Bad Night For You
その日、仕事中の俺の携帯に彼女が車に轢かれたという連絡が病院から入ったので、仕事を早退して急いで病院へ向かった。
病室の扉を開けると、消毒液の匂いがツンと鼻についた。そして病室の奥には、頭に包帯を巻いた彼女がベットから上半身を起こした状態で、窓の外をボーっと眺めていた。
「ミヨちゃん…」
俺は彼女の名前を恐る恐る呟く。
すると彼女は虚ろな目と体をこっちにむけて「どちら様ですか?」と言った。
*
ミヨちゃんを診察した医者によると、彼女は記憶喪失になっていた。
事故のショックで頭を強く打ったミヨちゃんは日常生活や過去の出来事は覚えているものの、俺に関する記憶のみすっぽり抜け落ちているとのことだった。
「俺との思い出、か」
俺は一瞬にして彼女との思い出の海に体をとっぷりと沈めた。彼女とは、数年前に葬式で出会ったのだった。
それは俺にとっての大学の先輩で、ミヨちゃんにとっての当時の彼氏の葬式で、棺の前でこの世の終わりみたいな顔をして泣いているミヨちゃんの顔を見たその日から、俺は彼女という底なし沼にはまってしまったのだ。
それから1年近くかけて俺が粘り強くアプローチした結果、やっとのことで彼女は首を縦に振ってくれた。
その時の俺の喜びようと言ったら、彼女と出会ったあの日の泣き顔を反芻しては、絶対に幸せになってみせると誓ったものだ。
記憶喪失がなんだ、彼女は生きている、また一から始めればいいじゃないか。
今日この日から、俺とミヨちゃんの二回目の恋愛が始まった。
*
俺は毎日仕事終わりにミヨちゃんのお見舞いに行って、彼女の好物を差し入れしたり、その日あった面白い話や、時には昔話をして彼女の懐に少しずつ侵入していった。
その工程は、数年前の葬式の後の二人の軌跡を辿っているようで、少し面映ゆかった。それでも粘り強く会う度に、少しずつ笑顔を取り戻していく彼女を見て嬉しい反面、俺の心はどこか焦燥感を覚えていった。
そして事故から一カ月経つその日に彼女は退院する予定となった。
「明日、やっと退院だね」
いつものようにお見舞いに来た俺は、病室でミヨちゃんの白魚のような指を握りしめてそう言った。
彼女は顔を赤らめて、静かに私の指を握り返してくれた。
「ミヨちゃん、よかったらまた俺と付き合ってください。今度こそ君を絶対に大事にするよ」
俺の渾身の告白を聞いた彼女は、目の内にみるみる涙を溜め、ついにはそれを決壊させた。
それからコクコクと首を上下に振り、小さな声で「昔の事は覚えていないけど、またよろしくお願いします…」と言ったので、彼女を思わず抱きしめてそのまま触れるだけのキスをした。
そして次の日、退院した彼女を車に乗せて同棲していたマンションへと連れて戻った。
エレベーターに乗ると彼女は具合が悪いのか頭を押さえていたので俺は、「久しぶりの外出だから疲れたんだろう」と言って、背中をさすってやった。
部屋の前に着き、まず外側のドアチェーンを外し、それから家の鍵を外す。
彼女は「なんでチェーンが外側についているの?」などとほざいていたが無視して開いたドアの内側に彼女を押し込む。
玄関に入った彼女を三和土に叩きつけて、ドアを閉めて、鍵を閉めて、ドアチェーンを掛ける。
「外のドアチェーンはね、君が入院している間につけたんだ、また俺がいない間に勝手に脱走して自殺未遂なんか起こされたらたまったもんじゃないからね」
彼女がこわばった表情をして、極限まで目を見開き俺を見上げてこう言った。
「思い出した…クソ野郎…」
その鬼の形相を見た途端この一カ月どこか空虚だった俺の心が急速に満たされていくのを感じ、思わず恍惚の表情を浮かべ、こう言った。
「やっぱりミヨちゃんにはそういう表情が一番似合うよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます