第三話:“神を覗く者”

 その日、コルは少し早く目覚めてしまった。まだ太陽が顔を隠しながら登り始める頃だった。

 彼女は二度寝をしようと寝返りを打つが、なかなかうまくいかない。微睡みはどこかへ旅立ってしまったようで、瞼を軽く擦ってベッドから起き上がった。

 膨れたトランクの前にしゃがみ、中身を暴いていく。お気に入りのケープとベストたちを取り出し、コルは服に袖を通す。顔を洗い、簡単な化粧をして音を立てぬよう部屋を出た。

 白黒の世界は静かだった。店主たちも――あくせく働いているのは大抵掃除屋程度のものだったが、その彼らも存在しない。今の期間は葬式なのだ。ほとんどの職業が休日と制定しているらしい。

 廊下にはコルの靴音しか響かなかった。

 利用客用の出入り口は簡素な鍵がかかっているものの、事前に施錠番号が知らされている。その通りにコルは鍵を開けて、眠る美術神郷びじゅつしんきょうに足を踏み入れる。

 びちゃびちゃのインクやペンキに絵の具。それから少しの飾り付け。

 さまざまな色が織りなす世界は夜に大騒ぎしていた人々こと、酒を浴びた者たちによってさらに鮮やかになっていた。目に刺さるような極彩色でさえ取り扱い、柔軟なセンスで街を飾っている。その色にしようと考えた人々はなんというセンスなのだろう、とコルは感嘆せずにはいられなかった。

 素敵な場所だ、とコルは思う。

 そもそも彼女は、学士の街から出たことがなかった。生まれは違う場所だと聞いているが、彼女が育ったのは学者輩出に年がら力を入れている学士の街だ。そこは本と勉学しか娯楽のないような場所で、時折珍しく人が成長するかと思えば作家になるのだ。学者か作家、そのどちらかしか生まれないので、学作の都とも揶揄されることもある。

 美術、芸術についてはなんとなく知っているつもりだった。しかし、ここまで体を揺さぶられるものだとは思わなかった。アグラヴィータの芸術に触れるたび、コルの心は輝き始める。美しいという感情に支配される。こんなものを日々甘受しているアグラヴィータの人々は、どんなに肥えた目をしているのだろう。そんなことを考える。

 おそらくこれが、感銘を受けると言うことだ。コルはそう解釈した。

 コルは手頃なベンチを求めて歩き始めた。美術を楽しむ者たちのために、アグラヴィータでは豊富にベンチがある。問題なのは、そのベンチにも芸術を施してしまい気軽に座れなくなってしまうことらしい。

 どこかに座れる、芸術的価値の低いものはないかと見渡す。

 その時だった。

「きゃーっ!」

 女性の声が上方からした。

 思わずコルはその方向を見る。そして自分に降りかかってきているものに気づいてしまった。

 大量の水。

 それらは不定型ながらもほんの少しのまとまりを持って、コルの頭上に降り注がんとしていた。

 慌てる。コルは慌てるが――そう簡単には避けられるはずがなかった。

 次の瞬間、コルは頭上から思い切り水を被った。ばしゃ! と大きな音を立てて水は地面に落ち、コルを水浸しにした。

「……え?」

 訳のわからぬままコルは女性の声がした方向をもう一度見やる。

 そこにはあらぬ方向に――コルのいる位置よりずれた場所を見つめて「大丈夫ですか!」と叫んでいる女性がいた。

「だ、大丈夫ですよー……」

 コルはなんとか声を絞り出す。覇気があるとまではいかないものの、彼女はなんとか女性に答えた。

 すると女性はハッとしたようにコルの方へ向き直し「すみません!」と発する。

 女性がいるのはとある家屋のバルコニーだった。バルコニーからはプランターなどが下げられている。どうやら水やりの最中だったようだ。

「すみません……すみません! ああどうしましょう。素敵なお嬢さんを水浸しにしてしまったわ。あ、ああ……!」

「お、お気になさらずー!」

「そうはいきません! いきませんもの。お嬢さん待っていて。今、息子をそちらにやります!」

 ばたばたと女性は急いでバルコニーから家屋にすっ飛んでしまう。

 コルは小さくくしゃみをして、彼女の言う息子を待った。何も言わずに立ち去ることもできただろうが、そうはしなかった。立ち去れば、きっとあの女性は暗い表情のままこの一日を過ごすだろうから――それがコルは嫌だった。

