第43話 反省会⑥
◆ 反省会⑥
翌週水曜日。
15:00にはクリーニング業者が来て洗濯済みの社服を返却する。
その社服は16:30までは1階廊下の台車置き場に放置され、それから分別が行われる。
それが小田原の習慣で、時間が大きくずれることはない。
これを利用しない手はないだろう。
返却された社服の状態をどうしても確認しておきたかった。
16:35。1階に降りると案の定小田原は窓口にいなかった。
管理ゲートから廊下側を覗くと、彼女は男性社員と2人で社服の仕分けを行っていた。
扉をノックしてこちらの存在を伝える。
すると小田原は振り返り、駆け足でやって来て管理ゲートを開けた。
「すいません。栗原さんからお使いを頼まれて。
今日の納入の時、小田原さんのボールペンを借りてそのままだったみたいで」
実際は搬入の時に私がくすねたのだが、細かいことはどうでもいいだろう。
「ありがとうございます。
納入の時だったんですね。ないなーとは思っていたんですよ」
「ボールペンがなくて困りませんでしたか?」
「文房具は会社が支給していて、サポートにはたくさん在庫がありますから」
「至れり尽くせりですね。
でもまだ使えますから」
「はい。無駄遣いは出来ません。最後まで大切に使います」
小田原は差し出したボールペンを受け取った。
ちらと仕分け中の社服を見る。
社服は個別にビニール袋に梱包されて、袋に白い紙のタグが取り付けられている。
タグに書かれた数字とアルファベットは、社服に取り付けられたタグの内容と一致しているようだ。
確認したいことは分かったので、小田原に別れを告げて4階食堂へと戻った。
◇ ◇ ◇
金曜日の夕方。
早番だったため夕食の準備を終えると退勤となる。
着替えを終えて1階まで降りていくと業者用玄関に社服の入ったプラダンが放置されていた。
小田原の姿はない。
サポート社員は事務室に居るようだが、窓口側に背を向けて仕事をしている。
こっそり社服を1つ拝借する。周りに誰も居なかったのでサイズを確認する余裕すらあった。
クリーニング業者は遅れているようだ。
それはまあ、トラックの荷室内でインクがこぼれているのが発覚したのだから遅れるだろう。
朝方細工をするのは造作もないことだった。
それより小田原に離席して貰う方が大変だった。
電気や水道系統の呼称だとサポートではなく設備保守部門へ連絡が行ってしまう。
いろいろ考えた結果、リフレッシュルームに設置されているマッサージチェアを故障させることにした。
夕方、異常に気がついた社員がサポートに連絡し、案の定一番若手の小田原が対応に向かった。
と言ってもメーカーに連絡するだけだろうが、ともかく彼女を1階のサポート事務室から引き剥がせた。
社服の上下を1点ずつ回収すると、それをカバンに詰め込んでそのまま退社する。
行動は月曜日からだ。
◇ ◇ ◇
土曜日は予定通り小田原とアウトレットへ。
もう十分彼女には役に立って貰った。
これ以上仲良くなる必要はない。
だからといって嫌われるわけにもいかない。
事件後警察が来たとき、私のことを万が一にも怪しい動きをしていたなどと報告されては困る。
決して嫌われず、されど今以上に好かれない距離感を保つ。
買い物は概ね満足だった。
服を買い換えたいのは事実だったし。
ただ内川の設定上の年齢と、小田原と一緒の買い物だったこともあり、実年齢よりも若い雰囲気の服ばかり買ってしまった。
たまには若い格好をしたくなる日もあるし、変装にも使えるからきっと無駄にはならないだろう。
◇ ◇ ◇
月曜日。
いよいよ社内を自由に動き回れる。
勤務中は食堂の仕事に専念し、夕食営業を終え片付けを済ませた後、行動を開始する。
4階トイレの個室で、調達した社服へと着替える。
それに食堂に放置されていた防塵マスクを着用。合成班の社員は普通にマスクをつけたまま社内を歩き回っているので不自然にならない。
髪型を変え、カラーコンタクトをしてメガネをかける。
ここまでやればもう誰にも私が内川綾乃だと分からない。
顔を覚えられないことに関しては自信がある。
まず手始めに4階の調査。
廊下を西側へ進み研修室へ。
研修室は使わない日には鍵がかけられるようだ。
物理的な鍵なので小田原の社員証ではどうにもならない。
ピッキングツールは持ってきたが、わざわざ変な痕跡を残してまで調べたくはない。
侵入の必要は無しと判断して、当日使うであろうルートを確認する。
