第46話 内定式の行動③
◆ 内定式の行動③
CIL新社屋に到着すると、正門で人事の鈴木に出迎えられた。
鈴木から観光について尋ねられたので、正直に空港を見て回ったと答えた。
しかしバスを降りた時点で宮本の顔色が良くなかったのが気がかりだ。
正面玄関を抜けエレベーターに乗ると目に見えてそわそわとし始めた。
薬が効くにはもう少し時間がかかるはずだったが、元々お腹が緩いタイプだったのだろう。
身体が丈夫ではなさそうだからと狙ったのだが、予想以上に弱かったようだ。
もう少し我慢してくれと願いつつ、彼女が鈴木にお手洗いを言い出しにくくなるよう、常に鈴木と宮本の間に位置取る。
エレベーターは4階に到着した。
4階東側のトイレ前を通過するが、宮本はトイレに行かなかった。
そのまま廊下を通り研修室へ。
研修室で簡単に説明を受け、待機を命じられたところでついに宮本は我慢できなかったのか手を挙げた。
「す、すいません。ト――お手洗いは?」
鈴木は宮本へとトイレの説明をする。
宮本は限界だったようで、荷物を抱えたままトイレへと駆け出していった。
とりあえず無事に4階西側のトイレに行って貰えた。本当なら別の人事が来てからのほうが都合が良かったけれど、まあ問題ないだろう。
鈴木が研修室を後にすると、残ったのは内定者3人。
一時的に人事の監視の目がなくなった。
こちらとしては犯行が不可能だった証明をして欲しいので人事には居て欲しかった。
しかし時間をかけると宮本がトイレから戻ってきてしまう。
宮本が確実にトイレにいる間に、やるべきことを済ませておくべきだろう。
どうせ人事の佐藤も直ぐに来るだろうし。
天野と豊福との会話が一段落したところで、私もトイレに向かう。
丁度管理ゲートを通ったところで、人事の佐藤と鉢合わせた。
彼女とも面識があるが、向こうは全く気がついていない様子だった。
「お手洗いですか?
あ、私、人事部の佐藤です。
ここで待っているのでどうぞ行ってきてください。急がなくて構いませんよ」
「ありがとうございます」
佐藤は率先して私の無実を証明してくれるつもりのようだ。
お礼を言ってトイレへと向かう。
トイレに入ると使用されている個室は正面の1つだけ。
宮本以外は居ないようだ。
私は右側手前の個室に入り、音姫を起動するとカバンからCIL社服を取り出し急ぎ着替える。
髪は後ろで1つに束ね、メガネを外す。
それから化学合成班用の防塵マスクをつけ、先日厨房から拝借した調味料入れをズボンのポケットにねじ込む。
トイレにスマホを設置し、時計を確認してから再度音姫を起動。
音が鳴っている間にそっと扉を開けて個室から出ると、扉の隙間にハンカチを挟んで閉まった状態で固定。個室が使用されているように見せかける。
洗面所に置かれたうがい用の紙コップを1つ拝借して、音を立てないように廊下へ出ると、十字路を素早く左に曲がった。
佐藤に顔を見られたが、こちらが内定者だと気がつかなかった。
社服を着ているのだから疑う余地はないと判断してくれたようだ。
廊下を真っ直ぐ進み、食堂倉庫へ。
周囲には誰も居ない。
ビニール手袋をつけてから倉庫の扉を軽くノックして、反応がなかったので中に入った。
内鍵をかけ、入って直ぐ左手にある冷蔵庫を開ける。
最上段に一升瓶ビールが鎮座していた。
栓抜きは倉庫内にあった。懇親会準備の始まる前なので、普段ほとんど使わない栓抜きは倉庫に保管されていた。
500円硬貨を栓に押し当てた状態で栓を抜く。これなら栓の上部は平らなままだ。
栓を開けたら、ゆっくりと傾けて紙コップにビールを適量注いだ。
減った分のビールの代わりに、調味料入れから濃縮した液状のラジレスを注ぐ。
ラジレスは〈翼の守〉がダミー企業として使っている食品メーカーの関連企業が、医薬品合成をやっていたのでそこから調達した。
〈翼の守〉がどうしようもなく阿呆でない限り足はつかないだろう。
栓を戻し、栓抜きで変形してしまった側面部分を倉庫にあったドライバーを使って成形。
ゆっくりと一升瓶をひっくり返して中身が溢れないか確認すると、そのまま3周ほど回してラジレスをビールに溶かした。
ラジレスを混入させた一升瓶ビールを元の位置に戻し、拝借した道具も返す。
廊下に人の気配がないのを確かめてから内鍵を開けて外へ。
廊下を少し歩いて食堂に入る。
食堂では職員達が清掃の真っ最中だった。
食堂職員の配置を確認。
誰の目にも見られて居ないタイミングを見計らって、マスクとビニール手袋を机と椅子の上に。
どちらも消耗品なので廃棄される。
その後、ラジレスの入っていた調味料入れも机の上に。
調味料入れは掃除の時間に回収される。空になっていれば洗浄されるので、こちらが手を触れずともラジレスの痕跡を消してくれる。
丁度、ツルさんが調味料入れ回収の最中だった。
食堂西側の出口から廊下へ。
念のため髪型を変え、足音を殺して移動。
十字路に差し掛かったところで早足に切り替え、一気に通り抜ける。
佐藤はこちらに気がつくのが遅れ、顔はほとんど見られなかった。
トイレに入る寸前、時計を確認。丁度トイレを出てから5分経とうとしている。
スマホのアラームが鳴る。アラーム音は音姫と同じに設定されている。
音が鳴っている間に静かにトイレへと入った。
宮本の個室はまだ閉まったままだ。
ハンカチを抜いて個室へと戻る。
スマホのアラームを止め、音姫を鳴らすと社服を脱いでスーツに着替えた。
脱いだ社服にはタグをつけ、ビニール袋に入れる。ビニール袋にはクリーニング業者の使うタグが貼り付け済みだ。
髪型を元に戻しメガネをかけると、荷物を全部カバンにぶち込み、紙コップに入ったビールをトイレに流して個室を出た。
宮本はまだ個室に籠もっていてしばらく出てきそうにない。
彼女には証人になって貰おう。
堂々と足音を立てて歩き、洗面所で紙コップをすすいでゴミ箱に捨てた。
トイレから出て十字路へ行くと佐藤が出迎えた。
彼女は管理ゲートを解錠するとこちらに問いかける。
「あのう、先にお手洗いに行った人は、まだ入っていました?」
「はい。まだ居ます」
「分かりました。
では研修室でお待ちください」
指示に従って研修室へ戻る。
佐藤はずっと管理ゲートの元に居た。
彼女は『岩垣ゆづきはずっとトイレに居た』と証言してくれるだろう。
それからも岩垣ゆづきとして行動する。
社長講話では標的の姿を確認出来た。
これで標的が懇親会に参加しないなどというトラブルは起こり得ない。
15:00からは社内見学。
1階の展示室に案内されて、そこで展示品を見て回った。
鈴木からお手洗いに自由に行って良いと説明があったので、タイミングを見計らう。
トイレに人が少ないタイミングで展示室から出る。
トイレに向かいつつ、周囲に人が居ないのを確かめるとKitakaを取り出す。
要するに北海道版の交通系ICカードなのだが、中身は偽造社員証。小田原の社員証のコピーだ。
Kitakaをかざして中央廊下に続く金属製の扉を開ける。
廊下に人が居ないのを確認。
今日は水曜日。時刻は15:10・
扉を開けて直ぐの台車置き場には、クリーニング業者から返ってきたプラダンが置かれている。
中にはクリーニング済みの社服。
カバンから取り出した社服を、扉の隙間からプラダンの中へ投げ込む。
これで後は小田原が分別して女子更衣室に運んでくれる。
展示室見学が終わると内定式。その後は社長談話。
1人ずつ社長に質問して回答を貰う形式で進行した。
ここで標的に気に入られるメリットはなにもない。
なので自己学習の進め方についてアドバイスを貰った。
この系統の質問に対して標的は興味を示さないはずだ。
技術や経営の話に触れると長くなって顔を覚えられてしまう。
豊福はそれを知ってか知らずか、開発した技術の収益化について問いかけ、それに気を良くした標的は長々と回答を続けた。
社長談話は長引き、16:40に終了した。
その時、秘書の平佐が標的に対して水と薬を手渡した。
包装を見てそれがアイミクスだと確認。
標的は目の前でその錠剤を飲み込んだ。
これで前準備は良し。後はビールを飲みさえすれば、標的の命は失われるだろう。
17:00。食堂に移動した。
内定者はステージ横に整列させられる。
一升瓶ビールには極力近づきたくない。宮本と一緒に、列の端っこに並んだ。
一升瓶ビールは栗原によって厨房に持ち込まれ、カウンターで海老塚が栓を開けた。
開栓の際に違和感はなかったようだ。
海老塚はなに1つ疑うことなく、一升瓶ビールをステージ前テーブルに運ぶ。
懇親会の挨拶が終わり、いよいよ乾杯の準備となる。
内定者達はステージ前のテーブルに集まった。
一升瓶ビールは技術部長の米山によって標的のコップに注がれる。
米山は連日標的から叱責を受けている。第一容疑者としては適任だ。
彼はそのまま内定者達にもビールを勧めた。
岩垣ゆづきは高専生で20歳に満たないので、ビールの勧めを完全に無視して鈴木からお茶を貰った。
始終ビールとは距離を保ち、乾杯の準備が整うと再度整列する。
営業部長の幹が乾杯の音頭を取った。