 しばらくすると、女性が話していたのだろう息子がやってきた。

「お姉さんですか? ママの水浸ししちゃった、さん」

 少年は黒髪に空色の瞳をしていた。癖毛のせいであらぬ方向に髪が跳ねているのが特徴的で、舌足らずだった。六歳ぐらいに見える。白のワイシャツに鳶色のベストと半ズボンを穿いていた。

「え、ええ。そのママという方が、あのバルコニーにいらっしゃった方なら」

 コルが答えると、少年は頷く。「こっち」と手短に伝えて先導を始めた。

 少年は迷わずママこと女性がいたバルコニーのある家屋の扉を開ける。

 おずおずとコルが入れば、そこには両手の指を絡めて祈る女性がいた。

「神よ……神ある者を浸したことをお許しください! その節は、大変申し訳ございませんでした……!」

 女性が癖のある白髪を下げる。柔らかな印象だが、どこか少年と同じようにうねる髪型から血筋というものを感じずにはいられなかった。

 そして女性が顔を上げた瞬間、コルは驚いた。

 その瞳には色の一つも存在してはいなかった。

 真白の虹彩――真白の眼球。かろうじて虹彩の輪郭は掴めるものの、ほとんど白いそれは意味を成してはいなかった。どこを見つめているのかが不思議なほどだ。

 コルはそれを見て、恐ろしいとは思えなかった。否、想像することをためらった。それがどうしてできているのか、どうして彼女があらぬ方向を見ながら謝っていたのか。それは自ずと導けてしまった。

 彼女は、盲目なのだ。

「い、いえ! 私もぼーっとしていたのが悪いのです。本当にすみません。お構いなく……!」

「そういうわけにはいきません! セティ、私の服を用意して。サイズはわからないけれど、この家には女性用の服は私のものしかないから……」

「わかったよママ」

「だっ、大丈夫です! 本当に、本当に大丈夫ですから!」

 セティと呼ばれた少年が別の部屋に行ってしまいそうになるのをコルは玄関口で必死に止めようとする。そこまでしてもらわずとも、トランクには着替えがまだある。それに着替えてしまえばいいだけのことだ、と言おうとした矢先、聞き慣れた声がガハハと豪快に笑った。

「セティ、お嬢さんとママは同じサイズだよ。気にせずとっておいで」

 快活な声は男性のものだった。声のした方を見れば、黒の眼帯をした黒髪の男が立っている。それは一昨日、昨日と同行をした男のものだった。

「バルドゥール画伯!」

「おはようお嬢さん! そしてこんな形でお披露目するとは思わなかったが、紹介しよう! これが私の家族――妻のナーナと息子のセティだ」

 バルドゥール画伯が女性と息子を支えながら登場した。朝からなんと大きな声だろう、と不思議に思う一方で、コルには聞きたくて仕方がないことができた。

「あの……バルドゥール画伯」

「なにかね、お嬢さん」

「バルドゥール画伯の赤色の髪は……どちらへ?」

 昨日はペリドットの瞳が目立つ緑色と記憶していたはずなのに、今の彼ははっきりとした黒色の髪をしている。コルは大層驚いて、失礼ながらもバルドゥールの髪を指した。

 一本だけ自身の髪を引き抜いて確認するバルドゥール。そして彼は――やはり豪快に笑った。

「お嬢さん! あれはかつら、かつらです! あっはっは。一夜にして染まる髪もなかなか愉快ですが、髪が傷んで仕方がないでしょう。ふふふ。なかなかの着眼点です」

 バルドゥールはにかり、と歯を見せる。

「あなた、お嬢さんは困っていない?」

「困るどころか少し疲れているようにも見える。セティ、着替えを持ってきてくれ」

「わかったよパパ」

「あっ、あの!」

 今度はバルドゥールの命を受けてセティが動こうとする。コルは一歩前に出てセティを止めようとした結果、大きなくしゃみをひとつした。

「寒いだろう、お嬢さん。少し温まっていくといい。身体を拭くタオルも用意しよう。何、先生には私から伝えておくよ」

「そ、そうですか……? 朝食までには戻りたいのですが」

「それなら朝食もうちで食べるといい。これも何かの縁だ。神の色使いのままに楽しもう」

 バルドゥールはさらさらと紙にペンで書き置きを作ると、セティに持たせて先生とコルが泊まっている宿へ渡すよう伝えた。セティは聞き分けの良い子どもで、バルドゥールの言うことに従順だった。

