第3話
「きしゃあぁぁぁ!」
日本語で表現するなら、こんな感じになるだろう。
蜘蛛女アラクネが、こちらに向けて突進してくる。
あり得ない、あまりにあり得なさすぎる展開にすっかり飲み込まれてしまって、反応が遅れる。あっという間に、蜘蛛女は手の届く範囲にまで来ていた!
蜘蛛女アラクネの下半身、毛むくじゃらの太い足が振り上げられ、俺に向けて振り下ろされる。
……、ダメだ。かわせない。
「危ない、坊ちゃん!」
ドン。
後ろから突き飛ばされる。
そのおかげで、俺はかろうじて蜘蛛女の一撃をかわすことができた。
俺をとらえ損ねた蜘蛛女の攻撃は、その勢いのまま、――まだ繭から出られていない田淵さんを直撃した!
田淵さんの体が、繭ごと宙を舞う。
べしゃ!
10メートルぐらいは吹き飛ばされただろうか。
湿った音を立てて、田淵さんの体が地面に叩きつけられる。
ボールのように2、3回跳ねたあと、ゴロゴロと地面を転がる。そして、ぴくりとも動かなくなった。
おい、おい、おい!
ちょっと待てよ!
地面にうつぶせに倒れている田淵さんの体から、ゴムのホースみたいなものが飛び出ているじゃないか? あの左足は、あり得ない方向に曲がっていないか? それに、周りに散らばっている他のものは、……。
「あッ……」
言葉にならない。頭が、それ以上の理解を拒んでいる。
「ああああああぁぁぁあ!」
怒りを絶望を、その他ありとあらゆる気持ちを両手に込めて、スコップを蜘蛛女に叩きつける! 力のかぎり柄までもくだけろと、がら空きになっていた胴体に叩きつける。
ぞぶり。
両手に重い衝撃。それと、スコップが柔らかいものにめり込む感覚が伝わってくる。
「きぃしゃあっァアア!」
先ほどより一オクターブ高い、化け物の悲鳴!
大グモが、大きく身をよじる。
スコップを両手に握しめたまま、体ごと振り回されてしまう。俺の体重も決して軽いわけじゃないのに、なんて力だ!
堪えきれずに、手から獲物スコップがもぎ取られた。
蜘蛛女ヤツの体には、半分ぐらい胴体に埋まったスコップが突き刺さったままだ。
50年前の世界大戦で、スコップは塹壕を掘る道具としてだけじゃなく、接近戦の武器としても使われていたそうだ。ミリタリーマニアの級友が、得意そうにそう言っていたのを思い出す。なるほど、まともに当たればかなりの威力だ。
思わぬ反撃で痛手を受けた蜘蛛女が、飛び下がって距離をとる。
「痛ツッ!」
でも、こちらも無傷じゃなかった。
蜘蛛女アラクネが暴れた拍子に、やつの爪が右手にかすってしまった。
人間の姿をした上半身、その手の爪は刃物のような鋭さだ。皮膚がざっくりと引き裂かれ、ハデに血がしぶく。
でも、幸いに傷は浅い。
それに、痛みもあまり感じない。戦いの興奮で、アドレナリンでもドバドバ出ているのだろうか?
今の一撃で、少なくなくないダメージを与えたハズだ。
こちらは、右腕に浅い傷。その腕も、まだ動く。
でも、武器がなくなってしまった。こんな化け物相手に素手で戦うのは、あまりにも無謀だ!
すばやく、周りを見回す、
この庭には、武器になりそうなものがない。
どうする?
そうだ! 庭の奥に見える建物の中には、何かあるかもしれない。
蜘蛛女アラクネが次の攻撃に出ない間に、一番近くの入り口からから建物の中に走りこむ。
中は、かなり広い部屋だった。
庭と同様、天井や壁に白い繭が張り付いている。たぶん、それらひとつひとつに、気の毒な犠牲者の亡骸が入っているのだろう。
蜘蛛女アラクネが、俺を追いかけてきた。スコップがめり込んだ傷口から汚い緑色の体液がどくどくと流れ出て、地面を汚している。
取りあえず身を隠せる場所を探そうと思って、急いで左右を見る。その時、体の異常に気が付いた。
体が、異常にだるい。特に、右腕が灼けるように痛くなってきた。
右腕を見て、驚愕ギョッとする。
さっきクモの爪がかすってケガをした場所の色が、どす黒い紫色に変色している!
