30話 夕闇の神殿。
夜のとばりを迎える直前、イニティウムの中心に位置する神殿は朱色に染まっていた。
首船プレゼピオは、ダイソン球で覆われた恒星マグダレナの軌道都市である為、人工的な調光で昼夜を作り出している。
自然光を一切利用しないがゆえに、かえって古典人類と同じ空模様を再現させるに至っていた。
演出された夕闇の中、人が少なくなり始めた神殿前の広場を、多数のソルジャーに警護されて歩く人物がいる。
黒いローブを着て、頭部をフードで隠す
悪鬼の使いは急ぎ足で神殿前の大階段を駆け上がり、閉ざされつつあった門扉の奥へと滑り込んで
警護していたソルジャー達は、そのまま門扉の前に並び立ち、さらなる客人の到来を拒絶するかの如く、腰に下げた剣に手を掛けた。
◇
神殿の奥には円堂があり、ドーム状となった天蓋部中心の彩光窓から差し込む朱色の光が、屹立する巨大な女神像を照らしている。
オビタル帝国が祀るラムダ像とは異なり、女神の四肢と下腹部は壁に埋まってなどいない。
自らの足で立って、右手に剣を、そして左手には天秤を持っていた。
白いトーガを纏った男と数名の巫女が、巨象の前に跪いている。
「十年ぶりのプレゼピオは、いかがかな?」
男が跪いたまま、背後から入って来た悪鬼の使い――黒いローブに包まれた相手に告げた。
「――良い」
短く応えた後、頭を覆うフードを後ろへと下げ首を振った。相変わらずの
「虚栄無き街並みは美しい」
本心からの思いであったが、跪いていた男の解釈は異なった。
「ふむ――」
幾分か不機嫌そうな呟きを漏らし、印を切った後に立ち上がる。
次いで男が手を左右に振ると、巫女達は頭を伏せたまま円堂の奥へと姿を消した。
「――我等も大いに栄えたつもりであるのだがな」
振り向き、蛇のような眼差しを送る。
「エゼキエルには及ばぬか――レオ
「他意は無いのだ」
相手の不快には気付いたが、あれこれと言い繕う気持ちにもなれない。
帝国臣民から奪い、奴隷を搾取し、さらには不正な商取引で糧を得ている相手なのだ。
彼等の発展を呪いこそすれ、祝すなど悪い冗談にもならない。
とはいえ、レオに与えられた役回りを考えるならば、原理原則を持ち出して対立する訳にもいかなかった。
信仰と良心の狭間にあって、これから話す内容は彼の消えぬ罪悪感を刺激する。
「ピラト大神官、既に用向きは知っているのだろう」
この訪問に先立ち、レオはユピテル・レギオンに立ち寄っている。幾分か不愉快な思いはしたが、重用事をポンテオ総督と取り交わしていた。
その後、レオが首船に赴くにあたり、ポンテオはFAT通信にて報せを送ったはずである。
「弟から便りがあった」
そう賢し気に告げる表情は、ポンテオに対した際と同じくレオを不快な気持ちにさせた。
――双子とは、かくも似るものか……。
遥か彼方のレギオンにて星間空間を奔る男が、纏う衣装を変えて眼前に現れたかのような錯覚に陥る。
「十年前とは状況が異なると、分かっているのだろうな?」
ピラト・ペルペルナは抜け目のない口調で告げた。
船団国における祭事を預かり、略奪で流す血に意味を与える事こそが務めでありながら、彼の関心事の大半は政治と権力にある。
「帝国は二つに分かたれ、歯抜け男は片割れへと媚を売りに行っておる。下らぬ紙切れに名を記して来るのだろう」
「だが、決まれば、困った状況となろう」
船団国と新生派が結べば、目の前に立つ男に代表される、反ルキウス派勢力にとって看過できない事態となる。
現時点では、執政官の積極的な後ろ盾となっているのは、ミネルヴァ・レギオンに限られた。
進歩派を謳うディアナ・レギオンなども居るが、弱小レギオンの
だが、今回の交渉が上手くいってしまうと、新生派オビタル帝国との交易こそが最も利を生み出す小槌となりかねない。
「忌々しい歯抜けに秋波を送る者が増えような」
これまでルキウスは注意深く公言してこなかったが、その内心では奴隷制度の廃止を願っている事など手に取るように分かる。
無論、残りの任期で国柄を変えるほどの
「なれば、咎人とするほかあるまい」
「帝国と結んだ功を為した男を――皆が許すか?」
何より、新生派オビタル帝国が相手の鼻先にぶら下げる人参を、多くの大衆は欲するのではないかとレオは考えていた。
