第35話 その後の捜査記録①
◆ その後の捜査記録①
鑑識による調査の結果、翌日までにいくつかの事実が判明した。
一升瓶ビールからはラジレスが検出された。懇親会で用意された紙コップにビールを注ぐと、コップ1杯でおおよそ通常処方量の4倍となる量が混入されていた。
この事実から、人前で大量のラジレスを一升瓶に入れるのは不可能だろうと結論づけられた。
一升瓶から検出された指紋には問題が認められなかった。
残っていた指紋は全て、一升瓶ビールを触ったという証言のある人間のものだった。
また、食堂内の他の飲料や料理からは一切ラジレスが検出されなかった。
未使用の紙コップについても同様で、ラジレスが塗布された物は存在しない。
ラジレスが混入されたのは唯一、一升瓶ビールのみだ。
そして営業部長の幹が処方されていたラジレスと、一升瓶に混入したラジレスは同一ではないと鑑定された。
一升瓶ビールに混入されたラジレスは錠剤を砕いた物ではなく、化学的な手法で有効成分だけを抽出したもの。もしくは化学合成によって1から産み出された純粋な薬品だ。
ラジレス以外にも、山辺社長が服用したアイミクスの調査もなされた。
秘書の平佐が管理していたアイミクスには一切の細工が認められなかった。
山辺社長の遺体から検出されたアイミクスの量は、おおよそ通常処方量と一致した。
つまりアイミクスにはなにも問題は無かったことになる。
その他、食堂復帰者である沢水のDNA鑑定結果は、当然ながら彼女が以前からCIL食堂で働いている沢水であることを示した。
直近、大腸炎での入院時の採血結果とも矛盾しない。
沢水が別人に入れ替わっていた説は完全に否定された。
そして鑑識の夜を徹した作業の結果明らかになった事実として、監視カメラに不審人物は映っていなかった。
CIL新社屋の出入り口4カ所。すなわち正面玄関、社員玄関、業者玄関、裏口に設置された監視カメラ映像を確認したところ、通過した全員の身元が特定された。
それは全員CILの社員、および関連会社、もしくは招待された内定者であり、部外者の侵入は認められなかった。
◇ ◇ ◇
CIL新社屋4階。
研修室近くにある控え室で、刑事の小林は捜査資料を睨んでいた。
事件発生から一晩経ち、今朝からも捜査を進めていた。
CIL新社屋4階は静かなものだ。
4階は社員も食堂職員も立ち入り禁止とされて、食堂は当然営業停止。職員は旧社屋食堂へ出勤して仕事をしているらしい。
懇親会の料理は流石に腐るので片付けられたが、多くは昨日の状態のまま保存されている。
小林は頭を悩ませる。
組対に捜査に介入されることについて小林は許容した。捜査の手が増えるのは良いことだ。
それに向こうは外部犯を調べている。こちらの捜査とはぶつからない。
しかしながら所轄の上層部はそうは考えなかった。
警視庁による管轄侵害だと怒りを露わにしている。
その結果小林は、絶対に内部犯である証拠を見つけ出し、組対を早急に追い出せとの厳命を受けた。
下らないと切り捨てたいが、上からの命令は絶対だ。
内部犯であるという証拠を見つけ出さなければいけない。
だというのに、半日捜査を続けても全く進展がなかった。
ラジレスが食堂倉庫内で混入されたのはほぼ間違いないだろう。
しかし食堂倉庫に侵入する不審者を目撃した証言は得られなかった。
小林は基本に立ち返り動機の線を追った。
内部犯であれば、必ず強烈な殺意を持つ人間がいたはずだ。
だが昨日の聴取で分かっていたことだが、誰も彼も山辺社長という人間に対して、愚痴を言えども殺意までは持ち合わせていない。
人事部長の松ヶ崎は、人事異動の仕事を多く振られていたがそれは社長を殺す理由にはなり得ない。
技術部長の米山は、進捗について叱責されることが多かったものの、詳しい聞き込みの結果その叱責は昔より随分とマシになっているらしい。
それに米山は害者とは30年来の付き合いだ。今更殺意を抱くとは考えがたい。
営業部長の幹は社長の個人的な仕事をさせられてはいたが、本人は信頼されていると感じていた。営業部や旧所属部署でも聞き込みしたが、その通りらしい。彼は社長の私事にかり出されるのを嫌だとは感じていなかったようだ。
