美術神郷アグラヴィータ

第一話:美術神郷アグラヴィータ

「――神は彩部に宿られている」

 今朝方、ようやく目的地周辺にまで移動した馬車の奥で先生はトランクの中から一冊の本を取り出していた。タイトルは『神郷美術史しんきょうびじゅつし』とある。

美術神郷びじゅつしんきょうアグラヴィータ。その地を呼ぶなら、これほど正しいものはない」

 コルは眠気まなこを擦りながら先生の説明を聞いていた。彼は寝つきこそ悪いが起きてしまえばすぐに何か行動ができる人間だった。一方でコルは寝起きが悪い。彼女は頷くだけのマシーンとなっていた。

 先生は神郷美術史の図版ページを開いた。

 そこには白黒のまだ拙い印刷技術で記録された宗教画たちが描かれていた。恐ろしいことは、その宗教画が白黒であるのに躍動感、そこに込められた祈りがひしひしと伝わることだった。

「本当ならばこれに色が……アグラヴィータで言うならば、神が宿るのさ。さて、コル」

「はい、先生……」

 ふああ、とコルが間抜けに大きくあくびをする。

 先生は肩を竦めて眉を下げた。

「アグラヴィータに着いたら顔を洗おうか。仕切り直してコル。覚えているかい。アグラヴィータの特産品はなんだったかな」

「絵画……特に宗教画と、インクです」

「そう。絵画とインクだ」

 神郷美術史のページをさらに捲ると、大きな機械の図面が登場した。球状の何かを抽出するもののようだった。強いて言えば、サイフォンに形が似ている。球状の装置の真下には望遠鏡のように筒のようなものが接続されていた。

 先生がその装置の輪郭をなぞりながら話す。

「アグラヴィータは宗教と絵画の都市。だからこそ、その神が宿るという色には細心の注意を払って作られるんだ。だからアグラヴィータで最も重要視されているのは、絵画ではなくインクさ。そのためこのインク抽出機“神を覗く者ミスティルテイン”は厳重に保管されている」

「アグラヴィータにはその“神を覗く者”の見学に行くのですよね、先生」

「滅多に外部の者には見せないという“神を覗く者”だけれど、今回こうして許可を得られたんだ。どんな色が抽出されるのか楽しみで仕方ないね」

 興奮冷めやらぬ様子で先生が本を閉じる。コルはそれを眺めて、アグラヴィータに想いを馳せた。図面にこそなってはいるけれども、“神を覗く者”と名付けられたそれはどのような装置なのか――想像するだけでも心が躍った。

「なんだい。“神を覗く者”の見学だって!」

 馬車を操っている男が急に後ろを振り返り、二人の会話に割って入った。

「そんなの迎賓レベルじゃねえか! どんな身分なんだい、お二人さんは」

 馬車の荷台に座っている先生とコルを見つめながらも、その手は器用に馬をいなしていた。

 先生とコルは顔を見合わせて苦笑した。

「身分……と言われても、僕とコルはただの教師と教え子なんです。それ以上でも、以下でもないですよ。それに明日から限定公開が行われるはずです」

「んなこたねえだろう。もしかして学士の街からやってきたんじゃないか? あそこは頭の良い先生たちがわじゃわじゃ居て、毎日弁論に事欠かないって言うだろう」

「学士の街の出ではありますが、高尚なのは先生だけです。私はそんな、学位もまだありませんし」

「なるほど。先生の引率ってえわけか! 高い社会見学だ!」

 豪快に男が笑う。それを見て悪い気はせず、先生とコルも頬を綻ばせた。

 それから男は自分のことを語り出した。自分はアグラヴィータで絵筆やカンバスなどの画材を運搬する契約をしている商人なのだと言う。インクこそ有名だが、それは“神を覗く者”あってこそであり、それ以外はからっきしなのがアグラヴィータの悪い部分だと彼は軽快に話した。確かに男の運ぶ荷物はどれも画材だらけで、食料品などは彼が扱う最低限に留められているようだった。

「美術と神に夢中なのはいいが、生活がおざなりなのが問題だ。飯は不味いから気を付けとけ。それから……見た目がよくねえな、あそこは」

「見た目ですか?」

「見りゃわかる。そろそろ到着するぜ」

 男が前方を指さす。

 先生とコルは荷台から落ちないようにおそるおそる身を乗り出して、男の指し示す方向を見た。

 そこには白と黒しかない城壁があった。

 遠く、城壁の向こうを見ようとしても、そこには白と黒しか存在しなかった。見るに屋根や壁がすべてモノクロームの世界だった。城壁の内側がそのように白黒の空間であるのに、外側は深緑の道と木々が並んでいるのだ。

