第二話:持たざる者たちの葬式

 先生とコルは着替えていた。葬式と聞いて、心を動かされぬ者はいない。

 たとえそれが見ず知らずの人間や動物の葬式だとしても、正しく振る舞おうとする心が二人にはあった。バルドゥールは「祭りなのだから気を負わずに」と話したがその厳かな雰囲気には緊張が見えた。アグラヴィータを代表する神郷画家しんきょうがかでさえも強張るその葬式に、何を以て挑めば良いのか。二人は考え抜いた。

 結果、先生とコルは大慌てで服を拵えた。葬式と言えば黒の服だ。幸運なことにアグラヴィータの衣服は白と黒のものしかない。その中から先生は黒のジャケットを、コルは同じ色のドレスを買い付けた。どちらもシンプルなものにして、あとは自前の服を着ればいいだろうという話になった。

 朝食や身支度を終えて、二人は宿を飛び出した。

 美術神郷びじゅつしんきょうは、一日にして姿を変えていた。

 そこら中に色があった。

 家屋に掛けられているものは布だった。家屋そのものを覆っている布こそが、家屋がカンバスだと言わんばかりに描かれていたものは――そう、色彩豊かな美術神郷だった。

 ベージュの布には彩り豊かな森林が描かれ、灰色の布には朝焼けの空が描かれている。白い布には海がある。夜を渡る汽車を描いた布もあった。そしてそれらは家屋に掛けられ、時には家屋と家屋を繋ぐ旗となって飾られている。

 どこからか聞こえるファンファーレは高らかで、管楽器と弦楽器が仲良くハーモニーを奏でる。

 街行く人々は思い思いに鮮やかな服を着ている。それこそ、葬式を思わせない彩りで。

 地面こそ元より黒かったが、今日は花々に彩られていた。まるでそれらが絵の具であるかのように、花々は添えられていた。

 先生とコルは呆気に取られて、先生に限っては今日のためにおろした黒縁の眼鏡をくい、と直す。

「これが……葬式……? どういうことですか、先生」

「どう、と言われても……ああいや、待てよ。アグラヴィータの生活様式は……通過儀礼の時にだけ、色に触れるんじゃなかったか……けれど葬式で……?」

 コルの問いかけに先生はぶつぶつと自身の記憶を辿りながら答えているつもりだった。しかし内容はコルを無視した記憶実験のようなものだった。彼が持参している『神郷美術史しんきょうびじゅつし』はあくまでアグラヴィータの美術の変遷を書いたものであって、生活に沿ったものではない。先生はそれなりに――“神を覗く者ミスティルテイン”の見学のために熱心にアグラヴィータについて学んだつもりだったので、その意外な葬式に驚かずにはいられなかったのだ。

 先生が自分の世界に没頭してしまったのは見ての通りだった。なのでコルはまず、先生をひっぱって邪魔にならないように立たせた。それから自分は道行く人々の観察を始める。

 よくよく見ればそのアグラヴィータの葬式のために着飾っているのだろう人々は、特別な服装をしているわけではなかった。そのファッションセンスは誰も長けていて、個性はあれど総じて美しく見える。先生とコルが出発した学士の街よりかは派手かつ複雑な服装をしているものの、日常にコルたちが着ている服と遜色ない。そのことにすぐ気づけなかったのは、やはり白黒の街、白黒の人々と生活という印象がアグラヴィータであるからだろう。

 決して街が一夜にして塗り替えられたのではない。布や旗、花や緑などで街が飾られていると呼んだ方が正しかった。それらは全て洗練されたセンスで神なる色彩を無駄にしないよう配置されている。他の場所ではなかなかできないことだろう。このように大掛かりなデコレーションを成功させるのは、なかなかできることではない。

 アグラヴィータに住む者たちが思い思いに自分を、街を描いているのだ。コルは確信した。

「先生、お嬢さん!」

「バルドゥール画伯!」

 バルドゥールが高らかに二人を呼んだ。

 コルが振り向くとそこには昨日の白黒からは思いもよらぬ姿のバルドゥールがいた。

 髪は赤く、眼帯も揃えの色で決めている。臙脂色のベストとパンツに白のワイシャツ。赤色でそそのえたスタイルによく目立つのはペリドットの瞳だ。ただでさえ白黒の世界でよく映えていたベリドットが今はさらに輝いて見える。

