第10話 新しい仕事
仕事のメールが来たのは日曜の午後だった。
世間の休日は家でのんびり過ごすのが日課だった。居間でくつろいでいると仕事用のスマートフォンが振動して、不快な気持ちになったのをよく覚えている。
『HP更新しました。ご確認のほどよろしくお願いします』
事務的な、機械によって自動送信される無機質なメールだった。
ラップトップを広げ、会社の社内ホームページを確認する。
最新情報のリンクを辿り、そこから更に貼り付けられた外部サイトのリンクへ。
辿り着いた先はアイドルのファンクラブサイトだった。
――高瀬モモカ。
アイドルと呼ぶには随分肉付きの良い、ぽっちゃりとした外見をしていた。
しかし愛嬌もある。
彼女についていろいろ調べていくと、元はアイドルグループに所属していたが脱退し、今はバラエティを中心に活動しているらしい。
動画サイトで彼女の動画をいくつか閲覧してみると、食事をしている動画が多かった。
ファンクラブサイトにも記載されていたが、何でも美味しそうに食べる姿が一番の魅力とのことだ。
見ているだけで胃もたれしそうな食事動画を閉じて、会社のホームページから経費申請アプリを呼び出す。
相手が有名人となれば、近づくのに若干手間がかかる。
その辺りも踏まえて普段の倍の金額を事前準備金として申請した。
決裁者である次長も、HP更新したばかりでパソコンに張り付いていたのだろう。
申請は即座に受領された。
ホームページに記載された、リンク搭載期限は来月末。
要するに、仕事は来月末までにやり遂げろという指示だ。期間は十分ある。問題ないだろう。
準備金の承認も下りたのだから待っている必要もない。早速仕事に取りかかる。
直近の高瀬モモカの予定をチェック。
3週間後。地方のイベント会場で、レコード会社主催の大型ライブイベントがある。
そこに高瀬モモカも出演を予定していた。
地方会場の設備は都会ほど整っていない。
内側に入り込めさえすればいくらでも隙はありそうだ。
それに、会場に比べてライブイベントの規模が大きすぎる。
確実に人手は足りていないだろう。
求人サイトを確認すると案の定、ライブイベントの2日間限定でアルバイト募集がなされていた。
机の引き出しから名刺入れを取り出す。
中に納められた偽造免許証の束から1枚引き抜く。
フリーターには相応しい人物だったのでこれで良しとする。
念のためもう1枚免許証を引き抜く。
決行はライブイベント当日としても、その前に高瀬モモカに会っておきたい。
◇ ◇ ◇
地方のイベント会場を訪れたのは、求人申し込みから5日後だった。
薄めのメイクを施し、栗色のウィッグを被った。
「佐久本玲奈」と、この職場での自分の名を何度か復唱してから、会場裏手の東側通用門で呼び鈴を鳴らした。
事務の人が取り次いでくれて、少しして警備リーダーの沼田がやって来た。
ガタイはいいが表情は柔らかく、優しそうな印象のあるおじさんだった。
沼田に警備室まで案内され、そこの休憩スペースで面接を受ける。
面接を担当したのは、沼田と警備部長の中村だった。
適当に受け答えする。
職歴に志望動機などなど。
印象を悪くしてはいけない。答えは短く簡潔に分かりやすく。
相手に気に入られなければいけない。しかし好かれすぎてもダメだ。
仕事とプライベートの境界をはっきりさせて、相手に内側へ入り込ませない。
誰にも好かれすぎず顔を覚えられないと言う点については、絶対の自信があった。
この仕事をする上で極めて重要なスキルだ。
面接はあっという間に終わり、その場で部長より採用が言い渡された。
「仕事内容についてはこちらのマニュアルを当日までに読み込んでおくように。
当然、秘密厳守だ。マニュアルの内容については決して口外しないように。家族相手にも」
「理解しています」
頷いて、マニュアルの入った封筒を受け取る。
警備員向けの業務マニュアルだ。
これの中には、“仕事”をする上で欠かせない情報が詰まっている。
部長が警備室を後にして、沼田から職務について説明がある。
まずはマニュアルの確認。当日の仕事の流れをさらっと説明される。
マニュアルにはきっちり高瀬モモカについての記載もある。
彼女が割り当てられたのは小控え室B。14:00にリハーサルを終える唯一の人物だ。
「朝、控え室をチェックして、問題なければ施錠して鍵を集めてください。
慣れた先輩と一緒に仕事をすることになるだろうから、細かいことは当日確認してください」
「鍵はどちらにありますか?」
「控え室の鍵は普段は1階の事務室で管理していますが、今日はこの後清掃業者が来る予定ですので、こちらに有ります」
そう言って沼田は、警備室の備品棚に置かれていた鍵箱を持ってくる。
鍵箱には南京錠がかかっていたが、沼田がポケットから取り出した鍵で開けられる。
このタイプの南京錠なら、鍵がなくても10秒有れば解錠出来るだろう。
そう思いながら、開かれた鍵箱の中身を確認する。
「こちらが控え室の鍵になります。
キーホルダーに部屋番号が記されているので間違えることはないでしょう」
「そうですね。大丈夫そうです」
小控え室Bの鍵を手に取り、キーホルダーの裏面を確認するように見せて、実際は鍵の両面をつぶさに観察する。
残念なことにスペアキーだ。これでは合鍵を作れない。
念のため、胸ポケットに挿したボールペン――に見せかけた小型カメラで鍵の様子を映しておく。
鍵の形式は古い。最後の手段で、形状から鍵型を起こすのも不可能ではない。
「スペアキーはありますか?
