うちの風呂場のサメ人間

大足ゆま子

うちの風呂場のサメ人間








 ガタついて閉まりきらなくなった風呂場の扉を開ける。瞬間に夏場の魚屋のような臭いがして、ほんの少しだけ嫌な気分になった。床や壁一面を覆うピンクのタイルは、うまく赤カビを隠してくれるが、素足をつけるとぬるりとした感触が足の裏を撫でて、また嫌な気分になる。こまめに掃除をしてやる気力もなければ、風呂場に愛着もない。週に一度シャワーを浴びられたらそれでいい。しかし、ここ二週間はそれすらもしなくなった。

 原因はバスタブの中にある。


 そいつは黄ばんであちこち塗装が剥げたバスタブいっぱいに、体長二メートルはあるであろう(立ち上がった姿を見たことがないので正確なサイズはわからない)巨体を無理やり押し込んで、ただじっとしている。灰青色の皮膚はざらりとしていて、発疹のように全身に白い斑点模様が散りばめられている。本来手がある部分には小さなひれがついており、短くて太い足は指が三本しかなかった。丸太のような首の上には、サメの頭がくっついている。ごま粒に似た小さな目が顔の両端にちょこんとついており、大きく横に開かれた口は閉じたところを見たことがない。


 つまるところ、俺の家の風呂場には今、サメ人間が居座っている。

 俺が招いたわけではない。二週間前に風呂場の扉を開けたら、こいつが空のバスタブの中に座っていた。話しかけてみたが今日まで返事らしい返事はない。ただ何するわけでもなく、大きな口を開けてじっとしている。追い出そうにも相手は体のほとんどがサメなので、下手にひれを引っ張りでもしたら最悪あの郵便受けのような口の中に引きずり込まれる可能性もある。かといって干からびてここで死なれても困るので、俺はバスタブに水を張ってやった。濁った水でバスタブが満たされた瞬間だけ、サメ人間の小さな黒目がちらりと俺の顔を見た気がした。いや、生のままだと見向きもしなかった魚を、てきとうに焼いて与えてやった時も、目が合ったような気がする。何にせよ、サメ人間と俺とのコミュニケーションは実に希薄なものだった。


 バスタブの縁にビニール袋を置く。中を漁ってヒヨコのゴム人形を取り出す。水面に二つほど浮かべてやると、小粒な目が微かにそれを追い始めた。しかしすぐに飽きたのか、再び視線がゆるゆると上がっていき壁を眺める。俺はビニール袋の中から、水鉄砲を取り出した。サメ人間が浸かっているバスタブの中に手を突っ込む勇気はなかったので、シャワーでタンクに水を入れる。引き金に指をかけて、サメ人間の肩らしき部分に狙いを定めた。

 ぴちゅん。気の抜けた音がして、水の弾丸がサメ肌めがけて発射された。ぶつぶつとした固そうな皮膚が水を受け止めて、少しずつ吸い込んでいく。

 サメ人間はびくともしない。三、四発続けて発砲したが、彼は(あるいは彼女は)赤カビの生えた壁をじっと見つめるだけで、こちらを見ようともしなかった。


 俺は途端に気恥ずかしくなった。自宅だというのに、居心地の悪さも感じた。このろくに泳げもしない窮屈なバスタブの中に、一日中ただ座っているだけなのはさぞ退屈であろうと、家主としてそれなりにもてなそうとしたつもりだったのに。あるいはペットの世話をしてやっている気になっていたのかもしれない。どちらにせよ、サメ人間は俺に何かを求めているわけではないようだった。たまたまこの部屋に理由もなく立ち寄って、たまたまそこに俺が住んでいただけで、サメ人間にとって俺はいようがいまいが関係のない存在だということだ。

 立ち上り、水鉄砲をバスタブの中に放り込んだ。タンクに水が残っている水鉄砲は、ばしゃんと音と飛沫を上げたがサメ人間は無反応だった。ビニール袋を引っ掴む。そのまま風呂場から出ようとしたが、袋の中にこぶし大の固い感触を見つけて取り出した。それは青と緑色がマーブル模様を形成した、バスボムだった。ラッピング袋には「Ocean」と書いてあり、文字の周りを簡略化された不細工なイルカが二匹泳いでいる。包装を剥がしてみると、人工的なミントに似た匂いが鼻をついた。Oceanの要素はカラーリングとパッケージのイルカだけのようで、俺は「彼(あるいは彼女)は気に入ってくれるだろうか」と不安に思ったが、すぐに「いや、もうどうでもいいか」と思い直し、手のひらサイズの小さな惑星をバスタブの中に投げ入れた。

