42話 らむだ。

 それは、聴覚を圧倒する咆哮だった。


 溶液の中で発生した音波が、いかなる伝搬経路を辿って空間内を満たしているのかは分からない。


 前面パネルの振動は音波に共鳴しているというより、目覚めた女神――邪神が突進を繰り返している為だろう。


「た、大変です」


 贈歌巫女は慌てた様子で駆け出し、パネル下方にあるハッチを開けて入っていく。


 ――制御室か。


 旗艦トールハンマーのμミューフロントにも下部には制御室があり、調査チームがある程度の機能を解明していた。そのお陰で、みゆうの拘束を解くことが出来たのである。


「閣下さんよ」


 フリッツがトールの傍に寄った。


「逃げよう。というか、あんたは逃げないとマズイだろ」


 暴走する巨大な邪神を見上げたまま微動だにしないトールの腕を、珍しく真剣な表情のフリッツが掴んだ。


 現在の状況からするなら、彼の判断は正しいだろう。


「うひゃぁ、若ッ!!――ひ、開きませんよおおっ」


 いつの間にかエントランスに張り付いていたトーマスが悲鳴を上げる。

 

 それを聞いたブリジットは、ハルバートを構えて走った。殺人鬼を叩き斬る為――ではなく、エントランスを破砕するつもりなのだろう。


「チッ――逃がさねぇってことか――」

「いや、フリッツ君」


 未だ怖れる様子の無いトールは、呑気な声音で応えた。


 ――ど、どんな神経してやがるんだ?


 元海賊フリッツ・モルトケは、暫定的に仕える事となった男を見やる。


「エントランスがロックされたのは、多分ボク達を守る為です――あ、ですからブリジットさん!」


 既に彼女はハルバートを使い、エントランス部に激しい打突を加えている。その傍では殺されると勘違いしたトーマスが、頭を抱えてしゃがみ込んでいた。


「止めて下さい。万が一にも破砕されると――」


 邪神の咆哮に負けじとトールは叫んだが、ブリジットは一向に止める気配が無い。

 

 そこで――、


「ブリジット、おめなさい!」


 トールの意を汲んだマリの鋭い声が飛ぶと、即座にブリジットはハルバートを地に着けた。


「メイドが、狂人使いかよ」


 フリッツが悪態をつくと同時に、空間内を満たしていた咆哮が鎮まり始める。


 暴れていた邪神の口からは、ボコボコと気泡が漏れ出しており、自身の胸部を掻きむしるようにしていた。


「――お――い」


 次いで、水槽の壁面から燐光を放つ無数の触手が現れ邪神を絡めとり、そのまま壁際に押し付けた後に彼女の全身を覆っていく。


「薄気味ワリいけど――助かったのか?」


 静かになった空間にフリッツの声が響く。


「助けたわけではありません」


 制御室から戻った贈歌巫女が、少しばかり不機嫌そうな様子で告げた。


「クイーンを守ったのです。あれを放っておくと自傷に至ります」


 そう言って贈歌巫女は、猜疑心と、そして幾ばくかの尊崇の念が混ざる複雑な表情でトールを見据える。


「贈歌によらない目覚めなど、想像もしませんでしたが――」


 重低音の機械音が響き、触手は再び壁面へと戻って行く。


 ――なるほど――そういうことだったのか――。


 全ての女神が拘束されていた原因を、ようやくトールは理解した。それで残酷さが和らぐわけでもないが、コミュニケーションが図れぬ相手に対して他に手段も無かったのだろう。