社員証は管理ゲートを廊下から研修室側へ移動するのに必要だ。逆側は必要なく、ボタンを押すだけで解錠出来る。
管理ゲートから直ぐのところに十字路があって、そこを曲がるとトイレが。
女子トイレに入ると個室は7つ。
全ての扉が開いていた。
鍵がかかっていない限り、扉は開きっぱなしになる機構のようだ。
だから中に人がいるかどうかは一目瞭然だ。
適当な個室に入ってみる。
排泄音を誤魔化すための音姫が設置されていて、手をかざすと水の流れる音が響いた。
音のパターンを記録しておく。
扉の構造を確かめる。
扉を閉めて、間に何か挟めば鍵をかけなくても扉は閉まったまま。つまりぱっと見では誰かが中に入っているように見える。
トイレを後にしてもう1度管理ゲートの元へ。
食堂倉庫まで結構距離があった。
ここからだと、食堂倉庫に誰が入ったのかよほど注視していないと分からない。
それどころか、奥の階段への管理ゲートを通ったのと区別もつかなそうだ。
図書館側の通路は特に確認する必要なし。
食堂に通じていて、売店を利用した社員なんかがよく通る通路だ。
ここから食堂へ行くにも戻るにも、社員証は不要だ。
廊下を横断し、東側階段を下って3階へ。
既に夕食営業も終わる時刻。
残っている社員は少なかった。
特許事務室の管理ゲートに偽造社員証をかざす。
小田原のIDで問題なく通れた。社内便回収をしているのだから、各事務室に入れるのは当然だった。
社長事務室は無人。
人目がないのを確認してから侵入。目立たない位置に盗聴器を仕掛ける。
秘書室にも入りたかったが、そちらの扉は管理ゲートになっている。
流石に秘書室の扉は、小田原の社員証では開かないだろう。
特許事務室に併設された会議室にも入りたいが、大きい方は管理ゲートになっていた。
小田原の社員証で通れるかどうか自信がない。失敗したら妙な履歴が残ってしまう。
危険を冒すのは辞めて1階へ。
小田原はもう帰っていた。サポート事務室は無人である。
特にサポート事務室から調達したい情報もないのでスルーして廊下へ。
廊下の台車置き場を確認しておく。台車は2台、所定の位置に置かれている。
その隣、正面玄関側へと繋がる金属製の扉を開ける。
正面玄関前のホールは明かりが消されていた。
真ん中に鎮座する恩師像の背中が異様な雰囲気を放っている。
直ぐ右手にトイレがあった。少し進むと、展示室の案内が見える。
内定式のしおりによると、この展示室には内定者が15:00から見学にやってくる。
展示室からトイレまでは直ぐ。社員証もいらない。
一通り確認は終わった。
4階トイレに戻り社服を脱ぐ。マスクも外して変装をとくと、内川綾乃として何食わぬ顔で退社した。
◇ ◇ ◇
火曜日。
髪で隠してイヤホンをはめたまま仕事をした。
イヤホンからは盗聴器の音声が聞こえる。
標的は10時頃出勤してきた。その後秘書と仕事の話をして、会議のため部屋から出た。
戻ってきたのは11時頃。
秘書に対して、食品事業の報告がいい加減すぎると愚痴を放っている。
秘書は愚痴に付き合わされて困っているようだ。
その後、外部役員と昼食をとるとのことで、11:30に社長室をあとにした。
食堂にも喫茶室にも来なかったので外食だったのだろう。
戻ってきたのは14:00頃だ。
知財部の部長を呼び出し、しばらく話をしていた。
特許の出願件数が気に入らないらしく、食品関係でもっと出すようにと指示していた。
そして技術部長と人事部長を呼び出す。
彼らに食品事業の遅れを指摘し、技術部長へは遅れを挽回し、収益化を早めるために特許出願を加速するよう指示を出す。
人事部長へは食品事業へと人を何人か移動させて遅れを取り戻すように指示した。
しかし標的は以前に、食品事業は遅れているから特許出願を抑えるようにと指示を出していたらしい。
それを技術部長が指摘すると「それで収益化が遅れたらどう責任をとるんだ」と怒りだした。
部長達は辟易としているようだが、標的の指示は絶対のようだ。
指示通りにする方針で了承した。
部長達が退出すると電話をかける。
電話先は幹。――営業部長らしい。
会話の内容は、自宅のテレビの調子が悪いから見てくれ、というものだった。
そんなことを営業部長に依頼するのか。
意外な指示にびっくりしてしまった。
その後も仕事の指示をあれこれ出していると、16時頃、秘書がやってきて「今日の分です」と何かを渡した。
書類かと思ったが、どうやら薬のようだ。水も一緒に渡すと、標的は薬を服用する。
薬を飲むのは16時で決まっているのだろうか?
