第33話 事情聴取:産業医 笠島 恵子


◆ 事情聴取:産業医 笠島かさしま 恵子けいこ 44歳 女性


 正面玄関に姿を現した産業医、笠島恵子は、髪にパーマをかけた中年の女性で、小林達刑事の姿を見ると頭を下げた。


「CIL産業医の笠島です。

 お話を聞きたいという警察の方かしら?」


「ええ。

 少しだけで良いので話を聞かせて頂ければと思いまして」


「ええ、ええ。もちろん構いやしません」


 笠島は2つ返事で答え、小林が場所を探すように視線を周囲へと向けると、「あちらでしたら自由に使って構わないと思いますよ」と待合室を示した。


「ちなみにこの後のご予定は?」


「CILの方に山辺社長が亡くなったご報告をと思いましてね。

 それと私物を取りに来ました。荷物を持たずに救急車に乗ったので。

 その後、自分の車で天野さんをホテルまで連れて行く約束です」


 天野の名前が出ると小林は問う。


「彼女の容態はどうですか?」


「ラジレスを過剰に経口摂取したようですけどね。現在は落ち着いていますよ。

 元々低血圧気味だとか。そこに血圧を下げる薬が投与されて意識障害がでたのでしょう。

 ですが入院するような状況ではございませんよ。

 明日になれば薬の症状もなくなるでしょう」


 笠島は移動しながら小林の問いかけに答えた。

 それから待合室のソファーに腰掛けると、対面に座った小林と大森から聴取を受ける。

 進行を買って出た小林が問う。


「CILにはいつ頃からお勤めですか?」


「12年前からになります。

 前任者が辞めましてね。その代わりです」


「前任者の辞めた理由は分かりますか?」


「高齢のためです。

 彼は山辺社長の知り合いの医師でした」


 笠島の回答内容に対して小林が質問を重ねようとすると、彼女は上品に笑って機先を制して言った。


「説明を省きましたね。

 前任は私の父でした。父が高齢で産業医を辞めて、後任に私を推しました。

 ちなみにまだ元気にしていますよ。記憶もはっきりしているので、過去のCILについて知りたければ父を訪ねて下さい」


 小林は「必要であれば伺わせて頂きます」と返し、話を進める。


「出社はどのくらいの頻度でしょうか」


「週に3日こちらで勤務しています。

 業務としましては、体調の悪くなった社員の診察――と言いましても、産業医は直接的な医療行為は出来ませんのよ。

 産業医室で休んで頂いたり、市販薬程度なら渡します。

 もし検査や治療が必要な場合は、病院への紹介状を書きます」


 笠島は一呼吸あけて続ける。


「どちらかと言いますとメンタルヘルスや職場環境保全が主な役目です。

 それから健康診断ですね。

 とにもかくにも、会社が適切な労働環境を整えているかどうかを監査する仕事です」


 笠島は説明を終えるとため息をついた。


「山辺社長が亡くなって、これから先どうなるかは不安です。

 精神的な相談も増えるでしょうね」


 笠島は社長の死を受け、これから先のCILについて思い悩む。

 既に彼女は先のことを考えて居るようで、メンタルヘルスの専門医をしばらくは常在させた方が良いかも知れません等と呟いた。


 小林は彼女に対して尋ねる。


「山辺社長の死因は脳卒中で間違いないですか?」


「ええ、ええ。

 低血圧症によって脳卒中を発症しました。ですから直接の死因は脳卒中となります。

 既に山辺社長は1度脳卒中で大きな手術をしていました。

 脳は手術をして障害を取り除いたとしても完全には治りません」


「それはつまり、ビールにラジレスを混入させて、山辺社長を狙って殺害したと考えても問題ないですか?」


 医学的な見解を確認しようと小林は尋ねる。

 しかし彼の意に反して、笠島はゆっくりとかぶりを振った。


「これは果たして殺人と呼べるのでしょうか。

 確かにアイミクスとラジレスは、併用禁忌と記載があります」


 笠島は机の上にアイミクスのデータシートを広げ、併用禁忌薬品の項目を指し示した。


「ですが記載の通り、症状は非致死性脳卒中。

 併用しただけでは死に至りませんのよ。

 ただ今回はラジレスの量が通常処方量より多く、山辺社長に手術歴があったことで偶然死に至りましたけれどもね」


「そんなはずは――」


 声を荒げたのは大森だった。

 もし慈悲心鳥――殺し屋の犯行だとすれば、医師が疑問を抱くような不確実な方法で殺害を計画などしないはずだ。

 アイミクスとラジレスを組み合わせても確実には死なないとなれば、殺し屋による犯行の可能性はかなり低い。


「事実ですよ。

 わたくしは血圧の専門医ではありませんけれど、この見解については間違いありませんわ」


 大森は信じられないと言った様子で首を横に振る。

 彼に代わり、小林が詳しい説明を求める。


「素人なので分からないのですが、何故血圧を下げる薬で脳卒中になるのでしょうか。

 高血圧によって脳卒中が起こるから、血圧を下げる薬を服用しているはずですよね?」


 笠島は頷き説明を始めた。


「アイミクスやラジレスは、血管を拡張して血圧を下げる薬です。

 水道管をイメージして下されば分かりやすいかも知れません。

 一定量の水が流れている水道管があったとしますでしょ。

 その径を広げたとすれば、水道管にかかる水の圧力は弱くなるでしょう?」


 小林と大森は頭の中でイメージして、確かにその通りだと頷いた。


「ですが径の小さい水道管と大きい水道管で、それを構築する素材の量が同じだとすればどうでしょうか。

 径が大きい方が、水道管は薄くならざるを得ません」


 もう一度2人はイメージする。

 同じ量の材料。それで大きな径と小さな径の管を作ったら。当然、大きな径では管の厚みが薄くなる。


「血管も同じです。血液を通りやすくするよう径を拡張すると、血管は薄くなります。

 薄くなった血管は破れやすい。

 それが過去に脳卒中を起こした人なら尚更です」


 笠島は2人の理解が進んだのを見て続けた。


「ですがそれで死に至るとは限りません。

 明確な殺意があったとは考えにくいのではないでしょうか。

 ビールにラジレスが混入されましたが、ラジレス自体には問題はありません。

 天野さんは一時的に低血圧症が出ましたが、仮に10倍の量を服用したとしても命に別状はなかったはずですのよ」


 ラジレスの安全性を語る笠島。

 大森は彼女に対して問いかける。


「だがアイミクスと併用したら危険なのだろう?」


「それは事実です。

 2つの薬は血圧を下げるプロセスが異なりますの。

 アイミクスはアンジオテンシン受容体拮抗薬。

 ラジレスは直接的レニン阻害薬。