どれほどの虚勢を張ろうとも、帝国と船団国を比するならば、富が
「歯抜けの罪状など幾らでも作れようさ。ゆえにこそ――」
ピラトは、ここからが本題だという声音になった。
「――そちらの手土産が重用事となる」
同じ事をポンテオから問われ、答えた後にピラトと会うよう告げられたのである。
「国交と通商を」
レオは絞るように言った。
異端の蛮族と、同胞から略奪する盗人と――手を結ぼうというのだ。愛する男から今回の使節を請われた時、さすがの彼も一度は断ったのである。
――また――私を行かせるのか――。
十年前にも、エヴァンに頼まれた彼は異端の地を訪れていた。
――私には信じられる者が、あなたしか居ないのだ――レオ。
同じ言葉で、同じ場所に、レオは再び訪れている。
「ふむん。我等の民を返せ――などと戯言を抜かさぬと誓うか?」
「誓おう」
レオ・セントロマの抱える愛は、彼に罪と裏切り、そして信仰の摩耗を強要する。
「ククク――とんだ聖職者もいたものよ」
良心の呵責に病む相手は、ピラトを実に愉快な気持ちにさせた。
「だが、十分ではないな。歯抜けの目論見が成就して、実のところ最も困るのは
「――」
返事に窮したレオは、僅かに下唇を噛む。
「玉璽と共に女帝に逃げられ、一番槍のカドガンは手負いの状態――。この有様で船団国をも敵に回す余裕は無かろうな」
グリフィス領邦軍が、旧帝都叛乱軍の討伐に出遅れた原因とて、ロスチスラフが頼んだミネルヴァ・レギオンによる妨害工作である。
万一にも正式な軍事協力へと育てば、復活派勢力は艦隊の進軍すら困難な状況となりかねない。
「何を欲するのだ?」
「金ではないぞ」
レオの眼差しに気付き、ピラトは頬を歪める。
「五十年前の因縁――アレを返してもらいたい」
相手の要求は、レオの一存では決められぬ内容であった。いや、エヴァンにすら決定権が無いのである――。
「未だ動かせてもいないのだろう。クク――それこそ貴様等が異端である証しよ。城塞に至るは、やはり選ばれしグノーシスの民であるという事だ」
ベネディクトゥス星系の会戦において鹵獲した超弩級艦は、天秤衆が秘したる場所に現在も保管をしている。
――返せる訳が無かろう。
かの
「それは――」
無理である、と言いかけた時、彼の元へとEPR通信が入る。右手を上げて少し振った後、ピラトから離れて背を向けた。
その意味するところを知ったピラトは不機嫌そうに鼻を鳴らす。目の前でニューロデバイスを使われる時が、彼等の劣等感を最も刺激する瞬間なのだろう。
レオはひと言も応えを返さずに通信を終えた。振り向いた彼の
「互いに選択肢は無くなったようだ」
その言葉に、ピラトは胡乱気な目付となった。
「条約が締結された」
国交を結び、自由な通商と経済協力を新生派は供する。
「その代償として、貴方等の執政官は、奴隷解放と略奪の停止を約した」
「長期計画なのだろう。途中で有耶無耶に――」
などという民会での言葉を信じるべきでは無かったのだ。ルキウス・クィンクティは、彼等が想像する以上に愚かな男だったのである。
「
「そんな条約が罷り通る訳がなかろう」
「条約ではない」
これが意味する事に、レオは戦慄を禁じえなかった。
「女帝が刻印に誓ったのだ」
つまりは、確実に履行される。
「ベルニクは、いかなる手段によってか
「くっ――だが、あの阿呆が鹵獲した数では、通せる艦艇数など知れておるわ」
「問題はそこではない」
これも敵失と言えるのだろうか、とレオは考えた。
ピラト達にしてみれば、受け入れ難い条約を結んだルキウスを必ず廃する必要が出て来たのである。
となれば、彼が喧伝する富に見劣らない人参を用意しておくべきだろう。
「我等の手土産が必要になったのではないかな?」
優位な立場を得た事による一瞬の喜悦は、直後に数倍の罪悪感をレオに与え、彼の心を再び昏く蝕んでいく。
――やがて、私は狂う――いや既に狂っているのだろうか――。
レオ・セントロマの自己分析は、将来において最悪な形で現実のものとなる。
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