「こ、こいつは――女神?」


 触手が消えると、両腕と下半身を壁面に拘束された少女が現れた。


 初見となるフリッツは、何度も目にしてきたであろう女神像と同じモチーフの光景に驚きの声を上げる。


「女神ではありません。μミューのはずですが――彼女は特別だというスキピオ様はクイーンと呼ばれています」


 クイーンと呼ばれる少女の咆哮は止んだが、挑発的な表情で下々に立つサピエンス達を見下ろしていた。


「ええと、落ち着きましたか?」


 改めてトールは少女に尋ねる。


「つうか、アンタは何なのよ」

「ボクは秋川トオルです。元は日本人で――」

「秋川?」


 少女の放つ機嫌の悪そうな声音に、言葉の意味が分からないトール以外の者達に緊張が奔る。


「なんか嫌な記憶を刺激されるけど――まあ、いいわ。ちょっと秋川」

「はい」

「私を解放なさい」

「いやぁ、ボクの一存では今のところ無理でして」

「役立たずッッ!」

「す、すみません」


 みゆうって優しいなんだな、と思いながらトールは謝った。


「解放については、ボクも頑張ってみます」


 この場は、ミネルヴァ・レギオンの支配領域であり、尚且つ彼等と交戦状態にあるわけではないのだ。


 勿論、トールの感覚からすると、少女を拘束するなど凶悪な犯罪行為となる為、彼は全力を尽くすつもりである。


「ともかくボクも頑張りますので――ええと――まずは、あなたの名前を教えてくれませんか?」


 トールの問いかけに重なるようにして、空間内に新たな音声が流れる。


 ――覚醒レベルの閾値到達を確認しました。

 ――転移シーケンスを開始します。


「て、転移?」


 空間に響いた音声は、フリッツにも、いやオビタルであれば理解できる言語であった。


「私の名前は――」


 ――転移ポイント存在確認完了。


「らむだ」


 ――転移します。


 その瞬間、待針まちばりの森から待針まちばりが消えた。


 ◇


「すげぇ、有様だな」


 ミネルヴァ・レギオンが擁するμミュー艦のブリッジへ入室を許されたテルミナは、モニタに映る首船プレゼピオ宙域の様子を見て驚きの声を上げた。


 とてつもない数の艦艇が、常闇の空間に人工的な輝きを灯している。


「十年に一度の大祭だからな」


 全てのレギオンから、多数の人々が円環ポータルを渡り集って来るのだ。


 各レギオンは二隻のμミュー艦を要しており、一隻は常の通り略奪部隊へ回し、残りの一隻に多数の艦艇を随伴させてμミューポータルを抜けてくる。


 ポンテオ率いるユピテル・レギオンは、貴重な一隻をベルニクに鹵獲ろかくされてしまっているが、取り潰されたカッシウス家の遺した一隻を己が物としていた。


「皆が愉しみにしているんだよ」


 本来ならばミネルヴァ・レギオンとて、大祭を心待ちにする人々を乗せた艦艇を従えて来たはずだが、今次の旅程は一隻のみとなっている。


 ミネルヴァは大祭に参加せず――。


 この決定に、レギオンの人々は大いに不服を感じていたが、レギオン総督に対して表立って逆らえるはずもなかった。


 その理由については、ユピテル・レギオンとの確執にあるとの噂を自ら流させている。

 ミネルヴァが後ろ盾となっていた執政官ルキウス・クィンクティは拘束され、執政官代理となったのがユピテル・レギオン総督のポンテオなのだ。


 外形的には不自然には映らないし、実際に多くのメディアはそのように報じている。


「首船で商売している連中にとっては稼ぎ時だ。泊る場所だって苦労する」

「へえ、うちらは大丈夫なんだろうな?」


 どれほどの逗留になるのか分からないが、独りになれる空間をテルミナは必要としていた。


「大丈夫だ」


 スキピオが頷く。


「親父が抑えていたスイートがある」


 とはいえ、身許は詐称して宿泊した方が安全だろう。


「俺達が到着する頃には、キャンセルが届く手筈になってるんだ。そこで割り込めば何とかなるだろう」

「そっか」


 スイートならば独り部屋もあるだろう、とテルミナは納得した。


「――だが、そんな事よりだな」


 首船プレゼピオの広域ネットワーク圏内となり、スキピオは板状デバイスを眺めている。


 これまでの船旅ならば、ゴシップ好きのルキウスが行う儀式なのだが、友の代わりというわけでも無かった。


 ミネルヴァから首船へと至る三日間、彼は情報を欲していたのだ。


「クソ」


 スキピオが小さく悪態をつく。


「野郎は、巡礼祭が始まって早々にやる気らしい」


 氏族達の支持を取り付けたポンテオは、臨時執政官の地位を得ていた。

 つまりは、外交専権を握ったのである。


 神聖な儀式の後に、重用事を宣するとの報道が流れていた。

 

「――テメェらってさ」


 板状デバイスを覗き込んだテルミナが呟く。


「ホントに蛮族なんだな」


 正規の司法手続きが執られることはなく、国家反逆罪と神権冒涜罪によりルキウス・クィンクティは公開処刑と決している。

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