秘書の平佐は害者に対する恨みがない。
小林はもしかしたら害者から肉体関係を迫られたのではないかと可能性を探ってみたが無駄足だった。
害者は妻に一途で、結婚して50年以上たつが女性関係のトラブルは一切ないとのこと。
食堂職員についても動機は見つからない。
害者と食堂業者の間でのトラブルは一切無し。リーダーの栗原以下、全員に動機が存在しなかった。
社長夫人についても、先述の通り家庭環境は良好。
一人娘は結婚済みで、今は特許庁の重役と都内に住んでいる。
そちらも家庭に問題なし。仲良くやっているようだ。
そして害者家族も娘夫婦家族も、ご近所トラブルは無し。どちらも高級住宅街に住んでいて、優雅な生活を送っているようだ。
特許係争中の大学については調査中だが、どうにもこの線も可能性は薄そうだ。
既に判決は決まったような物で、今更害者を殺害したところで誰も得しない。それにCIL側の要求は些細な物だ。
医薬品の合成を取り止めろとも、過去に遡って使用料を払えとも言っていない。
ただ今後も量産において特許された合成方法を使うのであれば、使用料を支払うべきだと主張しているだけだ。
と言うわけで、動機の線からの捜査は空振りに終わりそうだ。
となれば犯行実現性を追うしかない。
まずはアリバイの裏取りから。
犯行が可能だったのは、一升瓶ビールが納入された10:30から食堂に持ち出される17:00まで。
だが実際には昼食前後や懇親会準備が本格化してからは食堂前の廊下に常に人がいる状態であり、とても倉庫に侵入して薬は混入できなかった。
それが可能なのは食堂職員だが、彼らについては一時除外する。もし全ての可能性を追って尚容疑者が現れなかった場合、彼らを疑うことになるだろうが今はその時ではない。
となると犯行が可能だったのは納入から昼食前の10:30から12:00。
そして昼食後食堂職員が総出で掃除をしていた13:00から15:00の間となる。
しかしながらこの間は、疑わしい人物全員にアリバイがあった。
細かい聞き込みの成果と言っても良い。役員達はもちろん、秘書のアリバイも成立した。
彼らは全員証言通りの行動をとっていて、食堂倉庫に侵入する時間などなかった。
止むなく小林は力業での捜査に打って出た。
松ヶ崎から提供された社員証情報。
これは管理ゲートにかざされた社員証情報のデータベースだ。
データベースを参照することで、誰がいつ何処にいたのか、大まかな位置が分かる。
もちろん、通過した管理ゲート全てに履歴が残っている訳ではない。
既に誰かが管理ゲートを開けた直後であれば、社員証をかざさなくても通過できてしまうからだ。
それでも大まかな位置が分かるだけでも行動を追うことは出来る。
手始めに“小田原千絵”の名前で検索をかけてみる。
日付を10月1日に設定し、事件当日の小田原のゲート通過履歴を表示させた。
例えば、彼女は10:28に『1F業者玄関-中央廊下』のゲートを通過しており、その直後『1Fサポート事務室』のゲートを通過している。
これは彼女が食堂倉庫への搬入を終えて、事務室へと戻ったとき10:30になる前だったとの証言通りの記録だ。
その後の記録を見ると、彼女は新社屋中の事務室を巡っている。
証言では10:30が社内便の回収時刻だったとのことなので、この行動は証言と一致している。
更に午前中には3階の旧社屋社員用ロッカーにも足を運んでいる。これも証言通り。
彼女が新社屋へやってくる旧社屋所属社員のための準備をしていたのは間違いない。
彼女の昼以降の社員証使用履歴は以下の通り。
『12:22 1F業者玄関―中央廊下
12:22 1Fサポート事務室
12:31 社員玄関
14:15 社員玄関
14:16 1Fサポート事務室
14:37 2F東側階段―資材・経理部
14:37 2F資材調達部事務室
14:40 1F正面玄関―中央廊下
14:40 1F電子開発室
14:44 1Fサポート事務室
14:50 業者玄関
14:53 業者玄関
14:55 1Fサポート事務室