明日には社服を返さないといけないので、盗聴器は今日のうちに回収することになる。
16時に薬を飲むのが、習慣的なことなのか、今日だけのことなのか判別がつかない。
しかし秘書が薬を渡していることは分かった。
これならうっかり薬を飲み忘れたりしないだろう。
そして標的は、自身が運営に関わっている財団の業務があるそうで16:30には退社した。
盗聴の結果として、部長達であれば標的に対して殺意を持ったとしてもおかしくなさそうだった。
少なくとも殺意があったのではないかと、確認が必要だ。
これならば毒殺されたとしても、警察の初動調査を部長達が引き受けてくれる。
その間に私は捜査の手の届かないところまで逃げおおせるだろう。
薬に関する情報が得られたのも大きい。
秘書ならば決行当日も忘れずに薬を渡してくれるに違いない。
盗聴器は業務終了後に回収した。
社服は帰宅後に洗濯して、元々ついていた識別用のタグを付け直し、ビニール袋に入れてクリーニング業者の張っていたのと同じ紙を貼り付けた。
◇ ◇ ◇
翌日水曜日。16:00。
早番で上がり1階業者玄関へ向かう。
誰もいなければ偽造社員証で廊下に出られたのだが小田原がいた。
エレベーターが4階にいるのを確認してから、一旦外に出て直ぐに小走りで戻る。
エレベーターのボタンを連打し小刻みにステップを刻んでいると、気がついた小田原から声がかかった。
「トイレでしたら1階のを使って下さい」
彼女は廊下に繋がる管理ゲートを開けてくれた。
礼を言って管理ゲートを通り抜け、そこから彼女に示されるまま廊下を真っ直ぐ進み、左手のトイレに入った。
少し時間をあけてから業者玄関へと戻る。
途中、台車置き場に放置されていた洗濯済み社服の詰まったプラダンへと、拝借していた社服を返却する。
管理ゲートを抜けてから窓口で小田原に再度礼を言った。
「助かりました」
「いえいえ。
別に食堂職員さんは4階のトイレだけを使わないといけないなんて決まりはありませんから。
ちなみに2階にもトイレはあるので、階段上がって勝手に使って頂いても構いませんよ」
「そうなんですね。
小田原さんが居ないときは、使わせて頂きます」
繰り返し礼を述べて退勤する。
無事に社服を返却できた。
金曜にもう1度拝借する必要があるが、まあ上手くいくだろう。
◇ ◇ ◇
金曜日。
内川綾乃の最後の出勤日だ。
出勤して直ぐ、来週の発注内容を確認しておく。
一升瓶ビールはリストにあった。
栗原に保存場所について食堂倉庫の冷蔵庫で保管すると確認をとっている。
最終日は遅番だったので夕食営業まで働くことになる。
なので夕食準備が一段落した段階で、1階業者玄関へ社服を回収しに行った。
クリーニング業者を遅延させるのも、小田原を離席させるのも慣れたものだ。
夕食営業終了後、契約最終日の確認のため、食堂倉庫で栗原から渡された書類にサインした。
食堂の制服と、業者用入館証を返却する。
事務的な手続きを終えると、ツルさんが倉庫の冷蔵庫からケーキを持ってきた。
「内川さんが居てくれて本当に助かったわ。
一緒に働いてくれてありがとうね」
「わあ、ありがとうございます!
