時々世界は美しくて

 昔からの現実逃避の仕方なのだが、私は自分にとても嫌なことがあると、脳内で幸せな家庭を思い描く。


 家の門扉をくぐり、玄関を開けるとそこには優しい母がいて私に「お帰り」と微笑んでくれる。


 洗面所で手を洗っていると愛犬が駆け寄ってきて、「ワン」と吠えつつ尻尾を振ってくれる。


 リビングにつくと、夕飯の用意がすでに出来ていて、私は食卓の椅子を手前に引き、腰掛ける。


 おいしそうな夕ご飯を前に自然を唾が溢れてくるが、それをゴクリと飲み込み、ナイフとフォークに手をかける。


 すると、玄関から「ガチャリ」と音がして、「ただいま」と父が少し疲れた声で言う。


 私と母は一緒に玄関まで父を迎えに行く。後ろから愛犬が相変わらず尻尾を振りながら吠えている。


 そんな、夢想に耽ってしまう。


 私が、上の空だったのがえたく気に入らないのか、目の前でビンを振り上げられた。


 「あ」と思うのも束の間、目の中で白い光がチカチカと瞬き、文字通り星が飛んだ。


 ついで右目の周辺がジワジワと熱くなり、それは次第に痛みを伴って襲ってきた。


 あまりの痛みに現実逃避もままならない。


 ボロアパートの住まいには、当然門扉なんてものはなく、万年床がひいてある四畳半のリビングにはちゃぶ台とカップラーメンの屑が放置してある。


 優しい母などおらず、目の前には鬼の形相をした女と、少しくたびれたサラリーマンの父もいない。数年前に突然いなくなった。


 そして私は、今日も理不尽な暴力になすがままで、ささやかな現実逃避に一瞬の楽しさを見出そうと必死だ。


 また、目の前でビンが振り上げられたので、目をギュッとつぶる。


 瞼をとじる瞬間、アパートの二階の窓の外から、近所のおばあちゃんと犬が散歩をする姿が見えた。


 散歩が嬉しいのか、尻尾を取れんばかりに振っている。


 窓の外から「ワン」と楽しそうな声が聞こえた。

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