 不思議で仕方がない、と言わんばかりにコルが群青の瞳を細くさせる。しかしどう睨んでも白黒の世界に彩りは存在しなかった。

「あれが正しいんだよ、コル」

 驚く彼女を安心させるように先生が言う。

「詳しくはアグラヴィータの中に入ってから話そう。その生活様式と宗教を知れば、君はより理解するだろうからね」

 コルが何度も目を擦っていたのでそれを止めさせ、膨れっぱなしのトランクを閉じるよう先生は言い渡す。

 馬車での道中なにも事故がなかったことが幸いだと男が話し、検問で運転者とは別れた。

 様々な馬車やバイクなどが荷さばきを行っているそばを二人は縫うようにして進む。

「燃料の補給さえできれば、何か乗ってもいいかもしれないね。やっぱり」

「そうですよ、先生」

 乗り物――特にバイクを見つめながら先生が肩を竦めた。

 検問所はやはり白黒だった。驚くべきはその任務についているであろう人らも白黒の制服を身につけ、毛髪も白か黒のどちらかであることだった。彼らが使用する公的な資料や書類も白黒であり、信頼を示す判のインクですら白黒だった。

 徹底された白黒の世界には、アグラヴィータの中に入らんとする商人たちしか彩りがない。

「コル、あそこだ。審査を受けに行こう」

 先生が示した場所も、やはり白黒の人間と同じ二色で彩られた場所だった。

 アグラヴィータに入るための審査は滞りなく進んだ。というのも、先生とコルには元より“神を覗く者”の謁見許可が下りている。そのために極度に彼らを疑う理由もなかったのだ。異常に膨れたトランクの中身以外は。

 トランクの中身をどうにか説明し、死守しつつ二人は審査を終えて検問所の向こうに足を踏み入れた。

 そこには城壁の向こうから見たものと、そっくりそのままの景色が当然のようにあった。

 屋根が白と黒である。

 壁が白と黒である。

 地面は黒く、白もない。

 道を歩く人々も白黒の服を着て、白髪か黒髪をしている。

 色はほぼ皆無だった。

 美術神郷と呼ばれるには、あまりに寂しい世界が広がっていた。

「……これが、美術神郷ですか?」

 コルが微動だにしない。両手でトランクを持ったまま、彼女はまじまじとアグラヴィータの入り口に突っ立っていた。

 先生はそんな彼女の背中を支えて緩く押した。審査を終えて同じようにアグラヴィータを目の前にして呆然としている人間が他にもいたからだ。彼らはコルと同じように色彩のない世界を目の当たりにして、動けなくなっていた。

「コル。美術神郷たる理由は、その生活にあるんだ。まずは商店街に行こう」

 観光用のパンフレットをコルに握らせ、先生は彼女の背中をぐい、と押した。

 街が白黒であるからと言って、人の活気がないわけではなかった。また、宗教に身をやつしているからと言って、質素であるわけでもなかった。

 アグラヴィータの商店街は実に活気づいていた。色とりどりの食材が街の色彩によってどれもが目立ち、よりいっそう美味しそうに見える。商人たちも服こそ白と黒の落ち着いた色合いのものを着ているが、誰もが楽しそうに街ゆく人々に声を掛けていた。

 商店街の入り口でコルはふとショーウィンドウに映る自分の姿を確認した。黒のケープに藍色のベストと白いフリルシャツ。ベストと揃えのボトムスに黒髪と群青の瞳。そしてぱんぱんのトランクは茶色。それらは、黒を身に纏えどアグラヴィータでは目立つものだった。

「先生」

 か細い声でコルが進もうとする先生を呼び止める。

「なんだい、コル」

「私……目立ってませんか?」

「何を言うんだい、コル。僕だって目立っているよ。このアグラヴィータじゃ、観光客や外部の商人は全員目立つものだよ」

 そう言うので、コルは先生を見た。

 オイスターカラーのロングコートとパンツにボルドーのタートルネック。彼曰く適当に選んだ丸眼鏡の縁は銀で出来ている。コルとおそろいのトランクは彼女のもの以上に膨れている。アッシュグレイの髪はぐしゃぐしゃで、眼鏡の奥にあるのは灰色だった。

