第一話 雪深
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん。いい加減起きて」
「んー……」
「もう昼だし、流石に起きた方がいいよ」
「ああ、その通りだな……」
雪深はようやく、布団の中から顔を覗かせた。真っ黒な短髪と、切れ長の紺色の瞳。兄妹であることを象徴するかのように雨色と同じ色彩を持つ、綺麗な顔立ちをした青年だった。
雪深はゆっくりと、口を開いた。
「……おはよう、雨色。いい夢見れたか?」
「全然。最近何だか、悪夢ばっかり」
「そうか。それは大変だったな」
雪深は立ち上がって、雨色の頭を優しく撫でた。兄の大きな手で撫でられるだけで、雨色はどうしてか幸福だと思うのだった。
「ご飯、もう食べたか?」
「まだ。お兄ちゃんを待ってたよ」
「そうか、ありがとう。……ちなみに何かつくってくれたりは?」
「え? してないけど」
「うん、そうだよな。雨色はそういう子だ。よく知っている」
「なんかわかった風に微笑まれると、むかつくな。わたしだって料理くらいできるよ」
「おお、そうなのか……全く知らなかった。そんな情けない兄に、雨色の得意料理を教えてくれるか?」
「圧倒的に、トーストかな」
「ふっ、やっぱりそうだよな。雨色はそういう子だ。俺の理解は間違っていなかった」
うんうんと頷く兄に、雨色はじとっとした視線を向けて、肩の辺りをぺしぺし叩く。
「はは、怒らせちゃったみたいだな。悪い悪い」
「怒ってない。これは愛のビンタだよ」
「そうか、愛か。雨色から愛されていて、とても幸せだ」
「お兄ちゃんが幸せなら何より。べしべし」
「ちょ、ちょっと痛くなってきたんだが……? 本当に愛なのか……?」
さあね、と雨色はほのかに笑ってみせた。
それから二人は居間に向かう。淡い水色の壁と、白色の家具たち――テーブル、椅子、ソファ。静謐でいて儚い色彩の世界が広がっている。
雪深はエプロンを付けると、キッチンに立って料理を始める。フライパンに油をしいて、加熱を始める。温まったフライパンの上に卵を二つ割ると、橙色の丸い黄身が双子のように並んで、透明な白身の上に浮かんだ。
雨色はソファの上に丸くなって、窓の外に広がる空を見ていた。どこまでも灰色が続いていて、雨が降り出しそうだった。雨色は微かに目を細めた。
やがて雪深は料理を終え、テーブルの上に幾つかの皿を並べる。瑞々しいサラダ、目玉焼きの乗ったトースト、果物を使ったゼリー。雨色はくんくんと鼻を動かして、ソファから起き上がった。
「できたぞ、雨色」
「おいしそう。流石お兄ちゃん」
「ふっ、褒めてもなでなでくらいしか出ないぞ」
「なでなでが出てくるだけで、わたしは大満足だな」
二人は向かい合って腰掛ける。いただきます、と声を揃えて告げて、ご飯を食べ始める。
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした、雨色?」
「この目玉焼きトースト、絶品だよ。流石お兄ちゃん」
「いや、君だってそれくらいはつくれるだろう? トーストが得意なんじゃなかったか?」
「トーストは得意だけど、目玉焼きは苦手」
「あんなの卵を割って焼くだけだ。超簡単じゃないか」
「いつも、スクランブルエッグみたいな何かになる」
「うん、最初に卵をといているな、それ。卵をとくのをやめましょう」
「卵をとかないなんて、許されない」
「誰にだ」
「神に」
「神はそんなところまで、君を見ていません」
雪深にじとっとした目を向けられ、雨色は無表情で「冗談、冗談」と言いながら、再び目玉焼きトーストを齧った。
「冗談を言うときは、もっと笑顔で言うものだと思うんだが」
「いつも無表情気味のお兄ちゃんに言われたくないな」
「俺だって、表情が変わるときは変わるが」
「例えばどんなとき?」
「うーん、そうだな。ある日唐突に雨色が男になっていたら、表情が変わるな」
「まずわたしが、男の人に変わらないと思う」
「人生何が起こるかわからないからな。俺が突如として女になっていたら、君も少しくらい表情を変えてくれよな」
「まずお兄ちゃんが、女の人に変わらないと思う」
「人生何が起こるかわからないからな」
雨色は淡く微笑んだ。彼女の口元にはパンの屑が付いている。雪深はとんとん、と自身の口元を指差した。雨色は兄の仕草を見てその意図を理解し、パンの屑をティッシュで拭き取る。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして」
そんな兄妹のことを、窓から薄く差し込む外の光が淡く照らしていた。
◇
雨色はパジャマを脱いだ。華奢な、力を加えてしまえばすぐに壊れてしまいそうな肢体が、空気に晒される。白い下着の上からシャツを着て、黒のスキニーを履いて、靴下を付ける。前髪の一部を金色のピンで十字に留めて、そうして彼女の仕事姿は完成する。
彼女の着ているシャツには、銀色の襟章が付いていた。それは剣を模したような形をしていて、部屋の灯りを反射して冷たく輝いていた。
雨色が部屋から出ると、既に支度を終えた雪深の姿があった。藍色のシャツと、白のズボン、臙脂色のネクタイ。雨色のものと同じ襟章が、彼にも付けられている。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
雨色の相槌に、雪深も頷きを返した。二人は靴を履いて、そうして外の世界へと向かった。
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