16話 紫煙に隠れて。
トール、ロスチスラフとの密議の翌日、ルキウスは星間空間への帰路に就く前に、アリス・アイヴァースの元を訪れていた。
「お世話になりました――後、これ美味しいですね」
ルキウスは、湯気立つ紅茶を皿に戻しつつ礼を述べた。
向かいに座るアリスは、そう、と短く応えた後に紫煙を吐く。
――この悪癖は、出会った頃のままだな。
余計なお世話であろうと思い、ルキウスは忠告などした事が無い。
やがて朽ちる身なれば、悪癖のひとつぐらい有っても良いだろうとも考えていた。
アリス・アイヴァースが暮らすのは、ハイエリアの外れに位置する小さなアパートメントであった。
アールヴヘイム邸にて、成功者達が望むままに享楽を提供する館の女主人としては、些かに質素過ぎる住まいだろう。
「帰るのね」
彼女の部屋を訪れる事を許される者は数少ない。
今となっては、会計士、主治医、そしてルキウス・クィンクティのみである。
追憶と共に過去を遡れば、重要な一片のピースが欠けているのだが、その件については互いの間で禁句となっていた。
ゆえに、語るのは未来のみである。
「ええ。当面の目的は果たせましたから」
「ふうん――彼が――ベルニクのボウヤが――」
トール・ベルニクと会い、ルキウスは協力を取り付る事に成功した。
これまでの事績を調べ、尚且つ実際の人となりを確認して、容易に約を違える男では無いと判断している。
なお、ルキウスが頼んだ難事を引き受けるにあたり、トールが出した条件は二つあった。
――知人が、そちらさんに
襲われた場所が、ミネルヴァ・レギオンの握る宙域であったのは、不幸中の幸いだったろう。
生存率も高く、ミネルヴァなら信頼の置ける
そのような訳で、急ぎFAT通信を送ったのであるが、即座に届かない点が歯痒くはあった。
――後は――ちょっと、というか随分と厚かましいのですが――これの入手方法を教えてもらう事は可能ですか?
そう言ってトールは、照射モニタに漆黒のモノリスを映し出した。
球状の透明な容器の中で、モノリスが回転している。
――こ、これは――。
映像を見て、ルキウスですら一瞬肝を冷やしたが、考えてもみれば相手は
神官贈歌も無く
ロスチスラフから聞き及んだ通り、覇者たらんとする男なのであれば、
だが、しかし――。
――閣下、これを私に頼むという意味を……。
と、そこまで言いかけ、ルキウスは口を閉ざす。
隣に座る出会ったばかりの若者の瞳を見て理解する。
ルキウスの本心を、ひとりを除いて誰にも語っていない本心を、彼は見抜いているのだ。
なればこそ、グノーシスにとって核心的な要求を出したに違いない。
「いやはや、なかなかに食えない御仁でしたよ」
トールと交わした二度の密議を思い出し、頭を掻いて苦笑いをした。
「――あなたにそう言わせる人なの――面白いわね」
前回の彼女には、ロスチスラフとトールを引き離す役目があった。
その為、噂のトール・ベルニクという男と、言葉を交わす機会がほとんど無かったのである。
彼女にすれば、「ボウヤ」と呼びたくなる風貌の若者であったに過ぎない。
「ともあれ、これで安心です。心置きなく前へと進めます」
明るい声音で告げ、ルキウスが席を立つ。
「では、また――は、無理かもしれませんけど――。運が良ければ、再びお邪魔する機会もあるでしょう」
戸口へと向かうルキウスの背を見て、アリスはこれが最後なのだと悟る。
泣き言も、繰り言も、そして真実を伝えたところで意味など無い。
無我の覚悟を抱く男を前にしたならば、アリスのような女は黙って見送るべきなのだろう。
だが――、
「待って」
抑える事が出来なかった。
「ルキウス――お願い――」
常とは異なるアリスの声音に、少しばかり困った表情を浮かべたルキウスが振り返る。
「だか――」
彼は、この表情を他人に見せるのを嫌っていた。
「――ら――」
皮肉交じりであれ、笑いは生きる糧となり得るが、悲嘆と絶望は何も生まない。
