新世界より

彼が私の首筋に歯を立てる、ブツリという音と共に首筋に激痛が走る。嚙み切られた傷口から溢れ出す血を彼が舐めとる。そんな彼に私はうっとりとした表情を浮かべて彼の首に両腕を回してその体を引き寄せる。こうしている時が一番幸せなのだ。


 彼は別に吸血鬼でもなんでもない。ただの殺人鬼だ。


 数年前まで、猟奇的な連続殺人が世を賑わせていた。その被害者の死体はどれも首を食いちぎられていたり、ナイフで切り裂かれていたため、首裂きジャックなんてあだ名でメディアを沸かせていたりした。


 反対側の首筋にも彼が歯を立てる、今日はぞわぞわとした酩酊を感じる。



 ツプリという音を聞いて、私は甘い吐息を吐いた。そして、彼と私が出会ったあの日を思い出す。



 その日、私は夜の路地裏を走っていた。それはもう後ろも見ずに全力疾走で。


 今は借金のかたで売り飛ばされた変態の金持ちジジィの家から逃げている真っ最中だった、ケツ持ちのヤクザの罵声が近くから聞こえる。


 ジジィがあまりにも気持ち悪すぎたので、その日はついに我慢できずに、押し倒された瞬間近くにあった灰皿で後頭部を数度全力で殴りつけ、そのまま裏口から逃げ出した。


 脱走がそう簡単にいくはずもなく、追ってに今殺されかけているところだ。


 …嘘、決して殺されはしないだろう。まぁ、ここで殺されて死ねるのならまだマシなのである。時に生は死をも凌駕することが多々ある、それは身をもって知っていた。


 私は「不老不死」だ。端的に言うと、何をしても(されても)死ねない。その為あのサドの変態ジジイにはこの世の地獄を超えた目に何回も合わされていた。あぁ口に出すのもおぞましい。


「こっちだ!」


 ヤクザの声が聞こえたので咄嗟にゴミ箱の中に隠れるが、脇を通りかかった奴らにあっさりとバレてゴミ箱を蹴り倒され、中から髪の毛をつかみ引きずり出される。


「クソガキがよぉ」


 3人いたヤクザの中で一番偉い奴が吸っていたタバコを私の眉間に押し付けた、ジュウという音がして背中から冷や汗がでてくる。


「叔父貴が死んだらどうしてくれんだよぉ!オイ」


 そのまま頬をグーで殴られた。


 鼻血が路地裏に飛び散って、体が汚い路地の壁に叩きつけられる。


 そのまま取り巻きの2人が私の両足を片足ずつ持ち、大の字になった私を路地の奥へ引きずろうとした。


 ああ~私の人生ろくでもないなぁ~、頭の中でドヴォルザークの『新世界より』の『家路』が流れ出した。


 その絶望的メロディに身をゆだねていると、路地の奥の曲がり角から、フラッと男が出てきた。


 男はブルゾンにジーンズといういで立ちで、この場にとてもアンバランスな存在だった。


 ヤクザが男に近づく。


「邪魔だ、どけ」


 ヤクザが男の腹に蹴りを入れる。するとボギィッと言う嫌な音と共にヤクザが悲鳴を上げて横に倒れた。蹴りを入れた足が明後日の方向を向いており、そのまま男はヤクザの上に乗りかかり首にナイフを突き立てて、引き抜いた。


 その時、月にかかっていた雲が開け、月光が男の顔を照らした。返り血を浴びて真っ赤に染まった黒髪の男は、ゾっとするほどに美しかった。


 私の足を持っていた2人は焦った様子で、男に怒鳴って殴りかかった。


 私が「良かった、足が解放された、今のうちに逃げよう」などと思っている間にその2人も首から血を噴き出して、そして地面に倒れた。


 男と私の間に静寂が流れる。そしてハッと息を飲む。


 男は泣いていたのだ。


「あの、なんで泣いているんですか」

 

 私は恐る恐る尋ねる、男は小さい声で「殺したくなかった」と答えた。


「はぁ、正当防衛ですもんね。あなたは悪くないと私は思いますよ。命を助けてくれましたし」


 私は頬を引き攣らせてまるで揉み手でもするようにそう言った。


「…殺人衝動が抑えられないんだ」


 男はそう言って、私にのしかかって首を絞めてきた。


グ、ぇ


 思わずカエルがつぶれたような声が出る。そして変態ジジイによくされたことを思い出す。死ぬときは毎回違う感覚が体を襲うのだ。それは激痛に苛まれながらだったり、フッと意識を失うようなものの時もあった、でもあのジジイから与えられる死にはどれも言いようのない気持ち悪さが付いて回っていた。しかし彼からのこの絞殺にはまったく嫌悪感を感じなかったのだ。そして逝く瞬間私は、甘い快感が体中に迸ったのを感じた。




……


――――ハッ


 私はまたすぐ生き返ってガバッと起き上がった。するとまだ私の上に乗っかって、首にナイフを突き立てようとしていた彼に盛大な頭突きをかましてしまった。


 彼が頭を押さえながら、「なぜ」と言った。そしてまた泣いたせいか濡れた長い睫毛を何度もしばたたかせた。


 私は、今まで生き、そして死んできてこんな感覚に陥るのが初めてだった。


 正直、昔経験した好きだった人とのセックスより興奮した。


 思わず私は彼に向かってこう言った。


「私達、最高のパートナーになれると思うんですよね」


 ポカンとする彼の手とその手に握られたナイフを自分の首に持っていって、私は彼にキスをした。

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