 先生をじっと見つめた後に、白黒の人々と見比べる。目立っているのは誰か、一目瞭然だった。

「杞憂だろう? さあ、朝食にありつこう」

 先生はコルの背中をもう一度押した。

 バザールの人々は色彩を纏っている先生とコルを快く歓迎した。にこやかに笑い、二人の服装や髪色、瞳の色を褒めた。特にコルの群青の瞳は誰からも褒められ、一級品のように扱われた。「お嬢さんの鮮やかさに乾杯!」そう言って午前中にも関わらずエールを出されたこともあった。コルは酒を嗜んだことがなかったので、先生が一口だけ代わりに飲んだが、そのエールも真っ黒な代物だった。

 二人はバザールを歩きながらアグラヴィータの日常食である色無し玉子と黒パンのサンドウィッチを食べた。色無し玉子とはそのまま色の無い玉子のことで、生で食す分には黄色の黄身なのに、茹でると黒く変色することが特徴の玉子だ。一般的には忌避される食べ物であるものの、色彩を意図的に遠ざけているアグラヴィータでは歓迎され、日常的に食されている。

 サンドウィッチは微妙な味だった。黄身とパンはどこかパサパサしているし、味付けも塩が妙に足りないものだった。先生は苦い顔をしながら自前の塩を振ってなんとか平らげたものの、コルは忌ま忌ましい顔の一つもせずに完食した。

 食糧に色があることに謎の安堵を覚えながら、バザールの観察を続ける。

 日用品たちも全てが白と黒で構成されたものばかりだった。問題なのはディスプレイをしているものたちも白と黒で整ったものばかりなので、目がチカチカすることだった。

「でも不思議と見づらいわけではないんですね。きちんと考えられて陳列されていることがわかります」

「アグラヴィータの知恵だね。白と黒で生活できるよう、その見た目や見やすさを学んでいるんだろう。話によれば、アグラヴィータの学校では色彩学の他に生活色彩学というものがあるらしい」

「普段の生活に色を必要としないのにですか?」

「色を必要とせずに生き続けるためだよ、コル」

 なるほど、とコルは頷いた。

 バザールをひとしきり観察し終えてから二人は宿に向かった。部屋はいつも二つ取っている。コルが通路の一番奥の部屋になるように、そしてその隣が先生の部屋になるように宿を取るのがいつものことだった。

 二人はそれぞれの部屋でシャワーと仮眠を済ませた。馬車での旅は助かったものの、身体の節々が痛んだのでふかふかのベッドでの眠りは、それはそれは素晴らしいものだった。

 もちろん宿の室内も白と黒で構成されていた。それに関して、先生とコルの感想は同じだった。「トランクの中身が余計に豪華に見える」と。 

「集めていた鉱石たちが輝いて見えました! あれも色彩が成せる技、ということでしょうか。いえ、普段から大切に、それなりに綺麗に見えるように保管をしていたつもりでしたが、もっと綺麗に見えました!」

 コルがはしゃぎながら説明をする。先生はくすくす笑いながらも、彼自身も大きく頷いていた。

「僕もそうだよ。色の薄い服しか着ないと思っていたけれど、こんなに派手だったかな……? と考えるきっかけになった。色彩の魔力かもしれない」

「色彩には、その、悪魔的な何かが潜んでいるのですか?」

 彼女がトランクから取り出した鉱石、本、万年筆や大鴉様の祝福をしまいながら先生に問う。コルのトランクには着替えなども入っているが、開けてすぐに目に入るのはきらきらとしたものばかりだ。コルは昔から、輝くものに目がなかった。

「悪魔的か……どうだろう。どちらかと言えば」

「神が宿っている!」

 先生の声を塗りつぶすかのような声量で、その男は登場した。

 黒と白の混じった毛髪。ただの白髪染めのし忘れだろうが、きちんと整えられているので悪い見た目ではなかった。白いシャツに黒いネクタイとボトムス。鍛えられた胸筋がシャツからあふれ出そうである。加えて右目を白い眼帯で閉ざした、隻眼の男がそこにはいた。