紛失した場合の対応が気になりまして」
「スペア、というよりマスターキーを金庫で管理しています。
もし出演者さんが鍵を紛失した場合はそちらで解錠することになりますが、マスターキーは渡せないので、多少不便ですね。
私が対応する形になります」
「あの金庫ですか?」
電子ロックの施された金庫を手のひらで示すと、沼田は頷いた。
「そうです。
そうそう。月に1度金庫に鍵があるのか確認する決まりでした。
今月はまだなので、ついでに確認してしまいましょう」
沼田は微笑んで席を立った。
彼が背中を向けて金庫へ向かうと、思わずこちらも微笑んでしまう。
マスターキーを見せてくれるなんて、合鍵を作って下さいと言っているようなものだ。
「少し向こうを向いていてね」
沼田は電子ロックの解錠番号を知られたくないらしい。
そんなもの、中身さえ見られるなら必要ない。
喜んで指示に従うと、直ぐに電子ロックの解錠を伝える警告音が響いた。
「こちらがマスターキーです。
――全て揃っていますね」
金庫内にマスターキーが並んでいる。
沼田がチェックシートを記載している隙に、ボールペンのカメラで内部を撮影する。
小控え室Bのマスターキーに刻まれた、鍵番号もしっかり写せた。
沼田は鍵のチェックを終えると金庫を閉じる。
それから一通り仕事場の案内をしてくれた。
警備室内では監視カメラ映像をチェック。
カメラの画角を把握しておく。
幸いなことに、控え室内はもちろん、控え室前の廊下を映すようなカメラは存在していない。
出演者のプライバシーを守るとかいう建前だろうが、いくら何でも不用心すぎる。
それから1階に降りた。
西側広間のカメラ位置をチェック。死角は少なく、2階への階段、会場側扉、控え室側扉。何処を行き来するにも確実に映ってしまう。
そこから控え室前の廊下へ。
隠れられる場所はトイレと更衣室くらい。
カメラもないし、大した問題にはならないだろう。
小控え室Bの前で、沼田へと声をかける。
「控え室の中は、今日は見られませんか?」
沼田はかぶりを振った。
「鍵はかかっていないはずですよ。この後清掃業者が来る予定なので」
沼田は小控え室Bのドアノブを捻る。
彼の言うとおり未施錠で、簡単に開いた。
促されたので控え室へと足を踏み入れる。
入り口直ぐについたてが置かれていて、中を直ぐには見渡せない。
ついたてを避けて部屋を見渡す。
右側の壁は鏡張りで、机も用意されている。左側にはロッカー。中にも入れそうだ。
左側奥に畳が敷かれている。仮眠スペースだろうか。
念入りに室内の状態を確認。
椅子の位置と仮眠スペース、カメラで両方を映すのに最適な場所を探すが、特に難しくはなさそうだ。
ついたての色だけ覚えておけば良いだろう。
控え室を後にして東側通用門へ。
仕事中はほとんどここに居ることになる。
監視カメラの位置を確かめていると、沼田が当日について説明してくれる。
「大型イベントの時はこちらに長机が設置されます。
基本的にはこの辺りに立つことになります」
「分かりました。椅子はありますか?」
「普段は置きませんね」
「そうですよね。警備員が座っていたら突然のことに対処が遅れますよね」
1日立ちっぱなしになるが、別に構わない。
警備員の仕事はそういうものだ。
仕事場の説明を終え、警備室に戻る。
そこで沼田が警備室について説明した。
「今日はイベントがありませんから警備室は鍵さえかかっていれば無人でも良いのですが、イベント開催中は必ず警備室には2名以上居なければいけない決まりです。
もしかしたら、佐久本さんにも警備室に残って貰うかも知れません」
「分かりました。
その場合の業務内容はどうなりますか?」
「その機会があったら考えます。
恐らく、監視カメラ映像を確認して貰うことになるとは思いますが。
他に何か分からないことがあれば今のうちに質問して下さい」
「大丈夫です。
細かい部分は、マニュアルを読み込んでおきます」
「お願いします。
不明点有れば、マニュアルに私のメールアドレスが記載されているので、そちらに連絡下さい」
「はい。そうさせて頂きます」
沼田に通用門まで送って貰い、当日はよろしくお願いしますと挨拶して別れた。
それから会場周辺の下見。
関係者用の駐輪場に駐車場。近くに緑地公園。
