ハングマンの待つ家に

大足ゆま子

ハングマンの待つ家に









 ノーマン・スコットは、常に誰かを殺したがっていた。

 癇癪持ちの男で四六時中ずっと苛々としていて、気に入らない相手が見つかるとすぐに窪んだ頭の真ん中に設置した処刑台へと送るのだった。死刑宣告を下された人間は、彼が作り出した百五十平方メートル程の狭い広場に置かれた絞首台に吊るされる。広場は廃れたチャイナタウンの死骸に囲まれていて、ぶら下がった死体の足を時々ドブネズミが齧る。朽ちた屋台にはゾンビと化したアヒルの頭や焼け焦げたヤモリが並び、どろどろに溶けてペースト状になった果物が汚水と混じって中央広場まで生臭さと油臭さを漂わせていた。

 処刑は毎日行われた。電車の中でノーマンの足を踏んだ顔中ピアスだらけの若い男や、彼のお気に入りの青いワイシャツを焦がしたクリーニング屋の親父、バーで彼の鼻を左右一回ずつ殴って骨折させたアイルランド系のチンピラ、話の通じない馬鹿な顧客、汚職を擦りつけたボスのトラヴィスや役立たずの名も忘れた部下……ここ一週間だけでも彼の身近な人間や顔もよく覚えていないような者たちが、息つく暇もなく吊るされた。

 特に彼の母親は皆勤賞ものだった。ノーマンは夜眠りにつく前に必ず、四年前にこのアパートの目の前の大通りでダンプに轢かれて死んだ母親の姿を思い浮かべた。彼女は酷い癇癪持ちで、自分の機嫌を損ねた人間を追い回してはその時手に持っていた物で頭をぶつのだ。何も持っていない時は、野球グローブよりも分厚い手で平手打ちをした。ノーマンは彼女のせいで頭のてっぺんが変形し、左耳が聞こえにくくなった。彼女が死んだ後、すぐにノーマンはここに越してきた。母親の体が擦りつけられ染みになった道路を見下ろしながら、彼は毎朝薄い珈琲を飲んだ。彼はいつも毛布を頭まですっぽりかぶって、目をきつく瞑る。崩れたチョコレート・プティングのような体を絞首台に乗せる。巨大な頭をロープにくぐらせると、皮膚の垂れた顎に埋もれてロープが見えなくなった。赤色の唇が大きく開けられ、ヤニで汚れた小さい歯が剝き出しになる。ノーマンは足元の台座を蹴飛ばした。太った女は人形のような足で必死に空気を蹴り飛ばす。古木で出来た柱が軋み、彼女がすぐ傍で顔を覗き込んでいたノーマンの胸を蹴った。ノーマンは笑った。腹の底から声を上げて笑った。あまりにも笑いすぎて絞首台から二度も転げ落ちた。そうしてすっかり動かなくなった母親を暫く眺めてから、彼はようやく安らかな眠りにつくことが出来るのだった。



 その日、ノーマンの処刑台に立たされたのは、頭頂部がへこんだ三十過ぎの男だった。乱れたポンパドールからちょろちょろとほつれた前髪が痩せた顔にかかり、しわの寄った青色のワイシャツは右袖の部分が焦げて変色していた。

 その男はノーマン自身だった。

 彼は今日ついに、自分を処刑台送りにした。脱ぎ捨てた一週間分のシャツやズボンが散乱するベッドに腰かけ、彼は頭に拳銃を押し当てていた。足元には割れた硝子の破片が散らばっており、大穴の開いた窓から暴風に煽られた大量の雨粒が侵入して、俯いた男の顔を濡らしていた。

 ノーマンは昨日、職を失った。身に覚えのない罪状を突きつけられ、会社からすぐに逃げ出さなければ、今頃檻の中にぶち込まれていた。おまけに一か月前には、脳みそに病が見つかっていた。死ぬような病気ではなかったが、彼に死を選択させるには十分すぎるものだった。彼に友人はいない。六歳年下の赤毛の恋人からの電話も、もう三回も無視していた。誰の声も聞きたくないし、誰の顔も見たくはなかった。彼はよろよろと立ち上がった。頭に押し付けた銃口は、一ミリもずれることなく引っ付いている。裸足のまま窓辺へと進んでいく。砕かれた硝子が足の裏をひっかいて傷をつけても、彼の顔色は変わらなかった。

