それでは皆さんさようなら
現在
耳をつんざく轟音と、人々の絶叫。
皆が宙に浮いて、俺のバッグから四角い指輪のケースが飛び出ていった。
グラスが、携帯が、握りあう誰かの掌が、朗らかなコーラスが、様々な人の想いと人生が、気持ちいいほど明るい空に放たれた。
誰かが食べていたであろうジェリービーンズが飛び散る、青のキャンバスに絵具をばらまいたみたいで綺麗だった。それはまるで晴天の日に行われる俺と彼女の結婚式で空に放たれる風船みたいだった。
気持ち悪い浮遊感、全身から血の気が失せていく。
衝撃、そして、暗転。
2分前
一席前の老夫婦がキスをしている。
お熱いね、俺も彼女と将来こうなりたかった。シートの隙間から覗き見ながらそう思った。
その老夫婦は皺だらけの手を強く握りあっていた。その手に刻まれた皺の数が彼らの愛の長さを物語っているようだ。
ふと、左隣を向くと気の強そうな美人な女性が高そうなワインをがぶ飲みしていた。彼女は俺の視線に気づくと「ご一緒に」とウインクをしてきたので、ご相伴に預かる。
これは浮気になりますか、許せ、彼女。
乾杯、そういってグラスをぶつける、美人の持つグラスはわずかに震えていた。
遥か後ろの席からは「ハッピーバースデー!」と誰かの誕生を祝う声が聞こえた。
5分前
携帯のボイスレコーダーを閉じる。こんな小さい機械に俺の万感の思いが収まっている。そう思うと不思議なものだ。
ふと携帯から目を上げると、列を挟んで右隣の席の5歳ぐらいの女の子が私を見ていた。まだ現実を理解できていないのか、ポカンとしている。
そのあどけない瞳に映る自分の顔はやけに滑稽だった。
少女の隣では親であろう男がいた、彼は陽気そうに女の子の手を握って歌を歌っていた。この曲は知っている、音楽の教科書に載っている曲だ。
なんて言う曲だったっけな。
「今、私の、願い事が、叶うならば」
耳に心地よいメロディだ、思えば俺は音楽の授業が一番好きだったのを思い出した。
そんなことを考えていると、女の子も一緒になって歌を歌い始めた。舌足らずながらも一生懸命父親と一緒に歌っている。
なんだか笑いがこみあげてきて、サビの部分で俺もコーラスに混ざった。
ひと際大声ではしゃいでいた前方にいる女子大生のグループが、カラフルなお菓子を食べながら携帯で自撮りをする手を止めて、一緒に歌に加わって来た。
こうなるとプチ合唱だな、そんなことを思った。
10分前
そうだ、携帯のボイスレコーダーがある。これに彼女への想いを残しておこう。
遠距離恋愛で、長いこと寂しい思いをさせてしまった。もっと早くにプロポーズをすればよかったと今更ながら己の行動を悔いる。
俺は懐から携帯を取り出して、これまでの思い出と、これからの事を小さな機械に吹き込み始めた。
言葉を紡ぎながら、周りを見るが、人の反応は様々だ。
すすり泣く者、大切な人と抱き合う者、膝を抱え震える者。
ここに彼女がいなくて本当に良かった。
窓の外を覗くと、ジェットエンジンから吹き出る煙の切れ間から、目が覚めるような空の青が広がっていた。
15分前
地が割れるような音がした。
と言ってもここは飛行機で、上空にいるのだが。
目の前に酸素マスクが飛び出てきた、俺はドラマの中でしか見たことがないソレを見た瞬間、頭の中にしびれるようなショックを感じた。
周りの人も同じく、突然突き付けられた現実を理解出来ていないようだった。
しかし次第に怒声や罵声、ヒステリックな叫び声が波の様に沸き起こる。
機長がアナウンスで何かを言っているが、その声もただの音の記号にしか聞こえなかった。
「なぜ今日なんだ?嘘だろ」という言葉が静かに口をついた。
1時間前
「早く会いたい」
俺は飛行機のタラップを踏みながら、噛みしめるようにそう言った。
半年ぶりにやっと会えるのだ。
3時間後には、この世で一番愛している彼女が目の前にいて、はにかんでくれる。
チケットを取り出すために、バッグのポケットに手をやる、そこにある固い感触に鳩尾がヒュッと冷たくなる感覚に陥った。
俺は破裂しそうな心臓を抑えながら、彼女の前にサッとケースを取り出して、箱を開く。
中身を見た彼女は両手で顔を覆いながら、綺麗な瞳に涙を浮かべて破顔する。
そんな彼女の愛しい光景を思い浮かべながら、チケットを乗務員へ見せた。
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