第一話 雪深

「お兄ちゃん」


 雨色ういろはそう言って、布団の中にくるまっている三歳年上の兄――雪深ゆきみに声を掛ける。でも、反応がない。雨色は小さく溜め息をついて、雪深のことを布団越しにゆさゆさと動かした。


「お兄ちゃん。いい加減起きて」

「んー……」

「もう昼だし、流石に起きた方がいいよ」

「ああ、その通りだな……」


 雪深はようやく、布団の中から顔を覗かせた。真っ黒な短髪と、切れ長の紺色の瞳。兄妹であることを象徴するかのように雨色と同じ色彩を持つ、綺麗な顔立ちをした青年だった。


 雪深はゆっくりと、口を開いた。


「……おはよう、雨色。いい夢見れたか?」

「全然。最近何だか、悪夢ばっかり」

「そうか。それは大変だったな」


 雪深は立ち上がって、雨色の頭を優しく撫でた。兄の大きな手で撫でられるだけで、雨色はどうしてか幸福だと思うのだった。


「ご飯、もう食べたか?」

「まだ。お兄ちゃんを待ってたよ」

「そうか、ありがとう。……ちなみに何かつくってくれたりは?」


「え? してないけど」

「うん、そうだよな。雨色はそういう子だ。よく知っている」

「なんかわかった風に微笑まれると、むかつくな。わたしだって料理くらいできるよ」


「おお、そうなのか……全く知らなかった。そんな情けない兄に、雨色の得意料理を教えてくれるか?」

「圧倒的に、トーストかな」

「ふっ、やっぱりそうだよな。雨色はそういう子だ。俺の理解は間違っていなかった」


 うんうんと頷く兄に、雨色はじとっとした視線を向けて、肩の辺りをぺしぺし叩く。


「はは、怒らせちゃったみたいだな。悪い悪い」

「怒ってない。これは愛のビンタだよ」

「そうか、愛か。雨色から愛されていて、とても幸せだ」


「お兄ちゃんが幸せなら何より。べしべし」

「ちょ、ちょっと痛くなってきたんだが……? 本当に愛なのか……?」


 さあね、と雨色はほのかに笑ってみせた。


 それから二人は居間に向かう。淡い水色の壁と、白色の家具たち――テーブル、椅子、ソファ。静謐でいて儚い色彩の世界が広がっている。


 雪深はエプロンを付けると、キッチンに立って料理を始める。フライパンに油をしいて、加熱を始める。温まったフライパンの上に卵を二つ割ると、橙色の丸い黄身が双子のように並んで、透明な白身の上に浮かんだ。


 雨色はソファの上に丸くなって、窓の外に広がる空を見ていた。どこまでも灰色が続いていて、雨が降り出しそうだった。雨色は微かに目を細めた。


 やがて雪深は料理を終え、テーブルの上に幾つかの皿を並べる。瑞々しいサラダ、目玉焼きの乗ったトースト、果物を使ったゼリー。雨色はくんくんと鼻を動かして、ソファから起き上がった。


「できたぞ、雨色」

「おいしそう。流石お兄ちゃん」

「ふっ、褒めてもなでなでくらいしか出ないぞ」

「なでなでが出てくるだけで、わたしは大満足だな」


 二人は向かい合って腰掛ける。いただきます、と声を揃えて告げて、ご飯を食べ始める。


「ねえ、お兄ちゃん」

「どうした、雨色?」

「この目玉焼きトースト、絶品だよ。流石お兄ちゃん」

「いや、君だってそれくらいはつくれるだろう? トーストが得意なんじゃなかったか?」


「トーストは得意だけど、目玉焼きは苦手」

「あんなの卵を割って焼くだけだ。超簡単じゃないか」

「いつも、スクランブルエッグみたいな何かになる」

「うん、最初に卵をといているな、それ。卵をとくのをやめましょう」


「卵をとかないなんて、許されない」

「誰にだ」

「神に」

「神はそんなところまで、君を見ていません」


 雪深にじとっとした目を向けられ、雨色は無表情で「冗談、冗談」と言いながら、再び目玉焼きトーストを齧った。


「冗談を言うときは、もっと笑顔で言うものだと思うんだが」

「いつも無表情気味のお兄ちゃんに言われたくないな」

「俺だって、表情が変わるときは変わるが」


「例えばどんなとき?」

「うーん、そうだな。ある日唐突に雨色が男になっていたら、表情が変わるな」

「まずわたしが、男の人に変わらないと思う」


「人生何が起こるかわからないからな。俺が突如として女になっていたら、君も少しくらい表情を変えてくれよな」

「まずお兄ちゃんが、女の人に変わらないと思う」

「人生何が起こるかわからないからな」


 雨色は淡く微笑んだ。彼女の口元にはパンの屑が付いている。雪深はとんとん、と自身の口元を指差した。雨色は兄の仕草を見てその意図を理解し、パンの屑をティッシュで拭き取る。


「ありがとう、お兄ちゃん」

「どういたしまして」


 そんな兄妹のことを、窓から薄く差し込む外の光が淡く照らしていた。


 ◇


 雨色はパジャマを脱いだ。華奢な、力を加えてしまえばすぐに壊れてしまいそうな肢体が、空気に晒される。白い下着の上からシャツを着て、黒のスキニーを履いて、靴下を付ける。前髪の一部を金色のピンで十字に留めて、そうして彼女の仕事姿は完成する。


 彼女の着ているシャツには、銀色の襟章が付いていた。それは剣を模したような形をしていて、部屋の灯りを反射して冷たく輝いていた。


 雨色が部屋から出ると、既に支度を終えた雪深の姿があった。藍色のシャツと、白のズボン、臙脂色のネクタイ。雨色のものと同じ襟章が、彼にも付けられている。


「それじゃあ、行くか」

「うん」


 雨色の相槌に、雪深も頷きを返した。二人は靴を履いて、そうして外の世界へと向かった。

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