ドクンドクンと心臓が脈打つたびに、うずくような重い痛み。
毒だ!
そう、直観する。
大慌てで上着を脱いで、傷を負った場所の胴体側をきつく縛る。
それでも、変色した場所はどんどんと広がってくる。もう、縛ったところを通り抜けて、肩まで広がってきている!
「どうしよう」と思う間もなく、蜘蛛女アラクネが建物の入り口から入ってくる。
もぞり、という感じで、あまり大きくない入り口に体をねじこんでくる巨大なクモの姿。あまりの気持ち悪さに、背中のあたりが冷や汗が噴き出てくる。
追いつかれた!
身を隠す時間も、場所もない!
蜘蛛女アラクネが、俺に気付いてこちらを向く。
「――――!」
とても日本語で表現できないような鳴き声を発して、こちらに向かってきた!
見たくもない蜘蛛女アラクネの姿が、急速に近づいてくる!
格闘技ど素人の俺でもビシビシと感じられる、怒気と殺気!
人の姿をとどめている上半身を見てしまうと、下半身とのあまりのアンバランスに、今すぐに胃の中身を全部吐き出したくなる。
こちらの状態は、最悪だ。
腕が痛い。肩も、胸も、痛い。体が、異常に重たい。
そうしている間にも、蜘蛛女アラクネが、どんどん迫ってくる!
ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい!
冷や汗が、全身から噴き出してきた。
自分よりはるかに大きな化け物。殴っても蹴っても、俺みたいなど素人の攻撃なんか効くハズがない。
蜘蛛女は、もう、すぐそこだ!
さっきの傷のせいで少しは弱っているのか、汚らしい体液を床にボタボタとこぼしながらも、その動きに迷いはない。
どうしよう!
何か、何かないか?
せめて、素手よりましな、武器になりそうなものは?
――無い!
TVゲームみたいに、近くに便利な武器が落ちているなんてことも、ない。
……、もう、だめだ!
――――、いや、武器が、あった!
なんだ、「すぐそこ」にあるじゃないか!
迷っている時間は、もう無い!
次の行動は、迅速はやかった。
迫ってくる蜘蛛女アラクネに向けて、俺も真正面からの体当たり!
目標は、蜘蛛女ヤツに胴体に突き刺さったままになっている、スコップの柄。
体重の全部を乗せて、倒れこむように体ごとぶつかる!
そのままの勢いで、スコップを押し込む! 蜘蛛女がぶつかってくる勢いも利用して、化け物の体の奥深くまでスコップを突き込む。
ずぶり、ずぶり。
刃先が蜘蛛女の体にめりの込んでいく鈍い感覚が、伝わってくる。
噴き出した体液が体にかかるけど、気にしている余裕なんかない。
「ぐわッ! ぎッ!」
言葉にならない悲鳴をあげながら、人の上半身の形をした蜘蛛女アラクネの一部が、大きくのけぞる!
スコップの柄がすべて埋まった時に、やっと化け物の動きが止まった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
息が、あらい。
一息ごとに、あたりにぶちまけられた蜘蛛女の体液のムッとするにおいが鼻や口に入ってくる。人間の血のような濃いにおいにムセそうになりながら、それでも必死に空気を胸に詰め込む。
蜘蛛女アラクネは、ビクンビクンと痙攣するように体を震わせている。
こいつ、死んだのか?
……、とにかく、一刻も早くここから離れないといけない。
入口の方に、よろけながら歩き出す。ヨロヨロと少し歩いたところで、足がガクッとおれて、その場に倒れこんだ。
毒が体中に回ってきたのか、体に力が入らない。
「――――ッ、……」
なんとか体を起こして、近くの壁にもたれるかかる形でへたり込む。
それだけの動きでも、体中が悲鳴を上げる。歩くことなんて、とても無理だ。
痛みのあまりのつらさに転げまわることもできない俺の目の前で、ゴソリと音がする。
それが何の音か、確認しなくても分かる。
蜘蛛女アラクネだ!
