25話 忘れえぬ。
教皇アレクサンデルを伴い月面基地を発ったトールは、帝都フェリクスに降り立っている。
なお、使節団一行については、月面基地にて待機中であった。
他方で、解放されたクリス達は、秘かにトールの屋敷に運ばれており、メディアには未だ秘された状態にある。
そして、フェリクスに参じたトールの方といえば――、
「余は構わぬが――」
急遽の来訪に、慌てて銀髪を結い直させ、纏う衣装も華やいだ色合いに変えていたが、相好は崩さぬよう細心の注意を払って出迎えている。
が、多分に武骨な用向きであった。
「――筋から言って、ロスチスラフなどは気分を害するであろうな」
「そう――それなんですよ」
我が意を得たりとばかりに、慎ましやかな丸テーブルを挟み座る男は大きく頷いた。
――あの夜を思い出す風情であるな……。
詩編大聖堂にて、自身の寝所にトールが忍んで来た日を脳裏に浮かべる。
今と同じく小さなテーブルを挟み、彼の奇想を聞かされた。
その後に続いた変転変異の為せる業か、遥かな昔日かと錯覚するほどである。
――
彼女にとっては生涯に残る情景であった。
――妙な仕来りが生んだ夢、二度は無かろうかと思ったが、
トールから人払いを請われ、謁見の間は使わずに母とも会った
――意外に直ぐあるものだな。
窓向こうの居室に衛兵が立つとはいえ、謁見の間とは異なり廷吏や女官は雁首を揃えておらず互いの距離も近い。
尚且つ、トールの方も寛いだ様子である。
――まあ、常から寛いでいるような男であろうが――とまれ、ここは良い。今後は、ここに招じれば良かろう。
あまりに頻繁となれば妙な噂も流れるだろうが、それはそれで良いかもしれぬ、などとウルドは考えている。
外堀を埋める為の土砂ならば、いかほど有っても邪魔にはならない。
「――と思って、どうでしょうか?」
「うむ」
ウルドは背筋を伸ばした後、眼下に広がる街並みへと
「聞いておらなんだ。許せ」
「アハハ」
本当に可笑しそうにトールが笑う。
「重用事――否、詮無き事に思いが至っておったのでな」
「いやぁ、ボクも良くあります。陛下でもあるんですねぇ」
仲間が出来たと言わんばかりの口ぶりである。
「ええと、ボクが言いたかったのは、ロスチスラフ侯が気を悪くされた時に、仲を取りなして頂けないでしょうかという話しなんです」
実際のところ、トールとロスチスラフに共通する知人は少ない。
また、両者の立場を考えるなら、取りなせる存在など稀有であろう。
「良かろう。アレの様に敏い男は、伯の企みは愚策と判じようしな」
「正確にはボクの企みじゃないんですけど――まあ愚策かもしれません」
トール自身にも、己が進もうとしている道が賢いとは考えていなかった。
「とはいえ、利はあるのであろう?」
「成功すれば、利は有ります。但しリスクが大きい点は問題でしょう」
「では、
正義感からなのかと問うたのである。
「とんでもない」
トールは心底から首を振った。
「何が正しいかなんてボクには分かりません。悪も分かりませんが――」
正も邪も、全て
「敢えて言うなら
「――ほう」
自然、ウルドの口端が上がる。
義を声高に叫ぶ者など彼女も信じてはいない。
「余には理解できぬが、嫌いならば致し方あるまい」
「はい」
「ただな、仲を取りなすより良い方法がある」
「え――何でしょうか?」
トールが身を乗り出し興味を示した事に満足した様子のウルドは、テーブルに肘を乗せ左右の指先を絡めた。
「蛮族の
「あ――」
よもや女帝に依頼できるとは考えていなかったせいか、トールの心中には無かった発想なのである。
「――確かに――いや、ホントにそうですね」
ウルドが、その役回りを担ってくれるなら、トールとロスチスラフの仲に溝は出来ない。
また、女帝自らが動いたとなれば、他の諸侯達とて助力はせぬまでも看過せざるを得ないだろう。
「では、決まりである。余に任せよ」
「有難う御座います」
嬉しそうに頭を下げる相手に、ウルドの心持ちも湧いた。
「良い――それより、明日なのだがな――」
急の来訪をトールから請われ、都合が良いと思った真因はこちらにある。彼女が打ち合わせておきたい本題にようやく入ったのだ。
明日は、女帝と諸侯にとって多忙な一日となる。
幾つかの式典に続いて、諸侯会議、そして仮面舞踏会が開催されるのだ。
ウルドとしては仮面舞踏会において、確かな目印を互いに決めておきたいと考えている。
些か卑怯な手管であろうとも、己の願望成就を第一義に置く女であった。
「明日の舞踏会、余は紫紺のドレスに合わせ、同じく蝶を象った紫紺の仮面で参る。して――
――か、仮面?