――物事には常に明るい側面がありますから。
彼の口癖を思い出し、心密かに嘆息した後アリスは大きく息を吐いた。
「――だから、いい加減にその歯を直しなさい」
数舜前の動揺は、紫煙と共に消える。
「じゃないと――また来ても――」
ルキウスは片方の眉を上げ、
「次は会ってあげない」
笑声と共に、欠けた歯を見せた。
◇
ユピテル・レギオン総督のポンテオは、不機嫌の極みにあった。
「
「――も、申し訳ございません」
怯えた声音で応えた年若い女は、ポンテオの腰に当てた指先に力を込める。
女は薄衣だけを纏う艶めかしい姿であるが、足首は鋼の鎖で繋がれており、主人の機嫌を損ねれば、いとも容易く消される命である事を示していた。
「報告?何の報告だ――いや、歯抜けは戻ったのか?」
俯せになり顔を伏せたまま、ポンテオが尋ねた。
「オソロセアは出たようですが、そこからの足取りは不明です」
高温の蒸気で満たされた室内は、立っているだけでも額に汗が浮かぶ。
二角帽子を取って顔を扇ぎながら、ソルジャー姿の男が応えた。
とはいえ、ソルジャーの証しでもある反身の剣は、この部屋に入る前に取り上げられている。
猜疑心の強いポンテオは、自身のレギオンに仕えるソルジャーであったとしても、決して信用などしてこなかった。
さらに、手痛い敗戦の後、彼の猜疑心はより強くなっている。
「不明とは何だ。不明とはッ!」
報告に来たソルジャーが、二角帽子を被り直して頭を下げた。
「い、今は――星間空間でしょうから――そろそろ円環ポータルに出てくる頃合いかと――」
「ふん」
ポンテオが鼻を鳴らす。
――どいつもこいつも役に立たん奴らだ。
帝国最弱のベルニクに攻め入る――。
歯抜けのルキウスが唐突に出してきた積極策に、ポンテオは我先にと飛びついてしまった。
冴えない軍事力と、尚且つ無能な男が治める領邦である。
内部に裏切り者がおり、無能領主を暗殺する計画まで用意されていたのだ。
ルキウス嫌いのポンテオから見ても、負けるはずのない戦であった。
進歩派――などと
ところが――敗北、いや大敗を喫した。
貴重な
ベルニクの公式発表では轟沈とされていたが、後の調べで判明したのだ。
おめおめと逃げ帰って来た馬鹿共が、我が身の可愛さから、豪運だけが取り得のアホ領主に頼み込んだに違いない。
無傷の艦艇を置いてくるなど、敵前逃亡にも等しいではないか?
怒り狂ったポンテオは、全ての頸を刎ねようとしたのであるが、側近達に泣きつかれどうにか思いとどまっている。
財を取り上げ、妻子を質とする処罰に止めた。
他方、不知兵――つまり奴隷兵は皆殺しにしている。
そうでもしなければ気が収まらなかったし、傷付けられたポンテオの心が癒えなかったのだ。
彼が生まれたペルペルナ一族は、グノーシス船団国を体現する最古の氏族である。
ユピテル・レギオン総督ばかりか、女神ラムダを祀る大神官とて、ペルペルナ一族から輩出される習わしなのである。
グノーシス船団国において、まさに選ばれし一族なのだ。
――巡礼祭までには、この恥を
十年に一度開かれる大祭で、各氏族が首船プレゼビオに集う。
敗北に塗れたまま出向くなど彼の矜持が許さなかったし、何より次の執政官選挙に向けて足場を固める必要があった。
「――で、お前の報告とやらは、消息不明――とだけ伝えに来たのか?」
「ち、違います」
そちらが勝手にルキウスの話を始めたのではないか、と男は抗弁したかっただろうが、彼の妻子とて質に取られている。
ベルニクから生きて戻れはしたが、人生の意味が半分消えていた。
「遠方の客人が――そろそろ到着されます」
「ほう」
今現在、ポンテオの存念はひとつのみである。
――歯抜けは
その為ならば、唾棄すべき異端であれ手を結ぶと決めた。
「教皇に成り損ねた間抜け面――たっぷりと嘲ってやろう。ククク」
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