たった3週間しか居なかったのに」
「短くとも、君がとても仕事熱心で真面目だったのは間違いない。
出来ることならずっと居て欲しいくらいだ。
でも10月から新しい仕事なんだろう。せめて送り出させてくれ」
栗原も体格に見合わぬ優しい言葉をかけてくれる。
「ありがとうございます。
私、次の職場でも頑張ります」
「内川さんならきっとどんな職場でも上手くいくわ。
自分に自信を持って。
あなたと働いていると、みんな仕事が楽しくなるのよ」
最年長のツルさんにそんな風に言われるのは素直にとても嬉しかった。
本当に、CILの食堂は良い職場だった。
惜しむべきは、この素晴らしい職場をこれから滅茶苦茶にしなければならないことだろう。
こればっかりは、私の仕事柄仕方がない。
ささやかな送別会を終えて、ツルさんと栗原さんに送り出される。
最後に忘れ物がないか厨房を見てくると言って、調味料入れを1つ失敬した。
その後、再度2人に別れを告げて業者玄関へ。
1階に降りると、サポート窓口の明かりがついていた。
小田原が窓口の元に立っている。
「内川さん。3週間お疲れ様でした。
CILとの契約も終了となりますので、こちらの書類にサインをお願いします」
小田原は書類を並べる。
契約の終了に関する物と、秘密保持に関する物。
どちらにも手早くサインした。
「小田原さん、いろいろありがとうございました。
短い間ですが楽しく仕事できました」
「それは内川さんのおかげですよ。
食堂の皆さん、内川さんは居るだけで雰囲気が良くなるっておっしゃってましたよ。
仕事も真面目だって」
「真面目、だったでしょうか?
いくつかCILの決まりを破ってしまった気がします」
小田原の事務席を見て言うと、彼女は笑った。
「大丈夫。
私と内川さんだけの秘密です」
「そうですね。約束ですよ」
イタズラっぽく笑うと、小田原は綺麗に包装された小さな箱を手渡した。
「開けても良いですか?」
「帰ってから開けて下さい」
「今開けたいです」
微笑むと、小田原は「仕方ないですね」と頷く。
包装を丁寧に解いて箱を開けると、中にはパスケースが入っていた。
「あまり高価な物は買えなかったのですけど、新しい職場では電車通勤すると聞いたので」
「とんでもないです。本当に嬉しいです。
大切に使わせて頂きますね」
小田原からの贈り物は言葉通り嬉しかった。
たった3週間でここまでの信頼を得られるのだ。
それが分かっただけでも儲けものだ。
何も返せないのだけが悔やまれる。
「返す物がなにもなくて申し訳ないです」
「気にしないで下さい。
アウトレットに連れて行ってくれたお礼ですから。
新しい仕事、頑張って下さいね」
「はい、頑張ります。
病院も、CILみたいに素敵な職場だと良いですけど」
「駄目だったらCILに来て下さい。
CILは中途社員をほとんど採りませんけど、サポートは別会社ですから。
私から社長に推薦します」
「何かあったら頼りにさせて貰うかも知れません」
はにかんで返すと、小田原も笑みを浮かべた。
長居していたらきりがない。
小田原に何度か礼を言った後、別れを告げてCILを後にした。
本当に。
本当に良い職場だった。
どうして私はこの職場をぶち壊すような真似をしなければならないのだろうか。
それが仕事だからと言われればそれまでなのだけど。
――だから何時だって、新しい職場は憂鬱なんだ。
帰宅して荷物を整理する。
時計を確認。
時刻はギリギリだが、まだ最終便には間に合いそうだ。
着替えを済ませて鉄道に飛び乗る。
やっておかなければならないことがある。
さあ、行こうか。北海道へ。
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