8話 眠れぬ夜に。
オリヴィア宮における籠城戦は三日を過ぎている。
攻め手のカドガン領邦軍は、指揮官を失った事で体制の立て直しを図っていた。また、外周部上層からの
残り時間を考えるなら、一刻も早く攻め落としたいところだったろうが、グリンニス伯は急がば回れという故事に従ったのだ。
さすがは年の功、などと腹心のフォックスは感心していた。
彼女は、その幼い外見に反して、実年齢は八十歳なのである――。
他方の守り手側には疲労が蓄積し始めていた。
兵の数が足りないゆえに、守備陣地を維持するには短時間周期の交代制を敷く必要がある。
結果として、休息と睡眠が十分摂れない要因となっていた。
近いうちに大幅な士気の低下をもたらすだろうと容易に予見できる。
無論、この状況に対してウルドは、黙して座視などしていない。
トール率いる援軍が辿り着く日まで、自身と台座を護持する為にも、オリヴィア宮へ敵の侵入を許してはならないのである。
「
中庭に建つ釣鐘状の建築物の前に、パワードスーツを纏った女帝ウルドが立っていた。
彼女の前には、多数の女官達が整列をしている。
何れの女もパワードスーツに身を包んでいたが、頭部装甲をしていない為に華やいでも見えた。
外部から装甲歩兵の増員が望めぬ以上、宮中の人間を使うと決したのだ。
とはいえ、シモンを始めとする男達は、既に力仕事へ駆り出されており、
「つまりは、余も――そうであるのだが――」
そう言って、少しばかり動き辛そうな様子ながら、波打つ刀身のクリスで中空を突いた。
装甲歩兵用に剛性を高めたフルーレなど存在しない為、片手剣で尚且つフェンス系の武器としてクリスを選んだのだろう。
「
パワードスーツの利用において初心者がまず克服すべき課題は、対数フィードバックと脳内における運動イメージの乖離となる。
僅かな訓練期間のみで揚陸戦に参加し得たトール・ベルニクは、教えた者が良かったのか、あるいは天賦の才があったのかもしれない。
「――た、大変ですわね――きゃあっ」
「お姉様――きゃっ」
派手に転んだのは、フェオドラ・オソロセアである。助けようと手を伸ばした妹のオリガまで転んでしまった。
専ら次女のレイラが女帝の傍に仕えているが、彼女達も名誉近習である。
政治と関りの無い気楽な茶会をウルドが所望した際には、フェオドラやオリガが呼び出される事が多かった。
絶妙に敏くない点が、逆に気楽だったのかもしれない。
「も、申し訳御座いません――あわわ――きゃあ」
狼狽え立ち上がったフェオドラは、謝りつつも再び尻餅をついた。
「この――」
ウルドの眉間に皺が寄る。
次女レイラと異なり、全てにおいて勘の鈍い二人に苛立ったのだろう。
だが――、
「まあ、ふふ――お姉さまったら」
次女であるレイラ・オソロセアは声を上げて笑った。
すると、
「ほほほ」
「し、失礼――くすっ」
「ふふっ」
フェオドラとオリガを中心に、さざ波の様な笑声が拡がり始めた。
籠城戦の緊張と、何より女帝を前にして遠慮のあった女官達だが、レイラの笑い声に連られる形となったのである。
宮中に、久方ぶりとなる女達の嬌声が響いた。
――ふむん。
女帝ウルドは言いかけた叱責の言葉を飲み込んで、緊張が幾分か
――故意か偶然かは分からんが……。
人の身で張り詰めた状態を永続させる事など不可能である。
ならば、結果として、良い時に良い効果を生む一幕があったのだ。
――これも、良き事なのであろう。
「見事な転び
瞬間的に湧いた苛立ちを抑え、ウルドは少しばかり頬を緩めて告げた。
「後に褒美を取らせよう」
◇
中庭に面する居室に
眠らねばならないと理性は告げているが、あれやこれやと考えていると
とはいえ、死や敗北を怖れていた訳ではない。事ここに至っては、勝つために尽くすほか悩んだところで意味など無いからだ。
ゆえに、彼女の思考の大半を占めていたのは、籠城戦を終えた後にあった。
衆目の一致するところであるが、蛮族討伐に向かったトール・ベルニクの凱旋後は、雪崩を打ったように諸侯は新生派勢力へ