15:14 1F正面玄関―中央廊下
15:29 業者玄関
15:36 1F業者玄関―中央廊下
16:28 1F業者玄関―中央廊下
16:48 1F女子更衣室
17:09 4F東側階段―中央廊下 』
12:31に社員玄関を出たのは内定者を迎えに行くためだ。14:15に戻ってきたのも証言と一致。
14:30過ぎに資材調達部や電子開発部に行った記録がある。事務仕事だろうが内容は証言になかったはずだ。念のため確認が必要かも知れない。こういった場合は小田原よりも訪問先の部署の人間に聞いた方が確実だ。
ルートは特に問題ないだろう。
東側階段で2階へ上がり、そこから資材・経理部のある区域へ。そこから螺旋階段で1階に下りで、『1F正面玄関―中央廊下』のゲートをくぐり電子開発室へ。
ゲート通過履歴から容易に彼女の足取りを予想できた。
14;50頃に業者玄関を出入りしているのはクリーニング済みの社服を受け取るため。
その後、15:30に宴会業者がやって来て再度業者玄関へ。
記録にはないが、証言通りならこの後4階で懇親会の準備をしていたはずだ。
16;30頃に1階にいたのは、クリーニング済みの社服を男性社員と一緒に分別して、女子更衣室へ運び込む業務のためだ。
そして最後の17:09の履歴は、彼女の「社長の挨拶が終わったタイミングで食堂に入った」という証言と一致する。
こういった具合で、管理ゲート通過履歴を参照することで、対象者の行動を推測できる。
問題は1人1人確認する手間がかかることだが、やむを得ない。
されど時間をかけて役員達の行動を確認してみても、彼らの証言と矛盾する行動履歴は確認されなかった。
同じく、人事部の鈴木と佐藤についても、証言内容から外れるような移動履歴はなかった。
小林はデータをいろいろと調べてみたが、意味のある履歴を見つけ出すことは出来なかった。
それからデータを組隊へと提供すべきかどうか思案する。
上司は絶対に組対側への情報提供など許さないだろうが、小林としては組織の面子より事件解決を優先したいという思いがあった。
問題はこのデータが大森達にとって有用かどうか。
そう考えると有用性は低いと言える。
何故なら組対が疑っている内定者についてはデータが存在しないのだ。
なにしろ内定者に社員証は貸し出されなかった。彼らは常に同伴していた鈴木と佐藤によって管理ゲートを通過していた。
小林はざっくりと調べてみる。
所属部署に『外部派遣(新社屋食堂)』を指定して検索。
食堂職員の履歴が表示されるが不審な点は無い。
彼らは基本的に4階東側階段と中央廊下を繋ぐ管理ゲートを通るだけだ。
それはトイレに行くときに通過する箇所で、特に頻度が高い人物がいるわけでもない。
唯一の例外は食堂リーダーの栗原が1F業者玄関から中央廊下へと通ろうとして『通過許可なしエラー』となった履歴だが、これは業者の社員証では研究区域には入れないことを示すために松ヶ崎が小林達に見せたものだ。
更にこれは当然のことなのだが、先週で退職した臨時食堂職員の内川に至っては、先週末を最後に履歴はない。
最後の履歴は『社員証情報削除処理確認用(新社屋サポート)』となっていて、これ以降内川が使っていた社員証は無効化されたと分かる。
日付の条件を削除して内川の在職中の履歴をざっと見てみたが、通過したのは『4F東側階段―中央廊下』の管理ゲートのみだ。
これについても通過頻度に異常な点は見られない。
結局このデータは、内部犯説・外部犯説のどちらにしても役に立たなかった。
大森へ情報提供する意味は無いだろうと結論づける。
小林は集めた資料を睨んで身体を大きく伸ばす。
動機という観点からも、犯行実現性という観点からも、未だに有力な容疑者が1人も浮かび上がってこない。
小林はこの捜査は難航しそうだと頭を抱える。
そしてやはり犯行実現性という観点から、自由に食堂倉庫に出入り可能だった食堂職員を探るべきだろうと結論づけて、彼らが出社している旧社屋の食堂へと足を運ぶことに決めた。
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