トールは不思議そうな表情を浮かべた。
――蝶の仮面を着けるだなんて――前から思ってたんだけど、陛下って変わった人だなぁ。
大いに変わった人物が下した評価である。
「ボクはいつも通り軍の礼装ですよ」
ロベニカからは、舞踏会といえど軍属ならば、軍の礼装で出席すると教えられていた。
「ベルニクのか――ふむ、良い。実に分かり易い」
「ええ、そうです。すぐに分かります」
――ボクの顔って覚えにくいのかな?
などと思い、トールは少しだけ悲しい気持ちになった。
「とはいえ、念の為じゃ。仮面も教えよ」
ここで彼女は意外にも慎重派の一面を見せる。
「か、仮面ですか――いや、ボクはこのままで行くつもりでしたけど――仮面を着けた方が良いですかね?」
「――はて」
どうであったかな、とウルドは思いを巡らせる。
勿論、仮面を着けねばならぬと明文化されている訳ではないのだが――。
――なるほど――仮面など、ふしだらと思うておるのかもしれんな。
仮面舞踏会とは、元来が無礼講を目的とした宴である。
身分の上下など気にせず踊り、交わりを愉しもうという舞踏会なのだ。
ゆえに、乱倫の温床と見なす者もいる。
――あの母君が好むのも当然か。
母を早く追い払おうと考え適当に頷いた後、自身の目論見にも利用できると考え、ほくそ笑んでいたのであるが――。
「ホホ、名案であるな。名案である」
「はぁ」
笑声を上げるウルドに対し、トールの返事は怪訝なものとなる。
「確かに仮面などいらぬわ。余も素で参る」
「ええ、その方が良いですよ」
お綺麗なんですから、というのは余計な言の葉であろうと考え、トールは言わずにおいた。
「万事、解決であるな」
明後日に控えた使節団来訪時の段取りは決まった。
そして、仮面舞踏会では、互いを見紛える事も有り得ない。
つまりは、自分が右手を差し出せば良いだけである、とウルドは判じて満足した。
「解決です」
二人ともが満ち足りた思いとなり、背もたれに身を預けて互いを見やる。
程よい風も舞って、心地の良い昼下がりであった。
不思議と苦にならない暫しの沈黙の後、トールが口を開く。
「そういえば、こんな感じの時がありましたね――ええと――」
少しだけウルドの鼓動が早くなる。
「ほら、詩編大聖堂の夜ですよ」
「――う、うむ」
テーブルについていた肘を離し、両の手を
――忘れてなかった……。
「な、懐かしいか?」
彼女にしては珍しく、少しばかり
「はい、そうですね。ちょっと前のはずですけど、何だか懐かしいです」
トールは何かを思い起こそうとするかのように天を見上げた。
「で、であろうな。実は余も――」
「そうだ!」
突然の声音に、ウルドの肩が微かに揺れる。
「まだ、教えて貰ってませんよ」
トールが腕を不思議な形に曲げて謎のポーズを――つまりはウルドの秘したるエクササイズを真似た。
「あれって、何だったんですか?」
女帝ウルドは目を細め、ぷいと横を向いた。
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