まだ、生きている!
さっきの一撃でも、止めをさせていなかった。
なんて、しつこい奴だ!
もう、悪態をつくほどの余裕も、ない。
逃げることも、まして戦うことなんて、できはしない。
再び動き出した蜘蛛女アラクネ。
さっきの攻撃のダメージのせいか、動きはかなり鈍くなっている。それでも、一歩ずつ確実に距離を詰めてくる。
動けない俺は、眼を逸らすこともできない。逃れられない死がゆっくり近づいてくるのを、ただ正面からじっと見ていることしかできない。
振り上げた太い足が、俺の頭に向けて振り下ろされる!
あぁ、これで終わりか。
俺は、ここで死ぬのか。
何かをやり遂げることも無く、こんなワケの分からない場所で。
なんだか、無性に悔しくなってきた。
それでも、体を襲う耐えがたい痛みが楽になるなら、……それだけは悪くないかもしれない。ふと、そんな気がした。
蜘蛛女アラクネの足が、頭を打ち砕こうと迫ってくる。
それが、やけにゆっくり見えた。
俺は、目を閉じた。
バチッ!
大きな音が聞こえたけど、蜘蛛女の足は一向にふってこなかった。
「やれやれ……。坊ちゃんの無鉄砲さは、変わりませんね……。」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
この声は、……田淵さん!
驚いて目を開けると、信じがたい光景が瞳に飛び込んできた!
まず見えたのは、見慣れた後ろ姿。
これは、田淵さんだ!
なんと、田淵さんが俺の前に立っいた。
しかも、蜘蛛女アラクネの足を、田淵さんの胴ぐらいの太さのごっつい足を、真正面から受け止めていた! それも、なんと、右腕一本で、だ! その右腕の掌のあたりが、淡い光に包まれていた。
更に驚いたことに、田淵さんは右足一本だけで立っていた。
先ほど吹き飛ばされた時に折れた左足は、何か所かで本来あり得ない角度で曲がっていて、折れた骨の尖った断面が皮膚を突き破って飛び出していた。
加えて、腹部からはホースのように見える管――腸が、こぼれだしたままだ。
それに、体があちこち足りていないのが、後姿からでも分かる。
着ていた服まで、ビリビリになっている。
ゾンビ映画も顔負け! 思わず目をそむけたくなるような、なかなかにひどい有様だ。
よく知っている人のむごたらしい姿に、言葉も出ない。見ているだけで、こちらまで痛くなってきそうだ。
「坊ちゃん、大丈夫ですか?」
蜘蛛女アラクネの攻撃を片手で受け止めながら、田淵さんが体ごとこちらを向く。
血まみれで、あちこちに傷があるが、その顔はいつもの笑顔だ。見慣れて安心できるはずの笑顔だけど、この時にはそれが無性に恐ろしく感じられた。
「……、ぎッ!?」
野獣のカンで危険な気配でも感じたのか、蜘蛛女アラクネが飛び下がって距離を開けた。
「……、やはり、この姿のままでは力が出せんな」
聞こえたのは、艶のある若い女性の声。この声は、田淵さんのものじゃない!
べきり、べきり。
鈍い音を立てて、俺の目の前で田淵さんの傷が急速に治っていった。
グシャグシャに曲がって骨まで飛び出ていた足が、鈍い音を立てて足本来の形に戻っていく。はみ出していた腸も、ずるずると体の中に戻っていくのが見える。あちこち欠けていた体の部品パーツも、叩きつけられたひょうしに地面にすりおろされた皮膚も、急速に肉が盛り上がって元に戻っていく。
まるで、動画の逆再生でも見ているみたいだ。
全身の傷がみるみる再生していくだけじゃ、ない。
あっけにとられて見ている俺の目の前で、田淵さんだったモノが、その姿を変えていく!
それらの変化にかかった時間は、長くても10秒は超えていなかったと思う。でも、それがはるかに長い時間のように感じられた。
一連の変化がおさまった、その時。
明るい月明かりに照らされてそこにいたのは、見知らぬ少女だった。
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