 コルは気づいた。このファッションは――その瞳を輝かせるためだけに存在しているのだと。

「おや先生たちはあえての黒ですか! いやはや、葬式らしい色使いです」

「バルドゥール画伯! あ、すみません。僕としたことが夢中になってしまって……素晴らしい? 葬式ですね……!」

 先生が難しそうに首を傾げながら話す。葬式と言われている以上、手放しに褒めるのもどうかと思っているようで、もどかしそうにしている。

 そんな先生の姿を見てバルドゥールは快活に笑った。

「いいんですよ先生。この葬式は謂わば展覧会――死した者の弔いというよりかは、自身の色の解放の場なのですから」

 バルドゥールは両手を広げて語った。

「さて歌うように語りましょう。まずはこの街を! 色彩を!」

 バルドゥールが胸ポケットからチョークを取り出す。そして彼は服を汚れるのも無視してその地面に膝をつけた。

 バルドゥールが膝をつけたので慌てて先生とコルはしゃがむ。

 かつかつ、と黒い地面に白のチョークで彼は描いていく。アグラヴィータ。そしてその正体を。

「アグラヴィータは美術神郷。そのことはご存知でしょうが、この場所はいかんせん色がない! それもそのはず。色を遠ざけて過ごすことが我々の宗教であり、修行なのです。いやしかし、それでは何処で色彩を覚えるのか? それもまた修行です。色彩を覚えるのにはカンバスと向かって――いやいやそうではないのです! 向かったカンバスは、作品は何処に向かえば良いのか? そうです。発表の場がない!」

 彼は白のチョークでアグラヴィータそのものを描いていく。城壁から中身を描き、昨日馬車で見た通りのアグラヴィータを描いてみせた。流石は神郷画家と言わんばかりの筆の速さ、正確さだった。

 白のチョークがカンバスを描く。バルドゥールが胸のポケットからさらに別のチョークを取り出した。桃色のチョークでカンバスの中に花が描かれる。

「街は白黒。美術館はありますが……民間のためではなく、我ら神郷画家のためにあるようなものです。あそこを昨日、紹介しなかったのは神郷画家ではなく美術神郷にいる全ての作品が集う、この葬式を目に焼き付けていただきたかったからです」

「バルドゥール画伯。では何故、葬式なのでしょう? 弔いの場こそ色彩を喪うべきでは?」

 先生がすかざす言葉を放つ。それに対して、バルドゥールは一笑。

「それが外の常識です。しかし美術神郷は違う」

 白のチョークで輪郭が描かれる。人の形が創造され、一際大きく瞳が強調される。

 バルドゥールは緑のチョークを取り出した。ぐりぐりと彼と同じ色の瞳に絵はなり、完成される。

「美術神郷では、作品の展覧会としたのです。冠婚葬祭の――それこそ葬式を!」

 緑のチョークが描いたアグラヴィータを彩っていく。

「喪に服すのは当然です。しかしそれでは忘れるだけだ。人々はその人を――唯一無二の色彩を忘れないように、そのカンバスに瞳の色を載せることにした! 先日死したチャーリィの瞳は臙脂。だから臙脂を映えるよう彩ろう。その前のゴンヌは? 彼は私と似たエメラルドだった――ならばそれも! その前は、父は、子は、祖父は――そう。その瞳の極彩色こそを忘れぬよう、着飾る! 神こそを飾る! それが我らが葬式。です!」

 勢いよくバルドゥールが緑のチョークで絵の中のアグラヴィータを塗りつぶす。

 葬式、葬色――その音韻や本質は変わらないのだ。人を忘れぬようにすること。その人の色彩を、眼の色を忘れぬこと。その色たちで街を塗りつぶすこと。ただ方法が奇抜なだけで、なんら自分たちがする火葬と同じなのだろう。