会場正面にはコンビニと食堂。イベント開催中は露店も出るだろう。
こんなところでいいかな。
1周見て回って、ここはもう十分だろうと駅へ向かった。
◇ ◇ ◇
次の週。関東圏の大型レコードショップ。
専門学生、内川綾乃として、清掃員のアルバイトをしていた。
会場では14:00からアルバムのリリースイベント。
もちろん、やってくるのは高瀬モモカだ。
建物はイベント会場としての使用も考慮された設計となっているが、所詮はレコードショップだ。
清掃員として内側に入り込んでしまえば、控え室にカメラを仕込むくらい朝飯前だ。
やってきたのは高瀬モモカともう1人。
マネージャーの滝というらしい。彼女は小柄で、丸顔に縁のないメガネをかけていた。
大型イベントにも彼女は着いてくるだろう。
丁度休憩時間だったので、スマホで控え室の様子をチェック。
高瀬モモカは控え室に用意されていたペットボトルの水に手をつける。それを飲んでくれるなら結構なことだ。
だが用意されたお菓子を物色するが手をつけず、滝へと「チョコレートある?」と要望を出した。
滝はカバンから、小分け包装されたチョコレート菓子を取り出す。
わざわざ持参させてまで食べるとなると、相当好きなのだろう。
それからイベント開始時刻になると、休憩を終えて清掃の仕事に戻った。
高瀬モモカと一緒に、滝もイベント会場の袖に移動している。
控え室は無人の状態だ。
人目を盗んで控え室に侵入する。
清掃用の手袋をつけたまま、高瀬モモカの荷物を物色。
――睡眠薬。
予想外の物が出てきた。
成分表を見るまでもなく、青色に着色されたその錠剤は、フルニトラゼパム系の睡眠薬だ。
通常、睡眠薬をいくら飲んだところで死には至らない。
錠剤の場合、致死量は100錠から200錠ほど。
当然そんな大量には一度に飲み込めない。だから致死量を超える前に眠ってしまうのだ。
だがフルニトラゼパム系は別だ。
4錠か5錠、まとめて飲めば死に至る。簡単に死ねる睡眠薬だ。
そして危険な薬である以上、処方も慎重に行われる。
こんな薬が処方されているのだから、精神的な問題を抱えている可能性が非常に高い。
言い換えてみれば、自殺してもおかしくない。
マネージャーの荷物も漁ると、そちらから処方箋の袋が出てきた。
記名は高瀬モモカ。中身はフルニトラゼパム系の睡眠薬だった。
これで高瀬モモカが睡眠薬の処方を受けているのが確定。
隙だらけだから殺すのは簡単だが、自殺に見せかけられるならその方が良い。材料が揃っているのだ、安全策をとるべきだろう。
荷物を元の状態に戻し、隠していたカメラを回収。ついでにゴミ箱から、チョコレート菓子の包装を回収した。
そして何食わぬ顔で清掃の仕事に戻った。
◇ ◇ ◇
大型イベント開催を控え、イベントの進行情報を元に当日の計画を立案。
一応、代替案と、失敗時の計画も練っておく。
綿密な仕事だ。計画の時点で成否のほとんどが決定する。
小控え室Bの合鍵は自分で作成した。
古い規格の鍵だ。わざわざ業者に頼むまでもない。
このレベルの鍵なら、鍵番号から自分で鍵を起こすことが出来た。樹脂で作ったので廃棄も簡単だ。
それから会場に用意されるペットボトルの水と、同じ水を用意。
水には睡眠薬を溶かしておく。
フルニトラゼパム系の睡眠薬は通常青く染色されている。
水に溶かせば色の変化で薬が混ぜられているとバレてしまう。
そのためちょっとしたツテを使って、着色前の睡眠薬を入手した。入手経路を隠匿するために多少の金が必要となったが、準備金は多めに用意させているので問題ない。
同じ睡眠薬を高瀬モモカお気に入りのチョコレート菓子にも仕込んでおく。
マイクロ針を使って注射器で注入すれば、素人が触ったくらいでは穴の存在はバレない。
警察にはバレてしまうが、調査開始の前に回収予定だ。
前日には会場近くのアパートに入った。
アパートは佐久本玲奈の名前で、イベントの翌日まで借り上げている。
ウィッグとメイクで佐久本玲奈という架空の人物に成り切り準備完了。
マニュアルと、行動予定表を最終確認。明日持って行く荷物も再確認。
後は明日の仕事を淡々とこなすだけだ。
――それにしても、新しい職場は何時だって憂鬱だ。
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