大鴉先生とコル
伊佐木ふゆ
大鴉先生とコル
プロローグ:大鴉と先生と私
あるところに大きな大きな鴉がいました。
大きな鴉は、世界の理を破ろうとするものを罰する生き物でした。世界を見守り、秩序を成し、悪いものを罰する生き物でした。
しかしこの世界の比率として、正義と悪は均等ではありませんでした。ほんの少しだけ悪意の多い世界でした。
来る日も来る日も人を罰して、鴉は少し飽き飽き気味。人間なんて、この世界なんていいものではない……そう思うこともありました。
鴉はその力で世界を壊すことはしませんでした。
この世界が美しいもので満たされている以上、そうする必要はないと知っていたからです。
「人間よ」
けれどその思考は、すぐに裏切られることになりました。
大鴉は気づいてしまったのです。その正義と悪のバランスも、徐々に崩壊していって、ついには美のために悪意ある行為が成される世であることに。
もうこの人間を、男を罰して何もかもを終わりにしようと大鴉は思っていました。何度も延命を重ねた日々に、終わりをもたらそうと、鴉はそう考えていました。
「お前は何を望む。罪を犯してまで何を望む」
ある男は鴉を前に言います。
「私は――私は愛するものを望む」
罪人である男は真摯な眼差しで言いました。その瞳のどこにも瞬きはなく、一心に鴉を見つめていました。
そんな人間は珍しいものでした。大抵の罪人は言い逃れをするものです。矮小な欲望の末に、罪に至ったのだと大義らしい大義もなく話すものですが、その男は異なりました。
堂々と愛するものを望む、と。そう答えました。
だから鴉は気になってしまったのです。
そう答える男の愛するもの、とやらを。
「愛するものとは、その罪に等しいものか?」
「ああ、等しい。掛け値なしにそれは美しい。この世で最も美しい言葉も、姿も、声も何もかもをそれは持っている。究極だ。究極の生き物。あるべきかたち。それはまさしく、愛するものだった」
鴉は辟易していました。この世の中に、罪を犯すものに、人間に。
「私はあれほどのものを見たことがない! 私は、この世の祝福としてあれを見ていたに違いない。あれは、まさしく光だった。寄り添うことで心が温まり、満たされ、幸福になるための近道であった。だから、私は、愛するものを望む」
けれどその男の目が、必死に訴えるものだから、ほんの少しだけ興味が湧きました。彼の話す愛するものが、本当かどうかを確かめてみたくなったのです。
「人間よ。それを我に見せてみろ」
鴉は羽ばたきました。
羽ばたき、風を唸らせ、渦を作り、轟々と音を立てました。その大きさと音に男は身震いをしながら、月を背景に美しい鴉の姿を見ました。
「――契約だ。人間よ」
淡々と鴉は言います。
「お前の言う愛するものを、美しいものを見せてみろ。そうすることでお前の喪失は埋められるだろう。お前の失ったものは、あるべく姿を持って元通りになるだろう」
鴉は、見てみたくなってしまったのです。
悪しきもので満たされる世に、まだ美しいと叫ぶその男の瞳には何が映っているのかを、確かめてみたくなったのです。
男はゆっくりと頷きました。
そうして鴉と男の契約は完了し、鴉と男の旅が始まりました。
鴉がどうなったのか、男の言う愛するもの――美しいものが見られたのか。それを知る者は、まだいません。
***
満天の星の下を、男女は歩いていた。
夜の帳は、大鴉の羽根が故。そう謳って男は歩く。その後ろを、少女がついていく。
男は長躯であり細身のように見える。丸眼鏡を身につけ、穏やかに緩んだ目元をしている。髪はアッシュグレイで男性にしては長い肩までの髪を雑に一結びにしていた。ボルドーのタートルネックにオイスターグレイのロングコートを着ている。右手には膨れ上がったトランクがあり、左手にはコンパスとライトがあった。
難しい顔をしてコンパスを睨んでいる男は、丸眼鏡を正して辺りを見渡した。何処を見ても木々ばかりの道だった。かろうじて地面には人が歩き潰したために雑草の生えぬ道が出来ている。
「先生、そろそろですか?」
少女が凜とした声で問う。
彼女は小柄な体つきをしている。群青の瞳と長い黒髪を三つ編みにして流している。ケープを羽織り、両手で先生と呼ばれた男と同じように膨れ上がったトランクを持っていた。
先生と呼ばれた男は、首を傾げた。
「それが……あとちょっとみたいなんだ。コルはまだ歩けるかい?」
「はい、先生。でもあとちょっとは困ります。先ほどと同じ事を仰っていますよ」
「そうなんだよなあ……」
コルと呼ばれた少女は肩を竦めた。
先生は頭を掻いて、歩みを止めた。空を見上げて、その星々と空気を吸い込んだ。腹は満たされないものの、脳にぐるりと酸素が回っていく感覚がする。
「だから夜汽車に乗りましょうって言ったんです。もちろん、そんなおとぎ話……おとぎ話ですけど、夜汽車は乗客が正しく道を覚えていれば、何処にでも案内してくれるものじゃないですか。先生は方向音痴じゃないんですから、絶対その方が良かったです」
「そのおとぎ話はあんまり使いたくないな……」
彼はぼやき、肩を竦める。
トランクを持ち直してコルも足を止める。
「休憩にしよう」
そう言って先生はコンパスをコートのポケットにしまった。
コルの分のトランクを奪い、先生は手頃な木の下に腰を落ち着けた。コルもそれに続く。
先生が膨れ上がったトランクを開けた。バチン! と跳ねるように開いたトランクの中には衣服や本が詰まっている。そのほか鉱石の入った瓶、地図、持ち運び用の食器などがこれでもかと言うほどにぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
トランクの中をライトで照らしつつ、その中から水筒を取り出した先生は、コルにそれを渡す。「ありがとうございます」と一言礼を言ってから、彼女はこくりと水を飲んだ。
ふう、と息を二人は同時に吐いた。
「経費で移動をすればよかったな。コルの足がこのままじゃ痛くなってしまう」
「すぐにはなりませんよ。でも、移動手段を考えましょう。夜汽車じゃなくても、バイクとかあるじゃないですか」
「売っているかなあ。アグラヴィータは美術の都市だから、移動手段なんかは外部から輸入するんじゃないかな? ああでも、その輸入品を買えばいいのか。考えよう」
「はい。先生の運転を楽しみにしています」
「あはは……参ったなあ」
先生はくしゃくしゃに笑った。コルは穏やかに微笑んだ。
コルは手足を伸ばした。そのつま先に黒い羽根を見つけた。
「先生、大鴉様の祝福です!」
ぴょん、と踊るようにコルがその羽根を手に取る。月の光の下で輝きを放つ、黒鉄と同じ色を持った羽根が一枚あった。
「素敵な夜になることは間違いないですね。この夜の主が――世界を見守る大鴉様の一部が降りたということは、近々良いことが起きる。そうですよね、先生」
「そうだよ。この世界は大鴉様の祝福で出来ている。大鴉は朝は空を飛びその配下の鴉たちに下界を見渡させ、夜はその身を以て僕たちの空を覆う。星は彼が集めた宝石の輝きに過ぎない」
教科書を読み上げるように先生が語る。
コルは頷き、嬉しそうに大鴉様の祝福を空に掲げた。羽根の隙間から見える星空は、それはそれは綺麗なものだった。
「星の輝きは大鴉の最も大切な宝石の輝き。そのおかげで歩けていると思うと、なんだか不思議ですね」
「コル。文明の利器であるライトも忘れてはいけないよ。大鴉に頼らない夜の歩き方が出来るのは、このライトのおかげなんだから」
ぱち、ぱちと先生はいたずらにスイッチの切り替えをしながら話す。
「はい、先生」
「文明と大鴉の融和はもう完成されているけれど、この先融和を許さない場所だってあるかもしれない。現に非融和派の宗教都市だってあるんだ。あそこは
「先生、長いです」
咳払いをする真似をして止めどなく語りを続ける先生をコルは止めた。止められた彼は何処か嬉しそうに笑いながら、手元のライトのスイッチを入れた。足元が照らされる。
「ははは。でも、君だって僕の教え子なのだから、僕の言葉をきちんと聞く責務があると思うけれど。コル、君も成長したね」
「先生とのフィールドワークのために準備をしたのです。フィールドワークと言うより、旅だと先生は仰いますが……私にはどちらでも、いいです。輝けるもの――美しいものを探すことが見つかるならば!」
神に祈るかのように手を組んだコルは、その群青の瞳をも輝かせた。
「ああ。そうだね。君の求める美しいものを。僕の求める世界の輝きを。僕たちはこの世で最も尊く、美しいものを探すんだ」
先生もそれに応じた。頷いて、コルの爛々と輝く、まるで星のようなまなざしを見守っている。
そうして二人が休憩をしているうちに、何処からか馬の足音が聞こえたので、先生はライトを消した。窃盗団であったのなら、彼らの旅路が途切れてしまいかねないからだ。
暗闇の中、二人は身を小さくする。
しかし彼らの心配は杞憂に終わった。
「あれ、ここいらに人の声がなかったっけね」
馬車を降りた男は迷いなく先生とコルにランタンの明かりを向けた。突然やって来た男に二人はホールドアップをしたが、男は無精髭を撫でながら「ありゃあ」と抜けた声を発する。
「別に取って食おうってわけじゃ……ああ、逢い引きだったのかい? それとも駆け落ち?」
男女二人が並んでいるからなのか、ありもしないことを男は言う。ぶんぶんとコルは勢いよく首を横に振り否定をした。
「僕らは旅をしている……教師と教え子です。残念ながらそんな関係ではありません」
「そうか。じゃあなんで宿なんて取らずにこんなところでうずくまってるんだ?」
「アグラヴィータまでの道のりが長くて休憩をしていたところでした。そろそろ、出発します」
「アグラヴィータ? なんだい、取引先じゃないか。乗ってくか、お二人さん」
先生とコルは顔を見合わせた。
次の瞬間、二人はバタバタと開けたトランクをどうにかして閉じることに成功した。荷物を持ち、ライトのスイッチを改めて点け、背筋をしゃなりと伸ばして立ち上がる。
「よろしくお願いします!」
意気揚々とした二人の返事を聞いて、馬車の男は満足そうに笑った。
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