 興味深く先生とコルの瞳が爛々としたのを認めて、バルドゥールが立ち上がる。

「失った人々の色を使い、カンバスでの修行を発表する。端的に言ってしまえば、それだけなのですが、それこそが我らが祭事なのですよ」

 街を見上げると、そこには色彩豊かに人々を想う街が存在していた。

 赤、青、黄色、緑と自然や白黒の家屋と共存をしながらその美醜を謳っている。人々は思い思いに自分を彩り、笑っている。

 この美術神郷すべてがカンバスなのだと、そう話すように。

「素敵です……! 素敵です、バルドゥール画伯! この美術神郷全てが神に捧げるカンバスということなのですね!」

「素敵な表現ですなお嬢さん! よりよく知ってもらえて何よりです」

「私、感動しました。とても素敵な美術です! 何より人を想いながら、街ゆく人々は笑顔でいらっしゃる……! それが何より素晴らしいと思います」

 コルもすく、と立ち上がる。バルドゥールの手をとり、きゃあきゃあと声を上げる。彼女にとっては未知なるものが解明されたようで、嬉しくてたまらないと言った様子だった。

 その一方で先生はバルドゥールが描いていたアグラヴィータと人相をじいっと見つめていた。

「先生、どうかしましたか?」

「あ、いや……なんでもありません。バルドゥール画伯、ご教授ありがとうございました」

 彼も立ち上がって頭を下げる。

「何か気になることでもありましたか?」

 コルが心配そうに先生に問うが、彼は素早く首を振った。

「いいや、本当に些細なことだよ。ここで確認する必要もない……」

 そう言って先生はコルのことを庇うようにして、バルドゥールの前に立つ。

「バルドゥール画伯。その瞳はどうしたのですか?」

 バルドゥールの片目を指して先生が言う。

「その目は、僕の想像からすると……」

 神妙な声音にコルが怯える。先生のジャケットの裾を握った。

「神が宿っているのではないのですか!?」

 ――が、彼女の想像と反して先生はやや興奮気味にバルドゥールに向かって叫んだ。

「自身の色の解放の場、色を遠ざけること、カンバスにその色を載せること! ならばどうしてその瞳を題材とするのか……それはその瞳の色彩にこそ神が宿っているのではないのですか!? どうしても人から遠ざけられぬもの、抜き取れないもの……それは人の内臓だ、器官だ! そして表出しているものの中で、最も鮮やかな色を司るのは瞳! そのように僕は思うのですが!」

 早口に、しかし汚くない程度に唾が飛ぶ寸前で止まりながら先生は語る。

 彼は矢継ぎ早にバルドゥールの眼帯に手を伸ばす。 

「そして僕が思うに、その色を喪うことも――一つの修行になり得るのではないのでしょうか」

 確信めいた発言だった。

 先生は自信に満ちあふれている。彼のお気に入りの黒縁の眼鏡の向こうの瞳がそう語っている。

 バルドゥールはにやりと笑った。

「その通りです、先生。私たち神郷画家、ひいてはアグラヴィータの者たちは、この色彩を失うことも神を遠ざける者として認められる。神を遠ざけ生活する者は、みな清廉だと言われている。だからわざわざ、その色彩を失う――なんてことは、少々やり過ぎだと皆さん仰いますね。それほど神に身をやつす者は、逆に愚かだと。そう語る者もいます」

 バルドゥールはポケットにチョークをしまった。チョークの粉が臙脂のベストにかかり、彼は仰々しくそれを払った。

「しかしね先生。私はそれほどの過激派ではないが……色彩を喪った人々の作品は、素晴らしいと思う。色彩のない世界で、的確に彼らは神を捉える。そしてカンバスに閉じ込める。この作法を、私もいつか知りたい……そう願ってさえいる」

「バルドゥール画伯。それはいつかあなたも色彩を失うということですか?」

「……それはどうだろうね」

 彼は苦笑した。先生の真面目なまなざしに耐えられない、と言わんばかりに視線を逸らす。敵意はないようで、彼は視線を逸らした後、なんとも言えない表情ではにかんだ。

 アグラヴィータにファンファーレが鳴る。

「しかし先生。そこまで知れたのにこの葬式を楽しまないとは、ナンセンス! 行きましょう先生、お嬢さん。葬式と言えどこの美術神郷では祭り。楽しまなくては損というものです!」