コップを掲げ、その後宮本とコップを合わせる。
佐藤と他の内定者とも乾杯したが、標的との距離は保ち、絶対に接触しないよう心がける。
標的は豊福、天野と乾杯し、それで満足したのか、その場で豊福達と話し始めた。
彼はビールにも口をつける。
ずっと待ち望んでいたのか、あっという間にコップ一杯飲み干してしまった。
こうなれば、倒れるまでそう時間はかからない。
低血圧症の発症。それから脳卒中。
倒れる瞬間には標的との距離を取っておきたい。
何か切っ掛けはないかと伺っていると、鈴木が内定者に声をかけた。
「マグロ食べたい方はこちらへどうぞ」
これ幸いと、宮本と一緒にマグロの列へ足を向ける。
鈴木が人事部の特権を使い社員を列から排除したので私たちは一気に最前列へ。
目の前でマグロが捌かれ、その一番美味しい部分がお寿司となって差し出される。
皿一杯にお寿司が載せられるとその場を離れた。
鈴木が人事部長と話しに行ったので、私は宮本と1つ外れた位置にあるテーブルへと向かってそこでお寿司を食べた。
寿司の味は上々だった。
ちゃんと良いマグロを仕入れている。
本当にCILは社員思いで良い会社じゃないか。
宮本と「美味しいね」などと他愛ない言葉を交わしていると、小田原がやって来た。
彼女はどうも宮本のことを気にしているようだ。
小田原と、寿司と豚肉を交換する。
豚肉は味噌で味付けされていて、ちょっと味は濃いめだがなかなかに美味しかった。
本来の目的も忘れて食事を楽しんでいたのだが、女性の――天野の短い悲鳴が聞こえると現実に引き戻される。
標的のしゃがれた呻き声が響き、彼はその場でゆっくりと座り込んだ。
顔は真っ白でみるみる血の気が引いていき、ひしゃげたように顔の半分が歪む。
明らかな脳卒中の症状だ。
標的は一度脳卒中を発症し治療している。
その時は無事一命を取り留めたが、脳に負った傷が完治することはない。
ギリギリのところで保っていたバランスが、降圧薬の多量摂取によって崩されたのだ。
後はもう転げ落ちるしかない。
事前調査段階での直感では死亡率80%かなといったところだったが、今の苦しみ方をみるにこれはもう助からない。
産業医が駆けつけ、救急の指示をもらいながら処置を施し始めた。
されど心肺停止。AEDの使用に踏み切った。
脳卒中状態の患者は絶対安静。それでも心肺停止すればAEDを使用せざるを得ない。
だが心臓が動きを取り戻したとしても、脳に致命的なダメージを負うことになる。
既に標的の命は底の底まで転がり落ちていた。
救急車が到着し、標的は担ぎ出されていった。
既に心肺停止から5分。
この場合の救命率は4分の1ほど。
それが高齢で、脳卒中の病歴がある人間ならば、救命率は更に下がる。
最早、標的が息を吹き返す可能性など考慮しなくて良いだろう。
仕事は完了した。
後は無関係を装い続けるだけ。
宮本が放心して顔を真っ青にしていたので、彼女を介抱して小田原と共に離れた場所まで連れて行った。
以降はそこから離れない。
ラジレスの混入したビールを飲んだ数人が低血圧症を発症するかも知れない。
その場合、警察に連絡が行く可能性がある。
だが捜査の手が内定者に向くのは、社内の人間に対する捜査が終わった後。
その頃岩垣ゆづきは北海道だ。
彼女に直接連絡が行けば入れ替わりが露見するだろうが、その連絡はしばらくいかないか、もしくは永遠にされないか。
この状況で、一体誰が内定者による犯行を疑うだろうか。
内定者にはCIL社長を殺害する理由がない。
一升瓶ビールが提供されることも、社長がそれを毎回飲むことも、彼に脳卒中の病歴があることも、アイミクスを処方されていることも知る術が無い。
社服も社員証も持たず、犯行実現性はゼロ。
警察が内定者に連絡するとすれば、事件の状況確認のためくらい。
それならわざわざ北海道の岩垣ゆづきに連絡する必要性は低い。
岩垣ゆづきはずっと宮本と一緒に居たのだ。
岩垣が見た物は宮本も見ている。
地元出身の宮本ならば聴取も簡単だ。
だから岩垣ゆづきへの聴取がされる可能性は低い。
仮にされたとして、誰が入れ替わっていたのか、辿る手段はその頃には消え失せている。
私は――内定式に参加した岩垣ゆづきの偽物は、誰にも捉えられない。
事前準備に手間はかかったものの、終わってみれば簡単な仕事だった。
――警視庁組織犯罪対策部の連中が来るまでは、そう考えていた。
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