カドガン領邦軍にフェリクスへの侵入を許したとはいえ、ここを凌げば敵方に当面の間は二の矢が無いのである。
エヴァン公と彼に与する選帝侯達の抵抗はあれども、新生派勢力を中心に新たな政治システムが構築されていくのだ。
女帝ウルドが君臨し、オソロセアやベルニクなどの功臣が支える事になろう。
その時――、
――余は――どうしたいのであろうな。
トール・ベルニクを
単なる愛人とするのか、婿として娶るのか、あるいは――。
「リヴィ――ええと――陛下」
戸を叩く音と、密やかな母の声が居室に響いた。
見張りの衛兵は立っているが、
ウォルデン領邦では命を狙われ不安だと言って、仮面舞踏会前からオリヴィア宮に居付いている。
「母君か――入られよ」
ウルドは手早く身支度を整え、ベッドから降り立ち告げた。
「――ふう、とっても冷えるわね、リヴィ」
厚手のショールを羽織り、母シャーロット・ウォルデンが入って来る。
カドガン領邦軍の工作部隊により外部からの動力供給を絶たれ、オリヴィア宮は地下に設営した緊急動力システムに頼っていた。
軌道都市においては外気温も調整されているとはいえ、屋内空調が抑制されていると、オビタルにとって心地良い気温とは言えなくなる。
「熱い茶でも?」
サイドテーブルには、ティーセットが置かれている。
籠城戦という緊急時において、いちいちと傍付使用人を呼ぶのも面倒になり、最近では手ずから茶を淹れるようになっていた。
「あら嬉しい。頂くわ」
シャーロットは少女のように微笑み言った。
実際、今もって見た目には少女で通る若々しさを保っている。
「ここ、いいかしら?」
茶を淹れながらウルドが頷くと、シャーロットは手近な椅子に腰かけた。
「――どうぞ」
湯気立つティーカップを母に手渡す。
「ありがとう」
「いえ」
未だに彼女は、母を前にした時の態度を決めかねていた。一方のシャーロットは、直ぐに母娘の関係性で詰め寄る傾向にある。
その溝が埋まる日が来るなど、ウルドには想像も出来ない。
「ところで――」
「あのね、リヴィ」
二人の言葉が重なり、自然とウルドが口をつぐむ。
「今回の喧嘩なのだけれど――」
――エヴァンとの争いについても同じ言い
テラスで交わした母との会話を想起する。
続く言葉も予想は出来た。
「――あなたから謝った方が良いと思うの」
「ほう」
と、ウルドは相槌に止める。
「だって、姉妹みたいに仲良しだったでしょ。なのに――」
年齢差から言えば姉妹というより母娘とはいえ、仲が良かったのは事実である。
だが、決裂したまま月日は流れた。
きっかけは些末な事であった。諍いの発端が何れの責であったのかも良くは思い出せない。
互いに触れてはならぬ傷口に塩を塗り合ってしまったのだ。
出生の秘事と不治の病――。
何れも自らの手では取り返せぬ弱みであり痛みだった。
立場が変わり、対立はより深刻になっていく。
陰湿に、そして悪辣な方法で、両者は相手の
もはや、謝罪程度では済まぬほどの溝が出来ている。
それに、そもそもであるが――、
「母君。これは喧嘩ではなく、戦争なのです」
謝罪でどうにかなる局面ではない。国家を後ろ盾とした面子があり、さらにはその面子を支える者達の利害もある。
個人の諍いが生んだ軋轢の延長線上にある点は否定できないが、付随する尾ひれが大きすぎるのだ。
「難しい事は分からないのだけれど――」
だが、シャーロットの視ている世界は他と少し異なった。
「戦争って、喧嘩でしょう?」
「いや――」
それは違うとウルドが抗弁しようとした時の事である。
居室の扉が、彼女の許可も得ずに開かれた。
「大変で御座いますっ!!」
侍従長のシモン・イスカリオテであった。就寝中を叩き起こされたのか、ナイトキャップを頭に乗せたままである。
滑稽な寝姿であるな、とウルドは呑気な事を思った。
「つ、通用門が破られましたぞ。落ち延びる準備をお急ぎ下さい!!」
そう言った後、彼の頭からナイトキャップが落ちた。
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