 バルドゥールがうきうきと話す。

 先生とコルは顔を見合わせ、頷いた。そこに憂慮の一切は存在しなかった。

 アグラヴィータを代表するバルドゥールが語ったように、その葬式は祭りとして劣らない勢いを持っていた。何処までも陽気で、思慮深い祭りだった。

 人々は着飾り、自分や自分たちの作品を発表する。そこに年齢や性別の隔たりは存在しなかった。美術神郷に生きる誰もが自由にその全てを、自分が見る神というものを表現していた。カンバス、壁、家屋、床、自然――その方法は様々だった。だのに全体としての調和が取れていた。アグラヴィータに住む人々はまるで昔からその調和の方法を知っていたかのように物を置き、飾り、彩っていた。

 飾り、彩るだけではなく人々は作品を売買していた。自分の描いたものたちを、自分たちが納得する金額で販売する。バルドゥール曰く、この葬式の日に合わせてアグラヴィータにやってくるバイヤーも存在するらしい。上手い画家をこの機会に拾い、外部で人気を博すということも少なくはないそうだ。画家輩出の場としてもこの葬式は機能する。その際、人々は葬式ではなく卒業式と揶揄することもあるそうだ。

 その循環にほう、と先生は感心する。言い得て妙だと。現世からの葬式、アグラヴィータからの卒業式。ならばたまにアグラヴィータに戻って描くのは同窓会ですか、と先生がバルドゥールに茶化せば、彼はそれを喜んだ。

「同窓会! いいですね先生。実は殆どがアグラヴィータでしか作れないインクを求めて、買い付けにくるようなものなのですが……いやいや、それは良い言葉です。ありがたい。私たちのことを尊重してくださっているのですね」

 気分を良くしたのかバルドゥールは黒いエールとピーチティーを注文して、それを先生とコルに分け与えた。それから赤いサルサソースがたっぷりのナチョスをよこす。「祭りですからな!」バルドゥールは語尾にそう付けることで、あらゆるものを先生とコルに食べさせた。色無し玉子で作った妙に黒いタルタルソースと白身魚のフライに、レタスなどを千切っただけの簡単なサラダ。そのどれもが食べ歩きができるよう片手で持てる包みに入っている――のだがバルドゥールが多くよこすので、両手にいっぱいの食料を先生とコルは持つことになってしまった。

 このままでは歩いていられない、と三人は昨日世話になったカフェに腰を落ち着けることにした。店のものではない食品を手にやってくるのは失礼では、と先生とコルは思った。しかし元よりカフェは葬式の日に合わせて休業し、席だけを開放しているそうで、なんとも都合が良いと二人は呆然とした。

「別に今日商売をするな、というわけではなくカフェを開けば混み合って手が回らない。ケータリングにすれば都合がいい。場所はあるから提供しよう、ということです。もちろん汚くしすぎたら怒られますがな!」

 バルドゥールがチリソースのかかったフライドポテトを食しながら言う。折り合いはついているようで何より、と先生とコルは胸を撫で下ろした。

「それにしても……本当に一夜にして鮮やかになったものですから、驚きです」

 コルが乾いたインクまみれの床、椅子、テーブルを見ながら言う。

 昨日のカフェの内装と言えば、落ち着いた白黒のものだったのに、何処からか持ち出したのか内装もおしゃれを損なわない程度にインクまみれだった。どこか弾けたような芸術に様変わりした内装に目を見張らぬわけがない。コルは落ち着かず、辺りを見渡し続ける。

「夜分はそこまでうるさい訳でもなかったと思いますし、誰もが沸き立っていた……とも感じなかったのですが、アグラヴィータの人々はどのようにしてこの芸術を生み出したのですか?」

「芸術と言えど労力ですよ。夜遅く……いや朝方まで取り掛かったでしょうね」

「ええ! そんなにですか? そうは思えません……だってみなさん、しれっと昨日を過ごしていたではありませんか。そんな、不思議です……私なら浮かれ切ってしまいます!」

 コルが揚々と発言する。もし、コルがアグラヴィータの人間であったのなら。彼女は葬式という人を喪う旨であれど、嬉々とした側面を大きく受け取って考えるのだろう。その証拠に彼女の頑丈な瞳には大きくカフェに飾られた色彩のカンバスが映っていた。