 セティが戻るまでの間、コルは全身をバルドゥール夫妻から借りたタオルで拭いた。ふかふかのタオルに顔を埋めていると、セティが先生を連れてやって来たので、コルはどたばたしながら着替えることになった。

「コル。これはまた災難だったね」

「はい、先生。朝の散歩のつもりが、朝食をごちそうになってしまいました」

 セティが先生を連れてきたが、先生が寝癖をそのままにやって来たのでコルは苦笑した。それほどに早い朝だった。

 先生はバルドゥール夫妻に頭を下げると、その妻ナーナに首を傾げた。彼はそれ以上に言及することなく、コルの隣に座った。

「おはようございます先生! うちのナーナがご迷惑をおかけしました」

「いや、ご迷惑だなんて。怪我がなくて幸いです」

 出された朝食は色無し玉子の目玉焼きと黒パンに、カビ付チーズだった。「こうすると色が消えます」などと言いながらバルドゥールがカビ付チーズに目玉焼きを載せると、熱のせいかカビ付チーズからうっすらと色が消えていく。

 コルが目を丸くする。

「こうやっていつも食事をしているのですか? 色を消す……ということを?」

「あはは! これは一種のおもてなしです。そこまで気を遣っていては食べられるものも食べられなくなってしまう。食べないと描けるものも描けなくなってしまいます。ええ、本当に!」

 朝であることを忘れるほどにバルドゥールが豪快に話すので、時間感覚を忘れてしまいそうだった。コルはバルドゥールがしたようにカビ付チーズに目玉焼きを載せ、黒パンをもそもそと食べた。

 バルドゥールの影響を受けていないのか、それとも反面教師にしているのか。妻のナーナと息子のセティはとても静かだった。ナーナは盲目であることを除けば、ただ慎ましやかな女性であるという印象を受ける。物の置き場は常に決められているのか、家の中では何不自由なく過ごせているようだ。息子のセティはナーナの手伝いをしながら、時にバルドゥールの指示通りに少年は動く。

 聞けばセティはまだ七歳だという。予想より少し年上であることには特別驚かなかったが、七歳と言えばやんちゃ盛りのイメージが強い。

 先生もそのことを非常に褒めていた。「セティくんは大人しい子ですね」と聞けば、バルドゥールがそうだろう、と胸を張る。日々妻の世話を焼き、父の美術を学ぶ熱心な息子だと彼は説明した。

「いやしかし、ナーナが水を被せたのがお嬢さんだとは思いませんでした。久しく彼女が階段から転げ落ちそうになるものですから、緊急事態であることは間違いありませんでしたがね」

「かっ、階段から!?」

「安心してください、コルさん。いつもこの人が階段から降りるときは一緒にいてくださいますから。そのおかげでほら、怪我はありませんし」

 ナーナが穏やかに話す。

 ナーナの話し方はどこかのんびりとしている。よく透き通った声に、透明にも見える白髪が輝いて美しい。普段は目を伏せているようで、あの真白の瞳は見えることがない。

「それは素敵な夫婦関係ですね。羨ましいほどです」

「はっはっは。先生だって素敵な女性の一人や二人いらっしゃるでしょう。お嬢さんだって、いそうなものです」

「それはどうでしょう? 僕は勉学にばかりですから。コルは……コルは? どうなんだい?」

「へ? 男性には……今のところ興味がありません。先生との旅のことばかり、考えています」

 突然話を振られ、かじりつこうとした黒パンが落ちそうになる。コルは回らぬ頭のまま、すっと出てきた言葉を素直に告げた。

 彼氏だとか恋人だとかに興味はあまりない。素晴らしいことだと思うが、自分が今うつつを抜かして良いものではないと考えている。ただ、彼女が考えるべき、行動するべきものは先生との旅についてだった。美しいものを探し、見て、書き記す。持ち帰るのも良いかもしれない。そうやって彼女は考えていた。滔々と日々を過ごしていた。

 だから、コルは自分の答えが正解か不安になった。バルドゥールが落とした淀みに顔を曇らせ、先生の方を見る。

 先生は困ったように笑った。

「そういう話があってもいいんだよ、コル。人生は健やかに自由に過ごすものだから」

「ですが」

 コルが言い掛ける。先生が止めて、彼はバルドゥールに言う。

「でも僕との旅に執心というのは、学生ながらによく楽しんでいる方だと思います。大抵の子は、目先の楽しさに浮かれてしまいがちです。僕のフィールドワークは、まあ、講演行脚とも言いますが、学士の街にはないものばかりですから。だからコルはよくやっています。問題は輝くものに目がないことですね」

