第5話(抑え:菅部 享天楽)

 ザンギは顔を上げた。


 それほど声を出していないつもりであったが、周囲にははっきり聞こえていた。野次馬達はざわざわとささやき、視線がポスターと若い女性を往復する。声に混ざってスマホのシャッター音も聞こえる。当然二人は周りの反応に困惑している。美音は「違います」と否定はするものの、それがかえって疑惑を深めた。


 みおんのために作る料理を決められない、気分転換に散歩に出ればみおんとホームレスが熱愛中、そして自分のせいでみおんが周囲から詰め寄られるハメに……。休む間もなく押し寄せる出来事にザンギの脳内メモリはオーバーヒート。血が首筋を通り、脳天にこみ上げてくる。視界が真っ暗になった。汗がどっと噴き出す。心臓が浅く激しく呼吸する。味わったことのない絶望感にザンギはただ固まっていた。




「ザンギさん、しっかりしてください、ザンギさん!」


 菜都枝の呼び声にザンギは我に返った。状況を確認しようと辺りを見渡す。


 ザンギは自分の店にいた。カウンターにもたれて座っている。そして、菜都枝が心配そうにザンギの顔を覗き込んでいた。


 状況を呑み込めないザンギは口をあわあわさせる。美音を見かけて、ここまで帰ってきた記憶が全くない。もしかして気絶した? 大重さん、僕を運んできた?


 それはないか…………いや、もしかしたら……??


 ザンギは恐る恐る菜都枝に何故ここにいるのか訊いた。


「外が騒がしいので出てみると、人集りから物凄い勢いでザンギさんが走って出てきたので、心配になって追ったんですよ」

「そ、そうだったんだ……僕、パニックになってて……」


 そしてザンギは人集りで見た光景を話した。思いついた順に話し、言葉につまっていたが、菜都枝は親身になって聞いた。話を終えるとザンギはどっと疲れたように溜息をついた。


「そんなことがあったんですね……みおんちゃんはきっと大丈夫だと思いますよ」



 菜都枝は優しく言葉をかけた。


 菜都枝は人気急上昇中のアイドル声優がそんな白昼堂々交際相手と抱き合ったりするのだろうかと疑問に思った。ザンギにそのまま伝えようかとも考えたが、もし万一に二人がそういう関係だった場合、余計にザンギを傷つけるだけになるため言い出すことができなかった。それに、仮にそう伝えたとしてもザンギが納得するかは分からない。彼を元気づけるためには憶測ではなく、きちんとした証拠を出す必要があると思った。心苦しい気持ちはあったが、ザンギを一人残して自身の店に戻った。


 菜都枝は鳥のアイコンをしたSNSを開いてみおんのアカウントを検索。イベントの告知を確認した。返信を一目見て大変なことになっていることが分かった。とてもではないがザンギには見せられない。中には写真を上げている者もいた。確かにザンギの言う通りホームレスと……お、おお?


 菜都枝はホームレスの顔に見覚えがあった。ホームレスの顔を拡大して見間違えではないことを確認する。間違いない、漆原 祝常選手だ。十年の時の流れと長い髪で分かりにくくなっているが、菜都枝にははっきりと分かった。

 



 高架下にはブルーシートや段ボールの塊が道のわきにずらりと並んでいる。

 当たり前のように家に住む者ならば、これらはごみの山に見えることだろう。しかし、帰る場所のない者達にとってはまさに家、いわばここは住宅街なのだ。この一角、二畳にも満たない小さなスペースに祝常は居を構えている。屋内はごみ捨て場で拾った布団が置いてあるだけだ。


 あの後、祝常と美音は何とか野次馬達を振り切った。美音は折角出会った兄とまだ一緒にいたかったが、祝常はそれを嫌がって美音と強引に別れを告げて自宅まで戻ってきた。


 祝常は唯一の家具に包まり、じっとしていた。今日は早く寝てしまおうと目を閉じるが、中々寝付けない。確かに寝るにはあまりにも早すぎるから仕方のない事かもしれないが、根本の理由は他にある。


 十年前、傷害事件を起こしてホームレスになった時、全てを失ったと思った。しかし、それは違った。祝常には美音がいた。たくさんの友達ができても美音にとって祝常は一番なのだった。祝常はそれを十年もの月日が経ってようやく気がついたのである。


 ところがその妹も自身と同じように夢を失ってしまうかもしれない。祝常は初めてホームレスになった我が身を呪った。


 祝常は一旦風に当たろうと外へ出た。春の心地よい風が高架下を吹き抜ける。祝常は少しずつ冷静さを取り戻していく。


「あの、すみません……」


 若い女性の声に祝常は一瞬肩をびくっと動かした。


「漆原選手、ですよね?」

「おまえは、誰なんだ?」

「あ、すみません。私、一番星商店街でパン屋をしています、大重 菜都枝といいます」

 菜都枝は深々と頭を下げた。


「俺に何か用か?」

「その、お話をしませんか?」


 菜都枝は持っていた袋を掲げた。中には色々な種類のパンが詰められていた。


「これでも食べながら」

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