 先生がふいに笑い出す。

 ぷい、とコルが頬を膨らませては、すかさず抗議した。

「なんですか! 先生は、おかしいと仰いますか!」

「いや、違うんだよ。コル、君がその……あまりに純粋にアグラヴィータを楽しんでいるものだから、僕はどう話すべきか悩んでしまったんだ」

 眼鏡の鏡面を拭きながら先生は話す。フライやナチョスの油でぎとぎとの指先も拭い、彼はコルに諭す。

「わかっていると思うけれど、レポートの用意はできているだろうね、コル」

 先生の一言でコルの背筋がピシャリと伸ばされる。コルは口早に自分のやるべきことを誦じた。

「あっ……! も、もちろんです、先生。アグラヴィータの色彩学を学ぶのですよね。フィールドワークの一環として、私はこの美術神郷を学ばなくてはいけません」

「そうだね、コル。明日の神を覗く者の見学を終えたら、君は色彩学に必死にならなくてはいけないな。もちろん君の手伝いはするけれども、僕も僕でアグラヴィータの人々に僕の研究の話をしなくてはいけない。講演中に君は見学をしてもよし、けれどきちんとレポートは書くこと。それが僕と君の約束のはずだ」

 あくまでこれはフィールドワーク、学びの旅であると先生は語る。彼の言い分は正しく、隙がないのでコルは大人しくしおしおとナチョスにサルサソースを付けて口に運んだ。「はい、先生」先ほどと打って変わって、落ち込んだコルの声が響く。

「アグラヴィータの素晴らしさに目を見張るのはよろしいけれど、これは一応フィールドワークという名目だから、よろしくお願いするよ。レポートが詰まったら言いなさい。手伝いをしよう」

「はい、先生。よろしくお願い致します……」

 これから課されるレポートの重みを感じながら食べたナチョスは、サルサソースの辛味があるだけで大した味がしなかったと後日コルは語る。

 先生とコルのやり取りを認めたバルドゥールはほう、と感心していた。

「先生は意外と手厳しくいらっしゃる。こんなに可愛いお嬢さんにも、レポートだフィールドワークだときちんと学生であることを教えるのですね」

「はは……一応僕の給料、いわば研究費でこうして旅ができていますからね。彼女にも少し手伝ってもらわないと、割が合わないのです」

 参った、と言わんばかりに先生は言う。

「そうですか? 先生は大鴉の……神話研究の権威でいらっしゃる。大鴉先生などと呼ばれるのも珍しくない。そんなあなたが研究費の心配をするなんて、私がパトロンの心配をするようなものですよ!」

 がはは、といつまでもバルドゥールは明るく笑い飛ばす。

 事実、先生の懐は――研究費は潤っていた。が、それは今後の研究を見据えての予算である。予想外の支出こと、喪服が既にあり、今後交通のためのバイクも買う予定であるから、これ以上は出せまいと彼は強く念じていた。

 それから三人はバルドゥールが大量に渡してきた食事たちをすべて平らげた。殆どはコルが笑顔で食べた。コルは雑食の気がある。なんでも美味しいと言って食べるので、舌が機能していないのではと先生が疑う日もあった。特に砂を食べた日は――その話題をバルドゥールに提供しようとして、先生は口を噤んだ。やめておこう。バルドゥール画伯の性格上、彼は一生笑っているだろうから。

 アグラヴィータの宴、葬式は夕暮れになっても続いた。

 先生とコルはバルドゥールの案内でアグラヴィータの人々の作品を見るだけではなく、売り買いする場にも足を踏み入れた。そこには葬式の日を目指してやって来たのだろうバイヤーが押し寄せていて、話にならなかった。公正な場で行われぬオークションはぎゅうぎゅう、ごった返し、無理矢理に人を押し込めた箱詰めそのものだった。三人は遠くからその様子を見るだけに留めた。オークションにかけられている作品も、それはそれは素晴らしい宗教画だった。

 オークションだけではない。画材の安売りも行われていた。素晴らしい絵画には優秀な画材――一流の人々は、材料が優れずとも劣らぬものを創り出すが、道具があるに越したことはない。先生とコルが世話になった馬車の主人もその売買を目的にやって来たらしく、にこやかに二人を歓迎した。主人が売っているのはそこまで値が張らない画材で、まだ稼ぎを知らない子どもや学生に評判らしい。