「あっはっは! それはいい。先生の恋人は勉学と研究で、お嬢さんの恋人は先生の旅路というわけですか。良い題材です。これで一つ絵でも描けそうだ」

 先生の回答に気を良くしたバルドゥールは隣に座るナーナの肩を抱いた。こくこくと真摯に頷いていたナーナは突然肩を抱かれ、ふふふと口元を緩める。

 コルはどこかほっとした。その様子は先生にも伝わったようで、彼も穏やかな表情をした。

「そういえば奥様も絵を描かれるのですか?」

 切り返し、と言わんばかりに先生が夫妻に問う。

「あまり描きませんね。行事の時にしか。それもインクをぶちまける程度なのですが」

「行事というと……葬式の日々などに?」

「ええ。先生の仰るとおりです。私、“神を覗く者ミスティルテイン”のある教会のシスターなのです。神郷画家しんきょうがかは、大抵そこの者らと関係がありますから」

 ほう、と先生とコルが興味深そうに目を輝かせたのをバルドゥールは見逃さなかった。

「知りたいかな? 私とナーナの出会いを……?」

「ぜひ! ぜひっ!」

 食いつくようにコルが答える。しかしバルドゥールの返事はいたってシンプルだった。

「ナーナが黒白の世界でも、私の作品を愛したから。それだけのことだよ」

 もったいぶった口調からはあまりに簡潔なそれに、コルは呆けて、先生は頷いた。

「バルドゥールの作品は素敵です。彼の彩る世界は私という盲目の人間でも理解できるの。それはかつてないことだわ」

「え、ええと……すみませんナーナ夫人。盲目の世界で見るとは、どのようにするのでしょう。私には想像できず……」

 おずおずとコルが言えば、すく、とナーナは立ち上がった。

 ポケットから一枚のポストカードを彼女は取り出す。そこには色彩豊かな湖が描かれていることは、コルにも理解できた。しかしそれはコルが色彩を失っていない瞳を持っているからで、ナーナには理解できないものなのでは、とコルは考えてしまう。

 すす、とナーナはポストカードをコルの前に差し出し、なぞる。

「ここに木々、ここに湖……色は緑にピーコック。全体が緑を中心に描かれた、若きバルドゥールの作品よ」

「見えるのですか?」

「見える……というより触れているからかしら。別に神通力でもなんでもなくて、そこに何があるのか、どう描かれているのか、どの色なのか……確かに説明は必要だけれども、それらが合わさることで見えるの。素敵なことね」

 ナーナは間違いなくコルに向かって微笑んだ。

 信じられない、と言わんばかりにコルが目を丸くしているので、先生が背中をつつく。ハッとしたコルはさらに混乱して先生に助けを求めた。

「触れて知る、ということですね。奥様」

「ええその通り。神を失った私には、この肌色の筆……指こそが世界を知る画材です」

「素敵な画材ですね。バルドゥール画伯とはいつからのお知り合いですか? その画材を手に入れた時から?」

「いいえ、その前からです」

 元の椅子に座り直し、ナーナはぽっと頬を染めながら話し始めようとした。

「バルドゥールと出会ったのは――」

「ママ、もう行く時間だよ」

 セティが彼女の言葉を止める。時計を見れば――と思いきやナーナがセティが渡した時計の長針と短針に触れる。彼女の画材は、たちまち時間の真実を教えた。

「いけない! もうお披露目の準備をしなくては。先生、お嬢さん。私はこの辺りで失礼します」

 ばたばたとナーナは部屋から出て行く。するすると何にもぶつからずに部屋から出て行くので、コルは息を呑んだ。

 部屋に残された四人は顔を見合わせ、肩を竦める。

「先生、お嬢さん。我ら葬式――葬式は七日ほど続く展覧会のようなものなのですが、二日目からは限定的に“神を覗く者”を公開するのです。それに教会の者らが関わるのは必然でしょう」

