けていたテルミナが告げる。
「――オメェは、いったいどうなっちまうんだろうな?」
トールの後ろには、フリッツ、フレイディス、トーマスが並んでいる。何れもモルトケ一家の関係者、つまりは元海賊である。
それだけでも領邦領主としては異質なのだが――、
「あなたが、噂のテルミナちゃんなのね。本当に可愛らしい方!」
嬉しそうに言って、トールの傍らに立っていたグリンニス・カドガンが、自身と同程度の背丈であるテルミナのもとへと近付いていく。
「――ひ、姫様」
近習のフォックス・ロイドが止めようと手を伸ばすが、さらりと身を躱して歩を進めた。
「おいくつ?」
首を傾けて尋ねる様子は、成熟した淑女が幼子に尋ねる風である。無論、両者の外見的特徴を
「よ、四十六――だけど――」
「フフ、お若いわ」
繰り言となるが――は、もう良いだろう。
「船中でテルミナちゃんの活躍を聞いて、会えるのを楽しみにしていましたの」
何を話したんだコラ、という目付きでテルミナはトールを睨んだが、フリッツと話し込んでいる彼には伝わらない。
いや、正確にはフリッツだけではなかった。
――な、なんだ!?
トールが話し込んでいる相手は二人いる。イリアム宮の頃とは些か風貌は異なれど、その男をテルミナが見紛うはずもない。
――何だってテメェを殺そうとしたキチガイを?
◇
ヴィルヘルム・モルトケは、最上階のオフィスから下界を眺めていた。
――伯がカジノを訪れたなら、上手く勝たせてやれ。
そうロマン男爵から指示された時は、トールがインフィニティ・モルディブを訪れるか否か半信半疑に思っていた。
艦隊を率いてきた以上、邦都に赴いてロマン・クルノフを臣従させたという絵面を優先すると想定していたのだ。
だが、クルノフ領邦に入るなり、真っ先にインフィニティ・モルディブへ来てしまった。
ヴィルヘルムが最も恐れる相手を連れて――。
「――フレイディスめ。あの女狐、いつもと同じ手管で、ベルニクの小僧も骨抜きにしてしまったのではなかろうな」
エドヴァルトの妻となる前から、フレイディスは美貌の女海賊として知られていた。
その残虐性を怖れ、おいそれと近付く男はいなかったが、大海賊エドヴァルトは彼女を妻として娶る。
周囲の予想に反して、表面上の二人は安定した結婚生活を送り、ビジネス面でも良きパートナーとなった。
エドヴァルトが他に愛人を作り子を為そうとも、フレイディスが事を荒立てなかった点も大きいだろう。なお、何名かの愛人は行方不明となっているが、因果関係の有無は不明である。
ともあれ、結果として家中におけるヴィルヘルムの立場は、フレイディスという異物のせいで相対的に下がってしまった。
偉大な兄の右腕から、フレイディスに次ぐ存在となったのである。
この状態で二人の息子トーマスが成長すれば、益々と自身の価値は下がっていくだろう――。
そのように、ヴィルヘルムが内心で怯えを感じ始めた頃の事だった。彼の耳元で全てを解決する方策を囁いた人物がいる。
――お、お前――正気か?
相手は、血濡れたように紅い唇で笑みながら、狼狽えるヴィルヘルムの顎に触れて言った。
――ヴィリー、男なら勝負どころってのがあるだろう?
「ヴィルヘルム様――お客様が参られましたが――」
裏切りの追憶は、秘書の言葉で中断される。
「――ん――む――」
アポは無かったはずだがと思いつつ、ヴィルヘルムは時計を確認した。
「いや、予定にないぞ。いったい――」
先方の名を確認しようとしたところで、オフィスの外から喧騒が響く。
――し、暫しお待ちを――ああっ――。
――きゃあっ。
「おどきっ!!」
という声と共に現れたのは――、
「アタシの顔を知らないなんて、どんな教育してたんだい?」
古式ゆかしい海賊衣装を身に纏う、フレイディス・モルトケであった。
「ふ、フレイ――」
「おやおや、久しぶりだねぇ」
立ち尽くすヴィルヘルムの傍へ、フレイディスは黒いピンヒールブーツの音を鳴り響かせながら歩み寄っていく。
「戻って来たよ」
そう言ってフレイディスは紅い唇で笑みながら、ヴィルヘルムの顎へ手を伸ばす。
「また、ちょいと協力してもらうよ」
「な、何をするつもりだ?」
ヴィルヘルムは声の震えを押さえる事ができない。
ロマン男爵から指示されているのは、カジノでトールに勝たせる事のみである。余計な企みを巡らせて、リスクを負うつもりなど無かった。
「ヴィリー、男なら勝負どころってのがあるだろう?」
◇
「海賊に、カドガン。おまけに道化か」
ソファで胡坐をかいて座るテルミナが、呆れた様子で言った。
「思っていたより人数が増えましたけど、フロアごと貸し切ってくれていたので助かりましたよ」
大司教パリスの功績なのだが、面倒なのでテルミナは黙っておいた。
「カジノで遊ぶんですよと言ったら、グリンニス伯も行ってみたいと言われましてね。ま、これも親善外交の一環です」
「親善――ねぇ――?」
テルミナは、少しばかり目を細め、向かいに座る上司を見詰めた。
――教皇だの、蛮族だのと。コイツは妙な相手とばかり親善しやがるな。
「道化は――まあ、いいや」
重要なのはトールの同行者についてではないと思い直す。テルミナには報告すべき事があるのだ。
「オメェが睨んだ通り、やっぱり裏はあった」
トールの莫大な借財の件である。
「おお、ジャンケット――ユキハさんでしたっけ?彼女経由でお金を借りて、そこを辿って調査してくれた訳ですね」
「いいや」
テルミナは首を振る。
「話が横道に反れっけど、クリスのバカは勝ち続けてる」
「えっ?」
目を丸くしてトールは驚いた。
――ボクと同じ事象が起きているのか――それとも、カジノ側が何かしてるのかな。
「だから、アンタの狙い通りにはなっていない」
「そうですか」
「ま、そんな小細工は、そもそも不要だったんだよ」
「裏が分かったんですものね。ん?――って事は――」
トールは何かに気付いた様子で告げた。
「ユキハさんが協力してくれた、と?」
「そういうこった」
少しだけ面白くなさそうな表情でテルミナは頷いた。
「腐れ坊主から聞いた浅からぬ縁ってのは、マジかもしれんな」
ユキハに繋いでくれたのは、大司教パリスなのである。
「浅からぬ女の話によるとだな――」
トールはカジノに対して直接的な債務がある訳ではない。
彼に金を貸していたのは、「レディトゥス・ファウンデーション」と名乗る財団法人だった。
無利息、無担保で、トール個人に貸与していたのである。
「そんなの、有り得ます?」
「普通、ねーわな」
その上に、厳しい取り立てもされていないのだ。これでは、贈与に等しい状態だろう。
「そもそもだが、テメェはユキハに金を借りたいなんて言った事がない」
「え――?」
「ユキハを通してじゃなくて、お前が勝手に借りて、勝手にカジノで負けまくっていただけなんだよ」
金を落とす事だけが目的であるかのような行動に、ユキハも疑問に感じて何度か尋ねたらしい。
だが、トールは微笑むのみで何も答えなかった。
「全く意味が分かりませんね」
腕を組んで首をひねるトールを、テルミナは探るように見てから応える。
「そうだな。だが、そうなると――」
与えられた情報を総合すると、テルミナとしてはある結論を導かざるを得ない。
「――やっぱり、トール・ベルニクは死んだのかもな」
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