第4話第三章 First Kiss ~俺がヒトでなくなった顛末について~

 俺の目の前で、「田淵さん」だったモノの姿が変わっていった。

 それは、ほんの少しの時間だったハズだけど、とても長い時間だった。

 人の好い笑顔が印象的だった、顔見知りのお婆さん。

 その姿は、もうない。


 明るい月明かりに照らされてそこにいたのは、見知らぬ少女だ。

 まず目に入ったのは、まるで月の光が固まったみたいな、腰まで伸びたサラサラの銀色の髪。

 気の強そうな整った顔立ちに、ぬけるように白い肌。

 すらりと伸びた手足。

 そして、有名ファッション誌のモデルも嫉妬しそうな、メリハリの効きすぎたワガママ系の体形ボディ

 街中で彼女とすれ違っていたら、誰でも思わず立ち止まって振り返ってしまうだろう。

 年齢は、多分俺と同じぐらいだろうと思う。けれど、ドキリとするような色気がある。

 いったい、誰なんだ?

 まったく、見覚えがない!

 それに、俺の知っているあの田淵さんは、いったいどこに行ってしまったんだ?


「きぃしゃあっァアアあああ!」

 距離をとっていた蜘蛛女が、銀髪の少女に向けて襲い掛かる。

「にげ……」

 叫ぼうとしたが、もう、声が出ない。

 突進の勢いを乗せて、必殺の一撃が振り下ろされる!

 先ほどよりもはるかに危険な攻撃が、うなりを上げて少女に迫る!

 太く毛深い蜘蛛女アラクネの足を、少女は華奢な細い手をあげて受けようとした。

 殺意と怒りが形になったような、迫力満点の蜘蛛女アラクネの一撃!

 それに対して、少女はあまり力を込めているようには見えない。

 どう見ても、どう考えても、少女が無残に叩き潰されてお終いジ・エンド

 百人が見たら、百人ともそう思うだろう。


 ぶべきッ!

 鈍い音を立てて砕け散ったのは、蜘蛛女アラクネの太い足の方だった!

 ぶ厚いコンクリートの壁を細い発泡スチロールの棒で叩いたみたいな脆さで、大グモの足が吹き飛ばされた!

 傷口から体液が大量に噴き出して、周囲にまきちらされる。人間の血のような生臭いにおいが、鼻に入ってくる。

 思わぬ傷を受けて更に怒り狂ったのか、今度は蜘蛛女アラクネも退かない。

 目にもとまらぬ野生の速さで繰り出される、人型をした上半身の右腕。

 その爪には、猛毒がある。爪から滴り落ちた毒液を撒き散らしながら、必殺の一撃が少女を襲う!

「遅い!」

 その攻撃も先ほどと同じく少女に軽く受け止められ、その次の瞬間には右腕がねじ切られる。

 今度こそたまらず、体液の噴き出る右手の傷を左手で抑え、蜘蛛女アラクネが飛び下がって距離をとろうとする。距離をとるというよりも、明らかにそのまま逃げ出そうとしていた。

 だけど、それは叶わなかった。

「痴れ者め! 所詮は、その程度か!」

 少女の手がうっすらと光ったと思うと、シュッと風を切る高い音がした。

 触れもしないのに、蜘蛛女の残りの足がけし飛ばされた!

 空中で追撃を受けて足を失い、バランスを崩して着地に失敗した蜘蛛女アラクネ。ベチャリと地面に尻もちをついた化け物を、更なる攻撃が襲った。

 まるでマシンガンの連射でハチの巣にされるように、少女の手が光るたびに、残りの足が減っていく。

 その数、七回。

 八本の足を全て失って、蜘蛛女アラクネの体が地面に崩れ落ちる。


 傷口から流れ出た体液が、その体の周りに広がっていく。自分の体液の作った緑色の水たまりの中に倒れこんだまま、人型の上半身が近づいてくる少女を見上げる。その様子は、まるで池におぼれて助けを求めている姿のように見えた。

