17話 地中海。

「――ご覧よ。随分と素敵な眺めじゃないか」


 高台に立つ白亜の邸宅からは、エメラルドグリーンの海が一望できる。


 その海を、大型の旅客船が、美しい航跡波を描きつつ徐々に近付いてきていた。


 海域に拡がる島嶼とうしょの中では、ここは比較的に大きな島であり、地域の交通ハブと物流を担う巨大な港湾が存在するのだ。


「地中海なんて名前だったらしいけど、大陸が在った頃は海賊達が荒らし回っていたんだよ」


 かすれた声でそう言った後、窓の外を見ていた女が鼻を鳴らして振り向いた。


 美しい大人の女だったが、険しい目付きと獰猛な口許は、彼女が歩んで来た人生を物語っているのだろう。


 赤いジュストコールを羽織ってブーツを履く様は、当人が語った地中海の海賊達が蘇ったかのようだ。


 ジュストコールの奥にある上着は大きく胸元が空いており、深い渓谷を惜しげも無く晒している。

 

 地中海が、バルバリア海賊の栄華を誇った時代であれば、この女を巡って血で血を洗う抗争が起きたかもしれない。


「ここなら、アタシが大人しくしてるだろう――とでも連中は思ってるのかねぇ」


 何かを思い出すかのように、胸の谷間に挟まれたロケットペンダントを手に取って嘆息した。


「どう思う?」


 チャームから目を離すと、居室のソファに座る眼帯をした男に目を向けた。


 途端に相好を崩し、猫撫で声となる。


「――アタシの可愛いトーマス坊や。眼帯が男ぶりを上げたじゃないか」

「はひっ」


 ボウと窓から望む海に見惚れていた殺人鬼トーマスは、突然の質問に姿勢を正して女を見上げた。


「な、何ですかね――ええと――お母さま」


 女の話をまったく聞いていなかったので、トーマスは怯えた声で応える。


 そうと気付いた隣に座っていたフリッツは、鼻をほじりながら口を挟んだ。


「連中のとんだ勘違いだと俺も思うぜ。ばばあ――おっと、赤毛のフレイディスには勿体ない、贅沢なつい棲家すみかだってさ」


 鼻から取り出したひと際大きな成果物を、人差し指でピンと弾く。


「アンタにゃ、ヴォイド・シベリアこそが相応しい」


 ヴォイド・シベリアには、凶悪犯や危険思想の持ち主を収監する為の獄が在るのだ。


「――へえ?」


 トーマスから視線を外し、フリッツに向ける女の眼差しは、一転して冷たいものとなった。


「ちょっと見ない間に、一丁前の口を利くようになったもんだね」


 女――フレイディスが、忌々しい口調で憎まれ口を叩いた。


「昔からそうだろ。アンタこそ長い地表暮らしで、脳みそが沈んちまったんじゃねぇのか?」

「ちっ」


 フレイディスは短く舌を打ち、ペッと音を立てて赤絨毯に唾を吐いた。

 