「ああ、奥様はその手伝いに向かわれたのですね。一人で大丈夫でしょうか?」

「大丈夫ですよ先生。彼女は教会までの道ならもう覚えております。何かあれば彼女を助ける住民もいる。ご安心ください」

 バルドゥールは既に窓の向こうで走るナーナを見つめて微笑んだ。

「……信頼していらっしゃるのですね」

「そうです。私の妻は愚かではない。とても伸びやかで素敵な女性です」

 彼は彼女を表現するように伸びやかに話す。

 コルは彼の中に煌めきを見つけた。とても素敵な夫婦関係だ、と思わずにはいられなかった。

「……と、いうことは」

 先生がコルの感動を遮った。興奮に震えた声で、今にも彼は飛び出しそうだった。

「今日“神を覗く者”が見られるということですね!」

 はしゃぐ子どものように先生が言うので、感動に心をとられていたコルもハッとした。バルドゥールの言葉が正しければ、自分たちは今日まさに“神を覗く者”をこの目に焼き付けることができるのだ。それ以上に驚くことなど、あるものか! 数秒遅れてコルは目を輝かせ始めた。

 バルドゥールが上機嫌に鼻を鳴らす。

「本日正午に教会でお会いしましょう」

 バルドゥール宅で食事を終えた二人は宿に戻った。

 特にコルは濡れた洋服たちを干さねばならなかったので、急いで干した。それから二人は、明日に行われる先生による『神郷美術史・新解釈びじゅつしんきょうし・しんかいしゃく』の講演のための書類のチェックを始めた。

 コルは講演があることを今日突然に聞いた。先生が大漁の紙を抱えて宿のラウンジを占領しているものだから何が始まったかと思った。聞けば、元からそのつもりで準備をしてきたのだという。バルドゥールからも了解を得ているとのこと。

「言ってくだされば私も手伝いましたよ、先生」

「あはは……でもコルには僕の手伝いより、他のことをしてほしいんだ。君と僕の美しいものを探すには、僕の手伝いなんかしていられないだろう」

「そのわりにはレポートを課しますけどね」

「それとこれとは別さ」

 何枚かの紙をまとめて一束にまとめていく。それを数十冊ほどまとめて、紐で括ってやれば簡単な冊子の出来上がりだ。

「これ……群青ですか?」

 コルが紙をまとめた紐を取り上げながら言う。

 金箔が混ぜ込まれた、細い紺色の――群青に近い色をした紐だった。

 ああ、と先生が神郷美術史に付箋を挟み込みながら話す。

「そうだよ。群青はここじゃ夜の色だと言われているね。夜は大鴉様の色……そういった意味からも、高級な品さ」

「研究費をこんなところに使っているんですか?」

 コルが先生を睨む。

「そ、そうじゃないよ! これはたまたま僕の家にあった古い紐さ。お金の少しも使っていないよ。研究費はちゃーんと守っているさ」

「本当ですか?」

「本当だよ! コルは疑り深くなったな……」

 やれやれと言いながらも先生の口元は微笑んでいた。

 コルは手元の紐を眺める。夜の色。大鴉様の色。そして自分の瞳の色――何かが繋がっているような気がして、首を傾げる。

「もしかして私のことを、たいそう褒めそやした皆々様は、私ではなく、この瞳に価値があるからそうしたのでしょうか?」

 思ったことをそのまま彼女は口にした。

 群青の瞳は掛け値無しに美しいというわけではないのだろう。その信仰ゆえに価値があるとするならば、それはどこか奇妙で、薄ら寒いような気がしてならなかった。何故ならコルというその個人を見て認めたのではなく、彼女が群青の瞳を持っているから認められるのだ。コルという人格は関係なく……そう思うと、コルは得体の知れない恐ろしさに襲われた。

