旧道の事故
第56話 習慣化の罰
# 習慣化の罰
朝早くのことだった。
時刻は8:05。『翼の守』が隠れ蓑にする大手食品メーカーは9:00始業なので、1時間ほど早い時刻となる。
渉外部特務課という、名前だけでは何をする課なのかいまいちピンと来ない名称の記された扉を開き、部屋の主。次長が入室する。
部屋には事務机が並ぶが、使用されているのは一番奥の席のみ。
次長はその席へと真っ直ぐ進み、据え置きのPCの電源をつけた。
その時、扉がノックされた。
鍵はかけていない。次長が返事をするより先に扉が開かれた。
入ってきたのは、一見地味でぱっとしない、平凡な顔をした女性。
服装も年齢相応――と言っても彼女の実年齢は次長も知らない。履歴書上では26歳ということになっている――で、トレンドに合わせながらも目立たないよう色調や露出を下げていた。
彼女は足音を立てずにすっと入室すると後ろ手に扉を閉め、鋭い視線を次長へと向けた。
次長は彼女の姿を認めてもPCの操作を続け、たまっていた決裁事項を承認する。
依頼した道明寺竜之介殺害は無事に達成された。
成功報酬の支払い処理を済ませてから、彼女へと声をかける。
「先日依頼した件についてはご苦労だったね。
報酬は今日中に支払われるよ。
それより珍しいこともあるものだね。
呼ばないと来ないものだと思っていたよ。しかもこんな時間に」
これは東京で雪が降るかも知れないな、なんて笑いかけてみるが、女性は笑わない。
「習慣化は人を殺しますから」
女性は短くそう告げる。
次長は返す。
「君は良くそれを言うけどね、習慣づけるというのは大切なことだよ。
人生というのは習慣化の連続だ。
何気ない習慣の1つ1つが、人生を形作っていると言っても過言ではないだろう」
「でもそれで死にたくはないでしょう?」
女性の声は冷淡で、感情のない落ち着き切ったものだった。
次長はもしかして彼女は自分を殺しに来たのかも知れないと勘案するが、直ぐにその可能性を捨てた。
彼女がその気になれば自分を殺すことなど容易い。
わざわざこんな風に目の前に姿をさらすこともないだろう。
とは言っても、要件を切り出してこないのは妙ではあった。
次長は彼女が本題に入らないのならと、会話を続ける。
「例えばどうしたら習慣化で死ぬのかご教授頂きたいものだ」
「では例を1つ」
彼女は次長の席の正面までやってくると、人差し指をピンと立ててそう言った。
次長が頷くと彼女は話を始めた。
「ある会社員がいたとします。
彼は平日毎日出勤します。たまに有給休暇を取得するかも知れません。
家を出る時刻、乗る電車はまちまちで、この点は必ずしも習慣化されていません。
しかし明確に習慣化されていることがあります。
会社の入るビルの1階はコンビニになっていて、その会社員は毎朝そこに立ち寄って、ある乳酸菌飲料を購入します。
それは毎回同じ商品。更に言うならば、陳列されている手前から2番目の商品を手に取ります。
会社員はそれを購入すると直ぐに飲み干し、コンビニのゴミ箱に捨ててから出勤します。
もしこの会社員の死を望む人間が居たとしましょう。
その場合、この習慣を利用すれば殺害は非常に容易です。
コンビニ前で会社員がやってくるのを待ち、彼がやってくるのが見えた段階で入店。例の乳酸菌飲料を手に取ります。
手慣れていれば片手で持った状態で、袖に仕込んだ注射器から毒を注入可能でしょう。
マイクロ針を使えば飲料の蓋に小さな穴が開いても素人では気がつきません。
指先で触れた程度では判別出来ませんし、飲料を軽く振った程度では漏れませんから。