 派手に飛び上がった水飛沫が、サメ人間の顔を濡らした。サメ人間は動かない。沈んで浮き上がってきたバスボムが、水面でぶくぶくと泡を吹きながら溶けていく。細かなラメが混じった緑と青の絵の具が、小さな海をゆっくりと染め上げる。きついミントの香りと生臭さが風呂場に充満して、何度か噎せ返った。混ざり合った色水が、サメ人間の二の腕らしき部分に触れた。


 突然、サメ人間の分厚い腕がぶるりと震えた。痙攣は全身に広がり、やがて水面にも広がった。ばちゃばちゃと大きな音を立てながら、サメ人間は上下に激しく揺れる。立ち上がろうとはしないが、あまりに大ぶりに震えるものだから、狭いバスタブから今にも飛び出てしまいそうだった。水色になった風呂の水が、洗い場の床に大量に降り注ぐ。驚いて逃げそびれたまま、黙ってサメ人間を見つめる。Tシャツは濡れそぼり、口の中にも色水が飛んできて妙な塩辛さが舌を撫でた。ごま粒のような黒目は相変わらず壁を見つめているが、横広の口はいつもより大きく開かれていて、その奥からシューシューという音が聞こえてくる。

 ふと、俺はサメ人間の頬であろう部分の白い斑点が、ニキビのように赤く腫れ上がっていることに気が付いた。それは一か所だけではなく、目の下や口の上、肩や背中にどんどん広がっていった。斑点という斑点がまるで内側から押し出されるようにして、ぷつぷつと膨れ上がり、あっという間にサメ人間の体は真っ赤なデキモノに覆いつくされた。

 その姿を見てようやく俺は悲鳴を上げた。体勢を変えて逃げ出そうとしたが、腰が抜けたのか床のぬめりに足を取られてすっ転んだ。壁に頭をぶつけながらも必死に手を伸ばし、バスタブの縁を掴んで立ち上がろうとした。



 じょぼりっ、という音がして視界が暗くなった。頬や首の辺りにちくちくと細かな突起物が突き刺さり、痛い。首の付け根には柔らかくてぬめぬめとしたものが当たり、気持ちの悪さに俺は絶叫した。

 俺は今、サメ人間に頭から首の付け根まで飲み込まれているのだ。そう理解した瞬間、俺はまたサメ人間の口の中で叫んだ。どうにか抜け出そうとサメ人間の顔を掴むと、膨れ上がったデキモノがぷちゅんぷちゅんと手の中で潰れて、強烈な不快感に襲われる。必死になって頭を引っ込めようとするが、動かすたびに口内に敷き詰められた小さな歯が皮膚を削っていく。サメ人間がどういう表情をしているのかはわからない。このまま俺を飲み込んでどうするのかも、わからない。頭の上から生温かい風が吹いてきて、俺の濡れた前髪をかき上げた。首元にサメ人間の上顎が食い込んできた。まさかこのまま食い千切られるだろうか。背中の皮が引っ張られる。俺は薄く開いていた瞼を閉じた。


 短い破裂音と同時に視界が明るくなった。目を開けようとする前に、どぶんどぶんと何かが水の中に投げ込まれた音がした。ミントと生臭さの中に鉄臭さを感じて、恐る恐る目を開けた。

 バスタブの中には、もうサメ人間の姿はなくなっていた。

 代わりに細かく千切ったような肉の塊が、水の上に浮かび、床や天井にまで張り付いていた。大きく息を吸うと、嗅いだこともないような刺激臭が鼻や口内を襲い、俺はゲロを吐いた。


 二週間ぶりに空いたバスタブに、俺は服のまま浸かった。底には分裂したサメ人間が漂っている。肉片をかき分けるようにして足を伸ばし、肩まで水に沈んだ。

 それからどうしたのかと聞かれれば、どうすることも出来なかった。

 焦点の合わない目で赤カビとサメ人間がこびりついた壁を眺めている俺の前で、おできまみれの肉片を背に乗せたヒヨコのゴム人形が、ぷかぷかと浮かんでいた。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うちの風呂場のサメ人間 大足ゆま子 @75ch

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る