 例えば片方を過剰摂取しても、血管が異常な程拡張されないよう身体の防護機能が働きます。

 ですが異なる要因によって血管拡張が行われると、防護機能が正常に働きません」


 大森は、ではアイミクス処方を受けていた山辺に対してラジレスを投与する行為は殺人に値するのではないかと問いかけようとしたのだが、笠島が先に口を開く。


「ですがね。

 アイミクスとラジレスは併用禁忌とされながらも、過剰に血圧が高い患者。

 ――例えば糖尿病と心臓の血圧障害を抱えているような患者に対しては同時に処方されます。

 医師のコントロール範囲であれば併用も可能な薬なのです。

 ですから、山辺社長がアイミクスを服用していると知っていたとしても、ラジレスを飲ませる行為は明確な殺意と言い切れないのではないかしら?」


 大森は沈黙で返す。

 じっと黙ったままの彼を見て、笠島は告げた。


「今の説明は、あくまで産業医としての見解です。

 わたくしは血管の専門医ではありませんの。

 必要でしたら紹介状をしたためますわ。知り合いに高血圧症の専門医がいますから」


 申し出に小林が「是非お願いしたい」と答えると、笠島は病院側の確認をとるので明日以降でしたらと了承した。


 それから小林は笠島の聴取を進める。


「本日はいつ頃出勤しましたか?」


「出勤は午前10時頃でした

 それまでは病院で勤務していました。近くの総合病院です」


 笠島は医師としての名刺を机の上に置いて続ける。


「出勤し直ぐ、10時から先月の超過労働時間が多い社員と面談を行いました。

 元気そうでした。食品事業の実験で忙しかったそうですね。

 ただ好ましい実験結果が出て、10月の超過労働は必要ないとのことです。

 上司とも連絡して、しっかりと休養をとらせると回答頂きましたわ」


「CILの残業時間は多いですか?」


「研究職としては短めです。

 社員を大切にされる会社ですから」


「山辺社長は無茶を言うと聞きましたが」


「役員に対しては厳しく言いますし、自分好みの研究テーマの進捗が芳しくないとせっつくようですね。

 ですがそれを長時間労働で解決しようとはしません。

 進捗が芳しくないなら、他の部署から人を異動させます。

 人事部はそれに良く応えていますし、社員もいろいろな部署で経験を積むことを前向きに捉えているようです。

 今回のように突然業務が増えて、1月の労働時間が延びることはあります。

 ですがそれが2月続くことはありません。そういう会社です」


「なるほど。残業時間の管理は徹底していたと」


「そう思って頂いて間違いありません」


 小林は笠島の回答に満足して聴取を進めた。


「その後は?」


「産業医室に居ました。

 体調不良で2名ほど訪ねて来ましたよ。

 酸欠気味だった化学実験担当者と、目の異常を訴えたシステム開発担当者です。

 どちらも昼前でした。

 病院にかかるような症状も出ていませんでしたから、少し休ませて市販薬を渡しました。

 直ぐに回復しましたよ」


 笠島は話を続けて良いか確認して、そのまま話を進める。


「12時にお昼を頂きました。

 食堂を使わせて頂いてますの。社員ではないですけどね。

 美味しいですよ。それに社員食堂の労働環境も良いですね。

 CILが食堂職員の労働環境まで気を使って、多めにお金を払っているそうです。

 