「手間をかけさせたな。おかげで、わらわも余計な血を失った。とても足らぬが、お前の精気プラナをもらうぞ!」

 ……、それから起こったことを、なんと表現すればよかったのだろう。

 少女の手が再び光を帯びると、蜘蛛女の残された左手と顔のアゴが砕かれた。そして、全く抵抗できなくなった蜘蛛女を髪をつかんで強引に引き起こす。

 少女が、蜘蛛女の首筋にかみつく。

 声にならない悲鳴を上げながら、なんとか少女を振りほどこうと身もだえする蜘蛛女。

 その動きが、みるみる弱くなっていく。その目から急速に生気がなくなり、間もなく化け物は動かなくなった。

「ふん、知能も持たぬ下賤な『妖魔あやかし』ふぜいが! わらわ妾に相手をしてもらいたければ、あと200年は生きて、気の利いた妖術のひとつでも身に着けてからにせよ!」

 少女は吐き捨てるように言うと、蜘蛛女アラクネの血が付いた唇を手でぬぐった。


 少女がこちらを向く。

 視線が、交じり合う。

 彼女は、敵か、味方か?

 ……、ひょっとすると、蜘蛛女アラクネなんかよりもはるかに危険な化け物が出てきてしまったのかもしれない。

「安心せよ。わらわは、お前の味方だ」

 少女の方から、声をかけてきた。

 それと同時に、俺の体中から力が抜けて、崩れ落ちる。蜘蛛女アラクネの毒が体中に回り、壁にへたり込んでいる姿勢すら保てなくなってきた。

 右腕はすっかり赤黒い色になり、肩を超えて胴体まで変色し始めている。

「ひゅー、……、ひゅー」

 胸の筋肉まで毒に侵されたのか、息をすることまで苦しくなってきた。一呼吸一呼吸、全身の力でなんとか息を吸い込み吐き出しているけど、いつまで続けられるだろうか。

 目まで、ぼやけ始めた。近くにいるはずの少女の姿も、はっきり見えなくなった。

「お、お前! まさか、あの蜘蛛女アラクネの毒を!」

 俺の様子をみて、少女はすべてを察したらしい。


「生きたいか?」

 ハリのある、そしてどこか物悲しそうな声が聞こえる。目がかすんでしまって、顔がはっきりとは見えない。

 そう、俺は、――死にかけている。

 鼻と耳の感覚は、まだ残っている。

 そして残念なことに、体の感覚――痛みがしっかり残っている。ふっと意識が遠くなって、でもその度に体の痛みで意識が引き戻される。さっきから、何度も何度もそんなことを繰り返している。

 一度意識を失ってそのまま死ねたなら、どれほど楽だっただろう。でも、それすら許してはもらえない。

 今の俺に分かるのは、むせかえるような、変に甘く鼻の奥を満たす血のにおい。見知らぬ少女が近づいてくる足音。そして、右手から体中に広がった激しい耐えがたい痛み、それぐらいだ。

 傍に来た彼女がしゃがみこんだのか、服がすれる音が聞こえる。

 右手に何かが軽く触れたと感じた瞬間、その場所が焼け付くように痛む。焼け火箸を突き刺されておまけにグリグリとかき回されたら、きっとこんな感じだろう。悲鳴をあげようにも、声にならない。

「既に、ここまで毒がまわっているとはな。聞こえるか? このままでは、間もなく、お前は死ぬ!」

 言われなくても、分かっている。

 ――もうすぐ、俺は死ぬ。

 何にもなれず、何もできないまま、こんなワケの分からないところで。

「助かりたければ、――――わらわの血を受けて『神人しんじん』になれ! あの蜘蛛女アラクネの毒は、人間だけに効く毒だ! 人間でなくなれば、わらわと同じ『神人しんじん』になれたなら、効きはしない!」