毒を入れるのに5秒もあれば十分でしょう。熟練していれば2秒で事足ります。
それを陳列棚の手前から2番目に戻します。
後は店を出るだけです。
会社員は習慣に従います。
毒が入っているなどとは疑いもしません。
いつも通り陳列棚の手前から2番目の乳酸菌飲料を手に取り、購入すると直ぐに飲み干す。
ゴミはコンビニ内に廃棄されます。
遅効性の毒を使用すれば、何処で毒を盛られたのか足もつきづらいです。
殺し屋には身をくらませるための十分な時間がある。
――ほら、習慣化は人を殺すでしょう?」
次長は珍しく引きつった表情を浮かべて、それから苦笑しながら言う。
「君が他人の習慣を利用して人を殺す達人だというのはよく分かった。
たまには野菜ジュースを飲むことにするよ」
「それをお勧めします。
あなたを殺したいのは私だけとは限りませんから」
「はっはっは。面白いことを言うね。
君が私を殺すのかい?」
次長は冗談のつもりで言った。
だが女性の視線は相変わらず冷たく、次長を刺すように見据えていた。
「態度次第です。
私に依頼する対象のリスト。新しく作り直しましたね?」
「なんのことかな?」
次長は平然を装ったが、女性が一歩前に踏みだし、PCのモニタの向きを変えて自分と女性の間に遮る物が何もなくなるとそんな態度も取っていられなかった。
半笑いで誤魔化そうとするがそれも失敗する。
「とぼけなくて結構。
新しいリストですが早速流出しています。
雑誌記者の男が道明寺竜之介の名前が記載されたリストを所有していました。
どうして1度流出したリストを何の対策もなく作り直したのですか?」
彼女の言葉は冷淡で声に感情は込められていない。
されど彼女が怒っているのは容易に想像出来た。
そうでなければこうして直接苦情を申し立てになど来ない。
次長は降参を示すように両手を掲げて見せて、ため息交じりに告げる。
「対策はしたつもりなんだがね。
そうか、流出したか」
「何処から流出したか追跡する手段くらい備えているのでしょうね」
「もちろん。
それで、君が見たリストの詳細を教えて貰えるだろうか」
「残念ながら。
道明寺竜之介の名前が含まれていた以上の情報は得られませんでした」
次長はその回答に眉をひそめる。
「そうか。
となると特定は難しいな。
――いや、心配は無用だとも。直ぐに流出した事実を報告して関連部署に調べさせる」
次長は対応を述べたが、女性はそれだけでは納得しなかった。
「分かっていますか?
2回目の流出です。偶然は考えられません。内部に裏切り者がいます」
お前達に裏切り者を見つけ出し処分することが出来るのかと、脅迫じみた鋭い視線が突き刺さる。
次長はそれに対してなんとか普段通り、のらりくらりと回答した。
「なあに、秘密組織に裏切り者はつきものだよ。
それに我々も、そういった輩を好きにさせておくほど甘い組織ではないよ」
女性はしばらく次長を睨み続けていたが、それ以上の回答を引き出せないと分かると、半歩下がって腕を組んだ。
「ともかく報告ご苦労。
対応はこちらに任せてくれたまえ」
次長がそう返しても、女性は腕を組んだまま、帰ろうとはしなかった。
彼女は問う。
「来月には次の仕事を依頼するつもりですよね」
「ああ。君への依頼は月に1件という契約だからね。本当はもっと依頼したいのだが」
「それまでに、リストが何処まで流出していたのか確かめたい。
渡して頂けますか? こちらで確認します」
女性が右手を前に出すと、次長はかぶりを振った。
「そうは言われてもね。組織にとって大切な資料だ」
「2度も流出させておいて?