「バルドゥール画伯!」

 先生が叫ぶ。

 先生とコルは着替えと仮眠を終えてから、アグラヴィータの画家であるバルドゥールに会うための時間潰しをしていた。

 バルドゥールはアグラヴィータの知事のような役目を持つ、神郷画家しんきょうがかだ。

 神郷画家――それは神を描く修行をする者だ。アグラヴィータでは、そのように伝えられている。その中でも神を描くにふさわしい色彩の扱いを出来る優秀な人間が、この美術神郷を治めるのである。

 バルドゥールとの待ち合わせには彼のアトリエ近くにあるカフェを使った。自分たちの顔も知らずにバルドゥールは見つけられるだろうか、と不安になっているコルに先生は言う。「こんなに派手な客人を見逃すわけがないさ」と。

 その通りだった。バルドゥールは優雅に登場した。先生とコルの肩を抱いて。

「先生、初めまして。私がバルドゥールです。どうぞよろしく」

「ええ。バルドゥール画伯。このたびは“神を覗く者”の見学許可をありがとうございます」

 先生は立ち上がり、バルドゥールと握手をする。

「いやはや、こちらこそ大鴉の資料をいただき誠に光栄でした。先生は大鴉研究の――各地の信仰、文化に通じている。とても助かりました」

「そんな。文化の補助になれば、それはそれは光栄です」

 バルドゥールはにこやかに話す。

「それで先生、この鮮やかな群青の子は?」

「ああ、彼女はコルです。僕の教え子で、今回お願いした同行者です」

 コルは慌てて立ち上がった。トランクの鍵がばちん、と音をたててかけられる。

「コルと申します。若輩者ですが、どうぞよろしくお願い致します」

「へえ! こんな可愛い子が、教え子ですか。それに……ふむ。色彩もよい」

 紹介されるなりバルドゥールがコルの瞳をじい、と見つめる。バルドゥールのペリドットのような瞳の中で、コルは吸い込まれてしまいそうな感覚を得た。

「あ、あの。あまり見つめられると、緊張します」

 コルがおどおどとしながら発言をするが、バルドゥールは無視してコルの観察を続ける。

「……バルドゥール画伯」

 先生がバルドゥールの肩をつつく。

「ああ、すまない! どうしても美術的観点から見てしまう! うん、素敵なお嬢さんだ。素晴らしい、素晴らしい」

 拍手をしながらバルドゥールはコルから離れた。コルは気難しそうに眉を八の字にする。

「まあ立ち話もなんです。私のアトリエにまずは向かいましょう」

 そう言って彼はカフェのレジに向かおうとした。咄嗟に先生がトランクを持ち、バルドゥールよりも前に先行しようとする。なんとか会計をバルドゥールにもたれることなく、先生は勝利を収めた。

 バルドゥールのアトリエは待ち合わせをしていたカフェの三軒隣だった。黒い煉瓦と白い屋根の家であり、扉や壁で隔てられているというのに、絵の具の臭いがして仕方がなかった。どんなに絵の具やその他の画材たちが積まれているかなど、想像に容易い。

「まだアグラヴィータに到着して一日も経っていないのに検問が終わったと聞いて驚きましたよ、先生」

「途中良い人に出会ったので。馬車に乗せて貰えました」

「それはいいことだ。先生は人を味方につけるのがとても上手い。大鴉を味方につけているのかな?」

「それは……どうでしょうね」

 アトリエの鍵を探しながらバルドゥールがポケットをさぐる。

 彼がまだ手を突っ込んでいない尻ポケットに、色を持たぬよう拵えたのだろう銀の鍵を見つけて、先生とコルは顔を見合わせた。コルから言うのは彼女が躊躇ったので、仕方なく先生がそれを伝える。バルドゥールは豪快に笑って、扉の鍵を開けた。

「まあ、アトリエと言えど、ただの家です。どうぞ」

 バルドゥールがその笑顔と同じように扉を開け放ち、二人を歓迎する。

 彼の言う通り、アトリエはただの家だった。他と違う――世間一般の家と大きくかけ離れているのは、やはり生活も白黒を基調としているようで、色の一切が排他されていることだった。

 机は白。椅子も白。床は黒で壁さえ黒。生活において不便のないように交互に揃えられた白と黒のバランスは、狂気的とも言えた。外観はまだしも、内観にさえ注意を払っているのは、まさしく信仰心故だろう。

 バルドゥールは先生とコルを座らせ、自分は茶を用意しにキッチンへ向かった。

 そわそわと先生とコルは辺りを見渡す。アトリエという割には整っているので、良くも悪くも期待はずれであることは否めない。何か色を探して二人はじろじろとあらゆる場所を観察していく。