 コルが顔色を青くするので、先生は神郷美術史から顔を上げて彼女を支えた。背中をさすり、座るよう促す。

「そうだとしても、コルが無価値というわけではないさ。僕にとっては唯一無二の教え子だよ」

「先生……」

「けれど……どうして瞳に執着するのだろう? “神を覗く者”と関係があるのかな? それとも大鴉様の関係か……気になるところだね。コルはどう思う?」

 落ち込むコルに話題の転換を促した先生は、束ねた冊子をしまう。同時に流れる動作でコルが手に取った紐も奪った。

 唐突に意見を求められ、コルは悩む。瞳とインクの抽出機。それらが重なる宗教に何がもたさられるのか。コルは悩んだ挙げ句、「まさか」とは思うものの口にした。

「瞳からインクを抽出しているとか……そんなことはないですよね?」

 先生は目を丸くさせた。それから彼ははにかんで「その発想も、また一つの言論になるさ」とコルの心も丸く収めた。

 日が昇っていく。

 太陽が天井そのものになった頃、二人は宿から飛び出した。

 するとアグラヴィータの人々はまるで取り憑かれたかのようにある方向へ歩いていることがわかった。皆一様に向かっている。葬式の中心――葬式会場こと教会に向かって。

 先生とコルも流れに逆らわず、そのまま流れに沿って進んでいく。アグラヴィータの中央には“神を覗く者”が鎮座する教会がある。

 美術館ではなく、教会があるところが美術神郷らしい、と先生は言う。

「人は何を置くにも大切なものは中央に置いてしまう習性があるらしい。それは家でも、街でも、国でも同じ……つまりは、美術神郷において最も重要なものは、間違いなく“神を覗く者”なんだろう」

「インクで栄えているから……というだけではなさそうですよね。やはり色彩を神とするその生活にも即している」

「そうだよ、コル。生活と神話は共存するものなんだ。だからこそそれを語る人々は自然であるし、その思想も妨げられてはならない」

「妨害されることがあるのですか?」

 純粋な気持ちでコルは問うた。人に流されながら、けれど先生のコートを掴むことでどうにか歩けている彼女が、ぽっと浮かんだままに口にした言葉だった。

 先生はコルの方を振り向き、少しだけ眉を下げる。

「思想と思想がぶつかり合うとき、そこに神は存在しない。神を崇拝する人間がいるだけ……ならば、争いが起きてしまうのは必然だろうね」

 そういえば、とコルは思い出した。先生が怒っている姿はあまり見たことがない。というか、生徒を叱ることはあれど激怒するレベルに達している様子を、彼は見せたことがないように思う。

 大人の余裕と語れば一口で済む話。しかしコルには彼の言葉に自然と頷いていた。そういう理由で争わないのだと、彼は言っているようだった。

 教会が近づいていく。

 教会は真っ黒の建物だった。それを囲う柵などがかろうじて白く、屋根や壁など見えるものは全て黒い。夜となればその空に溶け込んでしまいそうな具合だった。

 黒き教会に向かって葬式であるから色とりどりの人々が吸い込まれていく。その様子は異様だった。まるで黒い箱が次々に人を呑み込んでいくかのような、いびつさがそこにはあった。

「先生! お嬢さん!」

 赤髪のかつらを被ったバルドゥールが入り口近くに立っていた。彼は二人を見つけるなり大きく手を振る。

 辺りの人々はバルドゥールが手を振った人物として、珍しそうに先生とコルを見つめた。今の彼らは昨日と異なりアグラヴィータに則った――色彩豊かな服装をしているので、そこまでは目立つことはなかった。

「今朝振りです。奥様は中に?」

「ええ、セティも一緒に居ます。ささ中に入りましょう。迎賓席を用意してありますから」

「迎賓ですか!? 我々はそんなご丁寧に扱われるほどの身分でもありませんよ」

「あっはっは! 何を言いますか先生! さあさあ! こちらへ!」

 バルドゥールが先陣を切って前に進む。

 教会の中は外側と打って変わって真白だった。壁や置かれている椅子、教会における意匠の数々が白いままだった。

 そんな教会の中央には大鴉を元にしたのだろう鴉が描かれたステンドグラスがあった。天高く上り詰めた太陽の光を受けて、それは鮮やかな色を床や椅子、真白の世界に落としている。

 美しい光景だった。そこに黒い修道服を着ている司祭らが並んでいるのは、圧巻の一言だった。

「先生、あそこにナーナさんが」

 コルは手を伸ばす。司祭らの並ぶ、ほぼ中央に等しい場所にナーナが存在していた。

 ナーナの背後には黒い銀幕のようなものが用意され、両脇には小さな子どもが一人ずつ、紐のようなものを握っている。その方側にはセティの姿もあった。

「ああ。あの奥に“神を覗く者”があるんだろうね」

「ついにお披露目ですね……!」

 二人はバルドゥールの案内に従ってさらに進む。人の波をかき分け、明らかに特等席であろう二階中央にある席に座るよう命じられた。そこはナーナが見下ろせる場所であり、その銀幕が巨大であることを知るにはじゅうぶんな場所だった。

 コルは席に着くなり、前のめりになって辺りを見渡した。辺りは真っ白で、色とりどりの格好をした人々により物の輪郭がわかる。黒い銀幕の向こうは二階からも見えないように細工がされていた。