既に出回っている資料です。とても一流とは呼べない雑誌記者が持っていた時点で、かなり広くばら撒かれていると予想されます。
今更私に知られたところで何も問題は無いでしょう」
彼女は淡々と告げるだけだ。
暴力的な脅迫をする素振りは見せない。
あくまで話し合いに来たのだろうと次長は判断した。
「確かに一理ある。
しかし組織の資料だからね。わたしの一存で決められるものじゃない」
回答に、女性は間髪入れずに告げた。
「もちろんタダとは言いません」
女性は差し出していた右手をポケットに入れ、透明な瓶を取り出して見せる。
薬瓶らしきそれには、透明な液体が半分ほど入っていた。
ラベルなどはなく、一体それがどのような液体なのかは分からない。
「それは何だろうか? もしかして私に毒を盛るつもりかい?」
次長が冗談交じりに問うと、今日初めて女性が微笑み返した。
「まさかですよ。そんなことはしません。する必要がありませんから。
でもあなたはこれを欲しいと思いますよ。
――なぜならば今朝も、1階のコンビニで乳酸菌飲料を飲みましたよね?」
次長はそれだけで全てを理解した。
習慣化の罰だ。
彼女は先ほど説明した手段を使って、自分に毒を盛った。
遅効性の毒だ。さっき飲んだばかりだからまだ身体には何の異常もない。
しかし解毒剤を飲まなければ――
「ああ、そう来たか。なるほどね。
よく考えたら既に流出してる資料だし、これを秘密にする理由も無い。
紛れもなく君はこのリストの関係者であるし、私の一存で君に提供することに何の問題もないだろう」
次長は先ほどの発言を完全に取り消した。
リストの提出を拒む理由など、組織内での体面くらいしか理由がない。
命と比べたらそんなものは些細な物だ。
「そう言ってくれると思っていました」
女性は今度は満面の笑みを浮かべていた。
ぱっとしない印象の彼女でも、笑顔には華がある。
次長はその笑顔を直視できずに、そそくさとカバンからファイルを取り出して、そこから印刷された殺害対象のリストを抜き取った。
「まさか紙に印刷しているとは思えませんでした」
女性はリストを受け取ると笑顔を取り止め、真面目な表情でその内容の精査を始めた。
「デジタルデータは流出したら最後だからね」
「紙でも変わらないと思いますよ」
次長は何事か紙で保存することの利点を述べていたが、女性は気にすることなくリストの精査を続けた。
道明寺竜之介の名前がある。それ以外にも数人、女性でも知っているような著名人の名前が含まれていた。
直接仕事を依頼する次長が所有しているリストと言うことは、これは欠落無しの完全版と見て良いだろう。
女性はリストを折りたたむとポケットにしまい込む。
「それで、解毒剤はどう使えば良いのかね。普通に飲めば良いのだろうか?」
肝心な部分について後回しにされた次長が問う。
それに女性は首をかしげて見せた。
「何の話ですか?」
「でも乳酸菌飲料に毒を入れたのだろう?」
「まさか。私がそんなことするはずないですよ」女性は不敵に笑う。「これは砂糖水です。欲しければ差し上げますよ」
次長は完全に術中にはまってしまったと肩をすくめた。
「まんまとしてやられたね」
「何か問題でも?」
「いいや。ただ、リストの人間に勝手に危害を加えられては困る。
こちらとしても計画を立てて消しているからね」
女性はその意見を鼻で笑う。
「私がタダ働きするはずないでしょう」
「それを聞いて安心した」
「では失礼」
女性は砂糖水の入った薬瓶を机の上に置くと、くるりと踵を返して扉へと向かう。
しかし扉の元に辿り着くと再度次長へと向き直った。
「念のため伝えておきますが。
もしリストの人物が突然死んだとしても、それは事故死です」
リストの人間を殺すと宣言したに他ならない。
次長はその発言に対して笑って返した。
「そうか。事故死なら何も問題は無い。事故死ならね」
次長の許可も得られた。
女性はドアノブに手をかけ、直ぐには開かず、顔だけ次長の方へと向けた。
「――ああ、それと1つ」
「何かな」
次長が相槌を打つと、彼女は冷たい視線を向けたまま、冷淡に告げた。
「私なら乳酸菌飲料に毒は盛りません。
このフロアのコーヒーサーバーを使っているのはあなただけなので。
習慣化は人を殺します。
それだけ忘れずに」
次長は今度こそ笑うことも出来ず、口元を引きつらせて去って行く女性を見送った。
「肝に銘じておくよ」
渉外部特務課の事務室に、次長の言葉が虚しく響き渡った。
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