 病欠が出たら直ぐに補充要員が来ますのも、食堂運営会社からみてCILが優良顧客であるからに他ならないでしょう。

 世間の会社がみなさんこのような気配りが出来ましたら、産業医の仕事も楽になるでしょうね」


 笠島は咳払いして話し続けた。


「話が逸れましたね。

 午後からは人事部長とサポートの社長と、健康診断について打ち合わせました」


「その時間は分かりますか?」


「13時を過ぎた頃に2人が来て、それから14時、10分でしたか20分でしたかに終わりました」


「社長講話や内定式に参加はしませんでしたか?」


 笠島は問いかけに対してかぶりを振る。


「ええ、ええ。

 もちろんです。社員ではありませんもの」


「懇親会はどうですか?」


「招待は受けましたけれど、参加の予定はありませんでした。毎回そうです。

 ただ、サポートの小田原さんにこっそりお寿司だけ持ってきて貰う予定でした」


 産業医は業務上サポートとの関わりが深い。

 笠島と小田原がそのような約束を取り付けていたとしても不思議はないだろう。


「事件が起こった際はどちらに?」


「産業医室に居ました。

 そうしたら佐藤さん――人事の若手の方ですよ――彼女が駆け込んできまして、開口一番に山辺社長が倒れたとおっしゃいましたの。

 一度脳卒中で手術していますから、慌てて食堂に向かいました。

 産業医は直接医療行為は出来ませんが、初期対応の指示は出せますし、救急の指示を受ければ手を動かすことも出来ます」


「山辺社長の容態を見たとき、医者としてどのように感じましたか?」


「一目で脳卒中だとわかりました。顔の半分が引きつって歪んでいましたので。

 典型的な脳卒中の症状です。

 頭を揺らさないよう床に横にして、呼吸が楽なようにしました。

 血圧は測っていませんが、血管の様子からかなり低い状態だったと予想できました。

 肌は真っ白で、指先まで血液が届いていない様子でした。

 先ほど説明したとおり、低血圧症から脳卒中に移行することはあり得ます」


「ラジレスが投与されたとは考えませんでしたか?」


「そこまでは考えが及びませんでした。

 ただアイミクスを処方されていたので、過剰な投与があったのではと疑いましたけれど、平佐さんは服用は1錠だと明言しました。

 それ以外にアイミクスはグレープフルーツの成分と反応して効果が強まったりしますが、そういったものは食堂にはなかったようですね。詳しくは確認していませんわ」


 小林は「確認しておきます」と手帳にメモ書きした。

 笠島は続ける。


「呼吸が弱まりまして、心臓停止の兆候が見られたので人工呼吸や心肺蘇生の指示を出しました。AEDも使用しましたわね」


 小林はその言葉に疑問を呈する。


「脳卒中で倒れている患者にAEDや心肺蘇生を行っていいのでしょうか?

 身体を揺らすことは問題がないですか?」


「問題はあります。

 ですがこういった場合、まず第一に心臓です。

 心臓が停止したままでは回復しようがありません。ですから心肺蘇生を最優先しました。この判断は間違っていなかったと確信しています。

 残念ながら、山辺社長の心臓が再び動き出すことはありませんでしたけれど……」


 笠島は暗い面持ちで伝える。

 小林は、彼女が救急隊の搬送に付き合った後について問う。


「搬送中は救急隊の手伝いをしていたのでしょうか?」


「いいえ。それは救急隊の仕事です。わたくしは産業医として同乗しましたから。

 ただ山辺社長の過去の病歴や処方薬について知っていたので、それを伝えました。

 皆さん全力を尽くして下さいました。ですが蘇生は叶いませんでした」


 搬送された段階で、山辺社長の心臓は完全に停止していた。

 それはAEDによって確認されていることで疑いようがないだろう。

 小林は話を切り替える。


「薬の出所に心当たりはありますか?」


「残念ながら。

 ラジレスは産業医室には置いていません。渡せるのは市販薬だけですので」


「社内で合成された可能性はありますか?」


「合成環境はあるはずですが、CILは材料管理を徹底していますし、実験設備の使用割り当ても管理されています。

 実行可能ではありますけれど、極めて難しかったのではないでしょうか?

 詳しいことは、技術系のリーダーに聞いてみた方が良いでしょうね」


「それは技術部長の米山で良いでしょうか」


「もっと現場に近いリーダーを紹介頂いた方が良いと思いますよ。

 ただ、同じことを聞くだけになるかもしれませんわね。

 それくらい、薬品の扱いには気を使っている会社ですから」


 大森が産業医室付近で変わった人物を見なかったか尋ねたが、笠島は見ていないと答えた。

 聴取の最後に、小林は問う。


「天野さんに話を聞いても問題ないですか?」


笠島は頷く。


「体調は問題ありません。

 わたくしの許可はいりませんよ。何度も言いますけれど、産業医は医療行為厳禁ですの。ドクターストップもかけられません。

 ですからそちらの判断にお任せします」


 それで笠島への聴取は終わった。

 彼女は荷物を取りにと、待合室を後にした。


 小林と大森は意見を交わす。


「産業医室にずっと居た彼女は、食堂倉庫へ行こうと思えば行けたでしょうね」


「ただ動機はなさそうだ。

 それに、彼女は一升瓶ビールが何処に保管されているか知らなかったのでは。

 懇親会に毎回参加してないのならば、存在すら知らなかった可能性がある」


 大森の意見に小林も頷く。

 笠島が犯行を行った可能性は現時点では低そうだ。


 それに彼女はアイミクスとラジレスの併用について、医学的には殺人には至らない可能性が高いと証言している。

 山辺社長を殺害するつもりならもっと確実な方法をとったであろう。


「天野の話を聞きましょうか」


 小林が提案すると、大森も同意して揃って待合室を後にした。

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