 入ってすぐ、廊下を挟んでリビングとキッチンがある。その奥にはさらに上階へ向かうための階段があった。バルドゥールが語ったように家が基礎であることまでは間違いないが、やはりアトリエと呼ばれるのなら絵の一つや二つを見たくなってしまう。

 先生が丸眼鏡の位置を直しながら「早く二階に行けるよう交渉しよう」とコルへ呟いた。その目は本気だった。ぎらぎらと輝いている。

「気になりますか。絵や、画材のひとつもないから」

 コルに伝えた直後、バルドゥールが二人の様子を見て言う。

「あ、いや。そういうわけでは」

「いいんですよ。誰もがここで期待はずれだと決めて、私やアグラヴィータに失望するものです。何せ、私はここの代表――神郷画家ですからね」

 バルドゥールは白のマグカップに紅茶を淹れてきた。紅茶は飴色ではなく、黒に寄った色をしていた。香りはどうやらバニラがしているらしい。芳醇かつ甘い香りが部屋に広がった。

 バルドゥールが椅子に座る。彼はテーブルの下に置いてあった黒の籠から、ある冊子を取り出した。その本には色があった。

 コルが反応する。

「大鴉様の旅立ち……ですか?」

「ご名答。この世界で最も読まれている絵本だ」

 藍色の表紙に黒い鴉の羽根が描かれている。タイトルは金の箔で押されていた。何度も読んでいるのか所々よれている部分があるのが印象的だった。

「この絵本は、今の版だと先代の神郷画家であるフレイヤが描いていて、この世界に生きる者なら一度は読んだことがあるだろう教育書でもある。内容は言わずもがな……いや、語ってもらいましょう。お嬢さんの目が話したそうに輝いている」

 バルドゥールはコルを指名した。

 コルは一度先生を見て、許可をもらうとゆっくりと大鴉様の旅立ちを諳んじる。

「大鴉様は、この世界を見守っていらっしゃる」

 彼女の透き通った声が部屋を夜空で彩った。

「朝は空をお飛びになり、その姿を小鴉にして、私たちを見守っている。夜はこの世界という止まり木に降り立ち、その羽根で覆っていらっしゃる。こうして大鴉様は、私たちを見守り、時に祝福をしながら、世界をくるりと旅されている……」

 コルの語りにバルドゥールと先生は拍手をした。それは誰が聞いても納得するほどのものだった。

「ほぼ暗唱できるだなんて、さすが先生の教え子でいらっしゃる」

「彼女がよく勉強をするだけですよ」

 二人が褒めるのでコルはほっと胸を撫で下ろす。

「さて、この大鴉様の旅立ちは、神話的な――この世界に伝わる言い伝えを、よりわかりやすく説いたものであることは、画家なんぞよりよく存じていると思われますが。アグラヴィータの者たちは、その大鴉様に近づくために――神に近づくために、わざと神を遠ざけているわけです」

 バルドゥールの語りにコルは気づいて目を丸くさせた。

「神は彩部に宿られている……!」

 アグラヴィータに辿り着く前、先生がアグラヴィータそのものだと謳った台詞だった。

 神は彩部に宿られている。神は色無き世界ではなく、色にこそ宿る! コルは思わず立ち上がっていた。

「そういうことです、お嬢さん。アグラヴィータの先祖たちは、神こそ色に宿ると考えた。色を持たぬ大鴉様のその奥に座す者ら、神は、極彩色であると。なれば自分たちは大鴉様に従い、色を遠ざけようとしたわけです」

「そしてアグラヴィータはずっと白と黒の生活を続けている。神に近づくその時にこそ、色を宿すべきだとして……そうでしたよね、バルドゥール画伯」

「その通りです先生!」

 穏やかに、しかし興奮冷めやらない様子で口早に先生が補足をすれば、バルドゥールは仰々しく立ち上がりまるで歌劇の如き振る舞いで先生の肩を抱いた。

「いやはや、学士の街での権威者となれば、そこまでご存じでしたか」

「失礼のないように予習をしただけです。しかしバルドゥール画伯。僕には気になることが一点あります」

 興奮するバルドゥールを遮り、先生は挙手をした。同時にしれっと、バルドゥールの手を払う。

「色を遠ざけると言っても、その色彩づかいはどこから学ぶのでしょう。アグラヴィータは絵画に富んだ街。多くは抽象画、宗教画、もしくはその複合です。色彩を遠ざけては、それらは描けないのではないのでしょうか」

 冷静かつ的確な言葉だった。色彩を遠ざけることは、色彩の扱いに長けぬと同義になり得る。ならばどうして、世界に名の知れた色彩が――絵画が描けるようになるのだろうか?