 彼女が話したその内容は、俺が理解できる範囲をはるかに超えていた。

 ……でも、なんだか無性に、眠い。何もかも、面倒になってきた……。もう、このまま寝てしまいたい……。

「リョウ! しっかりしろ!」

 無事な方の手を、少女が握る。

「生きたければ、そう望むのなら、この手を握れ!」

 柔らかくて冷たい手だった。

わらわの血を受け入れたなら、お前は人として死に、『神人(しんじん)』として新たな命を得られる! 生きたいと望め! 強く強く、願え! 強い想いこそが、『神人(しんじん)』の力の源になる! それこそが、転生のカギだ! 頼む……、生きる、生きたいとと言ってくれ!」

 少女の声は、必死だった。

 その声が、完全に落ちかけていた俺の意識を呼び覚ます。

 『神人(しんじん)』って、なんだ? 『生まれ変わる』って、なんだ?

 問いただす余裕も時間も、ありはしない。

 でも、問いただしたとしても、……他に選択肢なんてあったのだろうか?

 たとえ、それが「人間でなくなる」ことだったとしても――――。

 もちろん、生きたい。死にたいはずなんて、ない。

 そうだ! まだ、死ねない!

 何もできないまま、何にもなれないまま、こんな所で死ぬわけにはいかない!

 残された力を振り絞って、少女の手を握り返す。

 ほとんど力は入らないけど、ありったけの力で手を握り返す。

「――すまない、防げなかった……。おねが――、いき――て、おに――――」

 彼女の最後の言葉は、聞き取ることができなかった。

 俺の唇を、やわらかなものがやさしく包み込むのを感じる。

 覚えているのは、そこまでだ。


 目が覚めると、そこは寺の離れだった。

 俺は、いつもの部屋の布団で寝ていた。

 日は、すっかり暮れている。

 春になったばかり。この時期は、日が暮れるとまだまだ肌寒い。

 右手を伸ばして部屋の明かりをつけたところで、動きが止まった。

 右手を、見る。

 いつもと同じ、俺の右手だ。

 2,3回、握りしめてみる。普通に動く。痛みも、ない。

 なんだか、頭の芯がボヤッとしている。さっきまで、俺は何をしていたんだろう? なんだか、ひどい夢を見ていたみたいだ。

 そういえば、もう夕飯ができている時間だ。

 母屋のダイニングに行くと、食卓の上には湯気を立てた夕飯が並べられていた。

 俺の好物の大豆の唐揚げ、山盛りだ。それに、ご飯に味噌汁、サラダ。

 田淵さんが作ってくれる、いつものメニューだ。

 隣の部屋から、人の気配がする。

 田淵さんがいるみたいだ。

「いただきまァす!」

 なんだか無性にお腹がすいていたので、田淵さんの返事も待たずに食べ始める。

 いつもの味だ。

 古臭い怪談なんかで俺をからかうけど、田淵さんの料理はなかなかだと思う。

 食べているうちに、だんだん頭がはっきりしてきた。さっき見た変な『夢』のことも、思い出されてきた。

「田淵さん、変な夢を見たんだ……」

 思わず、田淵さんに夢のことを話す。こんなことを話したらからかわれるかとも思ったけれど、なんだか胸の中だけに止めておけずに、全部を話してしまいたい。そんな気分だった。

 田淵さんは隣の部屋で、俺のバカげた『夢』の話を黙って聞いてくれていた。

「それでね、最後には田淵さんが何故か銀髪の少女の姿になって、俺を助けてくれたんだよ。……ほんと、変な夢だったなァ」

「……、そうか」

 その声を聞いて、ギョッとした。

 田淵さんの声じゃ、ない!

 慌てて立ち上がり、隣の部屋に続く戸を開ける。

 そこにいたのは、銀髪のあの少女だった。


 彼女は、『ミサキ』と名乗った。

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