 すると、何処からともなく小人達が現れ、絨毯の染みとならぬよう唾液を拭き取って再び姿を消していく。


 小人達は身長一メートルほどで、皺だらけの表皮にキラキラと輝く大きな瞳を持ち、そして皆が同じ顔である。


 オビタルの暮らす軌道都市では見かけない生物だったが、この場では誰も驚く者が居なかった。


「可愛いトーマスから道中の話は全部聞いたよ」

「昨晩は、二人でオネンネしてたもんな」

「親子だから当然さね」


 フレイディスは妖しい笑みを浮かべ、他方のトーマスは少しばかり恥ずかしそうに俯いた。


「蛮族共に掴まる海賊――なんて、アタシは聞いた事がないね」

「――そ、それは、そのう、僕が――モタモタと――」

「その蛮族を、ぶち殺して脱出したんだから立派なもんだろうが」


 トーマスの言葉を遮り、フリッツが応えた。


「どうだかね――結局はベルニクの盆暗領主に助けて貰ったんだろ?」

「閣下――い、いや――色々と立ち回って野郎の懐に入り込んでなきゃ、アンタの可愛いトーマスも今頃は縛り首だぜ」

「ふん」


 その点はフレイディスも認めざるを得ない。


 大人しく流れに身を任せていたならば、船団国から救出された後に、ベルニクに在る収監施設に放り込まれていただろう。

 自由な身柄のまま、軌道エレベーターで地表に降り立つ事も叶わなかった。


 つまり、親子が感動の再会を果たせたのは、フリッツの機転に依るところが大きい。


 とはいえ――、


「けど、アタシが何より気に入らないのはね――」


 我が子トーマスを溺愛するフレイディスには、容易にフリッツを認める訳にはいかない事情がある。


「トーマス坊やになんて呼ばせ、挙句の果てには厚かましくもモルトケを名乗ったそうじゃないか」


 フレイディスは目を細め、決して許せぬ相手を睨んだ。


「嘘はいけないねぇ。フリードリヒ・ベルヴィル」


 その名で呼ばれたフリッツは、人知れず奥歯を噛んでいる。


めかけの生んだ子は、モルトケじゃあないんだよ」


 ◇


「ふわぁ、ホントに綺麗な海ですよ」


 旅客船のデッキに立ち、身を乗り出すようにして海原を眺めるトールの傍らで、首席補佐官のロベニカが、恐々とした面持ちで彼の背中を掴んでいる。


 大事な上司が船から落ちないようにという心遣いのつもりだったが、傍目には洋上を怖れるオビタルそのものに映った。


 オビタル、つまり軌道人類は地表を捨てた種である。


 地表世界になど降り立つことなく生涯を終える者が大多数であり、海を目にする事も、ましてや海原を船で旅するなど想像の埒外なのだ。


 そういった意味でも、故野人伯爵ディアミドの熊狩りなどは、ピュアオビタルに対してマチズモを感じさせる行為であっただろう。


「トール様ッ!!あ、あまりに身を乗り出し過ぎですっ」


 軌道都市では女帝を攫った上に奸雄や教皇と奸計を巡らせる。他方の宇宙に在れば艦隊を率いて蛮族の地まで行ってしまう。


 ――地表ではどうなってしまうのかしら……。


 地上に行くから軌道エレベーターの手配を――と頼まれたのは十日ほど前の話だった。


 存外に楽しかったプールパーティの事などを反芻していた昼下がり、彼女の執務室をトール自らが訪れたのである。


「へ?」


 意外な申し出に、ロベニカの返答は些か間の抜けたものとなった。


「地球に――というか、地球の地上に行きたいんです」


 自身の足下を指差しながらトールが告げた。


「軌道エレベーターで行くんですよね?」

「そ、そうですけど――」


 軌道都市からは、何本かの軌道エレベータ―が地表へと串差すように穿たれていた。

 全ては赤道直下に残った島々に繋がっている。


 先史文明の時代には、赤道以外の地域にも在ったとされるが、相対位置を維持するには莫大なコストを要する為に廃止されていた。


 今となっては、地球との物流規模はさほど大きく無いのである。太陽系に住まう地表人類の殆どは、彼等の生産活動と共に火星へ移っていた。


「地表へだなんて、いったい何をしに行くんですか?」


 ――まさか地表でバカンス……。有り得ないけれど、トール様って変わってるし……。


「昨日ね、フリッツ君と、色々とお話ししたんです」

「か、海賊――」

「アハハ。でも、今は違いますよ」


 蛮族の地において、テルミナの部下という身分を仮に与えたのだが、邦都に戻り正式に特務機関デルフォイの一員として配した。


「以前から、妙に彼が物知りなのが気になっていたんです」


 月面基地に居並ぶ聖骸布艦隊を見ただけで、船団国へ遠征すると勘付いてる。さらには台座についても、ある程度は知っている様子を見せていた。


「あと、うちに雇われる為にモルトケ家を抜け出したって話も――」


 ――モルトケ一家の次男坊だよ。海賊なんてチンケな商売が嫌で抜け出してきたんだ。ベルニクで拾ってもらうつもりで――随分な遠回りになったもんだぜ。


 などと、嘯いていたが――。


「――なんだか、嘘っぽいじゃないですか」

「た、確かに――そうですね」

「ええ。だからね、お互い本音で話しましょうって言ったんです」


 振り返ってみれば、トール・ベルニクは胸襟を開く事で事態を進めて来た。


「それで、やっとフリッツ君の目的が分かりました」


 二人は語り合い、互いの秘したる目論見を明かしている。無論、それぞれの利害が一致したからこそであった。


「お母さんの許へ、トーマスさんを届ける為だったんです」

「は、はい?」

「でね、色々考えまして、ボクも行こうかなって」


 というような次第があり――、


 トールとロベニカは船上の人となっていた。


 地表世界においては航空機の運用が禁じられており、島から島への移動は船舶に限られる。


 空から上はオビタルの支配領域である事を示すと同時に、地表人類が良からぬ野心を抱かぬ為の施策であった。


 オビタルと地表人類は対等な関係を謳ってはいるが、両者には明らかな力の上下関係が存在したのである。


「あ、見えてきましたよ」


 興奮した様子で、両手を双眼鏡としたトールが声を上げた。


 大型の旅客船の先には、巨大な港湾を擁する美しい島が見える。


「あの島に、フリッツ君達は、先に着いてるはずです!」

「なぜ、一緒に行かなかったのです?」

「だって、ほら」


 トールが邪気の無い笑顔を浮かべた。


「お母さんと、水入らずで会いたいかなと思いまして」


 近頃のロベニカは、彼が浮かべるこの表情に弱い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る