 立ち上がったままのコルは首を傾げた。その様子を見て、バルドゥールがにやりと笑う。

「そこで、絵画です。こちらへ」

 バルドゥールが二階へと手引きをした。

 バルドゥールを先頭に、先生、コルと続いて白黒が織りなす階段を上っていく。

「アグラヴィータの色彩は、神は遠ざけられている。しかしながら先生。この街の信仰は神を描くことなのです」

「……どういうことですか?」

「修行として色を収める……税を払うのと同じように、我らは絵画を描くのです。その時だけ、神を扱うことを許される。アグラヴィータの人々で、どれだけ苦手だとしても週に一回の神との面会に――絵に立ち合わないものはいない」

 階段を上り終えると、バルドゥールは向かいにある白い扉を開け放った。

 突如、絵の具の匂いがした。

 閉じ込められていた画材たちが視覚よりも先に鼻腔をくすぐった。次に見えたのはぐちゃぐちゃに飛び立った絵の具たちだった。黒き床を塗りつぶさんと勢いで跳ねるそれらの躍動感は語り尽くせない。

 足元からそれを辿り、視線を上げればバルドゥールが立っていた。彼の周りにはあらゆる画材が転がり、いつでも拾い上げられるようになっていた。絵筆や絵の具、パレットナイフなどが無造作に転がっている。

 そして彼の背後には、さまざまな色彩づかいの神が存在していた。

「わ……!」

 神は、カンバスの上で踊り跳ねていた。

 殆どが輪郭を持たない抽象画であったが、それらが表現するものは一様に神だった。暗いうねり、明るい力強さ。それらが溌剌と描かれている。時には静かに語る絵画もあった。バルドゥールの作品はあらゆる表情の神を描いていた。

 思わずコルは感嘆の声をあげていた。

 その神たちは、なによりも自由だった。制約のないカンバスという真白の世界で、何にも支配されず、そこにあった。いくつものカンバスの中で、同じ顔をする神は存在しなかった。

 ほう、と先生が丸眼鏡の奥の瞳を煌めかせつつ話す。

「なるほど。修行として神を――絵画を覚えるのですね。そして色彩を知る。神を知る。その週に一度の修行の中で。そして、最も良い修行を、神を収めるとされたのが神郷画家のバルドゥール画伯。あなただというわけですね」

「その通りです先生。いわば私は、画家にして司教のようなものになってしまった……ああいや、司教はもちろん別にいますがね。そんなふうに思われることが多い」

「いやはや、しかし……見ていると本当に神の形を想像してしまう作品たちです」

 拍手をしながら先生がバルドゥールの背後にある絵に近づく。コルもそれに倣い、じいっと絵画を観察した。近づくとそれらは絵の具の匂いがきつかった。しかしそれ以上の感動がある。絵画に込められた力強さ、存在感、あらゆる躍動は一言に込めることは難しい。

 先生と教え子が同じ格好でずっと絵画を観察するものだからバルドゥールは面白くて仕方がなかった。その姿は親子のように見えてしまう。

「なかなかここまで話を聞いて触れる御仁も少ないものでして……美術神郷なんて言いますでしょう。だから白黒の街並みを見て、なんだい大したことないじゃないか、と思う人間もいるわけです」

「そんな! 勿体無い……勿体無いです!」

「コルの言う通りです。実に勿体無い人々だ」

 先生とコルはバルドゥールに目もくれず、絵画から視線を逸らさずに反論した。

 あまりに二人が夢中なので、バルドゥールは部屋の隅にある椅子に座った。それはバルドゥールが愛用している作業椅子だ。白く背もたれが頑丈な作りで、ところどころにインクや絵の具が飛び散っている。

「明日は嫌でも教会に向かうことでしょう。明後日は……明後日こそ、“神を覗く者”のお披露目ができると思われます」

「嫌でも?」

 ようやく二人は没頭していた絵画の世界から抜け出した。

 バルドゥールが眼帯をしている方の目をさすり、アトリエに唯一ある窓の方を見つめた。

「明日は、この美術神郷で最大の祭り……葬式の日ですから」

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