「“神を覗く者”はいわばアグラヴィータの企業秘密のようなものです。ですから、葬式の日にだけ、公開がされます」

 ぼそりとバルドゥールが言う。

「まあその巨大さゆえに、盗まれる危険性もないのですがね。念には念をというものです」

「そんなに大きいのですか?」

「見ればわかりますよ」

 バルドゥールがそう言うと、司祭が厳かに叫ぶ。

「皆様、お集まり頂きありがとうございます」

 辺りが瞬時に静まりかえる。

「今日という日を迎えられ、わたくしどもも嬉しく思います。この葬式は我らが隣人のために、あるいは身近な知り合いのために。遠い親戚、近しい恋人。様々な人々がいらっしゃるでしょう。それらはすべて、この日々に奪われるためにある」

 堂々と司祭が言う。

 ――奪われる?

 コルは首を傾げた。先生を見ると、彼も疑問に思ったのか真剣なまなざしで司祭を見つめていた。

「そう、奪われるのです。我らが“神を覗く者”は色を抜く。神を覗き、それを抽出する。ああ、皆様ご安心ください。これは命さえ奪わない! これは神のみを見つめるもの。神にしか興味がないのです。我らが隣人を奪われることはない。これだけは保証しましょう。そして“神を覗く者”が――美術神郷を支えましょう。インク? 絵の具? いやはやその栄華をです!」

 司祭の言葉に拍手が起きる。

 色を抜く。色を奪われる。それは美術神郷の栄華に繋がる。

 コルにはそれがとても恐ろしいことのように思えた。色を失うことがどれほどの恐怖なのかを彼女は知らない。けれどそれは大切な物を失うのと同義のように思えた。

 その恐怖を、この美術神郷に住む人々は知らないのだ。否、恐怖とも思っていないのだろう。だからこそ、コルには恐ろしく思えてしまう。

「ではご覧ください。“神を覗く者”です!」

 セティともう一方の少年が、銀幕に括られた紐を引っ張る。

 するすると銀幕が落ちていく。その先には――目があった。

 それは正しくは瞼だった。長い睫毛の整った瞼。真っ白の背景に、血のように原動力――詳細はわからない――が色とりどりに巡っている。カラフルなそれらが二度発光したかと思えば、ゆっくりと瞼は開けられた。

 七色の、乱反射する瞳だった。

 サイフォンの形をした機械に目玉が付属している。サイフォンのちょうど受け皿に当たる部分に巨大な瞳がある。基本的には透明な硝子で出来ている“神を覗く者”は、透明な管から流れる原動力に思えるものを発光させ駆動している。受け皿の上には透明な硝子で出来た匣の中に、黒ウサギが何羽か入れられていた。

 人々はその異形にも見える巨大な装置に拍手を打った。先生とコルは、何も出来ずただ沈黙を貫いている。

「では“神を覗く者”よ。奪いたまえ、彩りたまえ!」

 神父が指示を送る。

 ナーナが“神を覗く者”の前に立つ。そしてオルガンのような基盤を操作し、“神を覗く者”を動かしていく。

 ごうん、という野太い音の後にぎょろりと巨大な目玉は動き、黒ウサギを睨んだ。値踏みをするように瞼を、目玉そのものを動かし、見定める。

 その後、目玉は何度か瞬きをした。

 瞬きを見送った瞬間だった。突如としてその装置は駆動音を教会内に響かせて、黒ウサギに手を伸ばす。七色に発光していた何かが――管を通り黒ウサギを絡め取る。足掻く暇もなく七色の何かは黒ウサギから色を吸い上げ、白くさせていく。そして色は受け皿に落ちていく。ウサギの数は数十もなく、多くとも十羽ほど。結果として受け皿にやってきたインクは黒いなみなみとしたもので、巨大な受け皿の半分を満たしていた。

 拍手喝采が起きる。

 誰もが“神を覗く者”を崇め讃えている。

 その中には泣き叫んでいる子どももいたが、大人はそれを無視して拍手を送り続けている。

 コルは黒ウサギ――もとい白ウサギが生きていることを確認して、ホッと胸を撫で下ろす。あの司祭の言葉は間違いなかった。

 間違いなからこそ、コルは恐ろしくて堪らなかった。

 “神を覗く者”は無言で目を伏せようとしていた。その最後に、じいとそれはある客席を見つめていた。

 まるで自分が見られているようで、コルは視線を逸らす。そうするしか、なかった。

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