 主人は愉快そうだった。「こんなに画材が売れる日がありゃ、半年は困りませんよ」と。

 誰しもが陽気であった。死に暮れる人々など、どこにもいなかった。

 そもそも葬式という儀式めいたものはここでは行われないのだとバルドゥールは語る。

 他の都市でするような、火葬、埋葬などの死体に関する一連の作業は既に終えている。ただこの葬式は祭りの側面が強い「あなたを忘れない」という願いの墓標だと彼は表現した。

 アグラヴィータの墓場は、“神を覗く者”が鎮座する教会にあるのだ。

「神を覗き、祀る場所にこそ魂は眠るべきです。そこには神が近しい隣人としていらっしゃるでしょう」

 神妙にバルドゥールは口にした。その姿を疑う者は、誰もいなかった。

 太陽が沈みかけるその前に三人は解散した。コルが着ていたドレスはどこかよれよれで、先生のジャケットはパリパリしていたはずなのに、気迫を失っていた。

「よく歩いたね、コル」

「先生こそ」

 二人は笑った。一日にしてぼろぼろになったドレスとジャケット一式は、良い土産になったと笑い飛ばした。

 先生とコルは互いの寝準備を済ませてからラウンジで合流した。

 二人は窓の外からそうっとアグラヴィータの様子を観察する。暗闇の中にうっすらと灯る街灯の先には、まだまだ飾り足りないと酒で酔っぱらった人々が思い思いにカンバスに絵の具をぶちまけている最中だった。どこまでも美術に心を打たれた人々が住まう場所なのだと思い知らされる。

 コルは黒の眼鏡から昨日と同じ丸眼鏡に変えた先生を見つめた。

「なんだい、コル」

「先生はその、眼鏡の類を収集することが趣味ですが、彼らのように美術などは嗜まないのですか?」

 その問いかけに先生は首を傾げた。

「美術……はそれこそ学術的価値ならわかるけれども、センスとしては皆無だよ。絵も授業に使える程度に整えただけだよ」

「そうなのですか?」

「僕は先生だけれど、何もかもを器用にやれるわけではないよ。僕も人間だ。得手不得手は存在する」

 先生は丸眼鏡の位置を正した。

 コルは先生の、その謙虚な姿勢が好きだった。

 バルドゥールが話したように先生は神話研究に長けた人間だ。彼と肩を並べる学者は少なく、あらゆる学生が彼の下で学ぶことを求めている。けれども先生は傲慢になることなく、学生を完璧な下に見ることもなく、対等に、時には律するように指導する。だから余計に人気を博しているのは、コルの求めるところではないのだけれども――それは別の話。

 コルが先生にフィールドワークのお供として選ばれた理由は彼女自身もよくわかっていない。彼女以上に学びに熱心な学生はいたし、優秀な人材もいた。ただコルは、先生と旅がしたい一心で立候補したに過ぎない。

 彼女の、コルの願いは「この世界で最も美しいものを探すこと」だ。

 先生となら、それができると考えたのだ。間違いない! と講義を初めて聞いた日のことを彼女は今でも覚えている。『大鴉様の旅立ち』について解釈を述べ、さらには大鴉様の祝福の新解釈を打ち出した彼は、真摯に世界と神を見つめていると思ったのだ。

 コルは思った。「この人の視点で世界を覗きたい」と。同時に「一緒に旅をしてみたい」と。

 その願いが叶った今、便宜上とはいえ先生に迷惑はかけられない。彼女の真なる願い――「この世界で最も美しいものを探すこと」は既に先生に伝えているが、フィールドワークの課題を忘れて良い言い訳にはならないのだ。

「それで、コル。明日はついに神を覗く者の見学だ。同時に教会……バルドゥール画伯が聞いた話だと、墓地に向かうことになる」

「はい、先生」

「葬式はまだまだ続くという話だ。明日は黒い服ではなくて、好きな服を着よう。僕らも美術神郷に則って、神を飾ろうじゃないか」

「はい!」

 先生の提案にコルは満面の笑みで答えた。

 教え子があまりに溌剌として笑うので、先生も穏やかに口元を緩める。

「君の探す美しいものがここで見つかるといいね」

 彼はごちた。その言葉にコルはさらに目を輝かせて、ぎゅっと希望に満ちた手のひらを固めるのだった。

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