 窓辺に立つ。うねった激しい風がノーマンの顔を叩いた。鼻の穴やうっすら開いた口の中に、苦い雨粒がどんどん入ってくる。ノーマンの豆だらけの指が、引き金をなぞった。脳内の彼自身も、重い体を何とか動かして絞首台に置かれた小さな踏み台に足を乗せた。鼻をひくつかせると、頭の中から酸化した油の臭いが漂ってきた。すっかり濡れそぼった髪の毛から頬に滴る雨が、点心の屋台から漏れ出した汚水のように感じられた。銃を持つ手に力が込められると、絞首台に立つノーマンもロープに顔をくぐらせた。

 彼は真っ青な顔で、ただひたすらに目下の大通りを睨んでいた。とてつもなく死にたい気分だった。頭の中で、彼は何人もの人間を殺してきた。物言わぬ憎き相手を台の上に乗せて、ぽんとその踏み台を蹴飛ばしてやれば皆数分も経たずに死んでしまった。今だって、足元の台を自分のこの血まみれの足でほんの少し押せば、すぐに済むことであった。ノーマンは震える腕をもう一方の手で強く握った。ぼさぼさに毛羽立った縄が首に食い込む。彼は怯えながら、誰もいない通りを眺めることしか出来ないでいた。多少寂れてはいるが生花店やパン屋、酒屋が立ち並び活気づいた商店街も、嵐のせいで今は死んだように静まり返っている。ノーマンの黄色がかった瞳が、小汚いヨーロッパ系のパブを見た。メニューが書かれた看板は風にすっ飛ばされてどこかへ消え失せてしまっている。

 彼はこう思った。日が暮れるまでにあそこの角から誰かが現れたら、この固い引き金を引いて死のうと。それならば女がいいとも思った。若くて美しい女が、万が一この嵐の中を出歩いてあそこのしけたパブの角を曲がって、白鳥の首のように細くて白い足を泥水に浸しながらよちよちと現れたら今日で人生を終わりにしよう。彼はそう思った。ノーマンはそんな馬鹿な女の姿を想像して、一か月ぶりに口の端を少し持ち上げた。コンクリートを叩きつける雨が、こびりついた母親の破片を洗い落としていくのを感じながら、窓辺に立つ男は黙って女を待っていた。



 マデリン・ハワードは、雨に打たれて凍えた体を自分で抱き締めながらひたすらに歩いていた。丈の短いレインブーツはこの暴風雨にまるで歯が立たず、家を出て三分で水没してしまった。彼女はビニールバッグがこれ以上濡れないように、脇を締めてレインコートに引っ付ける。バッグの中には昼間に焼いた人参のパウンドケーキと、友人に借りたホラー映画のビデオが数本入っていた。マデリンは幽霊だとかゾンビだとかそういった類のものは、心底苦手だった。日が沈めばカーテンを開けておくのも嫌だったし、一人きりで眠るのも本当は恐ろしいのだ。故にこのビデオは、恋人の為に持ってきたものだった。マデリンは少し前からまったく連絡が取れなくなってしまった六歳年上の恋人のことが、気になって気になって仕方なかった。証券マンである彼は、それでなくてもいつだって忙しそうにパソコンを叩き、デートの最中も構わずあちこちに電話をかけまっくていたが、マデリンからの連絡を無視したことはこの二年間一度もなかった。たとえ電話に出そびれても、すぐにかけ直してくれるような男だった。それなのに、そんな彼がここ一ヶ月まるっきり音信不通なのだ。最後に見た彼の顔には、生気というものがまるでなかった。萎れて肉が削がれた死体のようになった恋人を思い出して、マデリンは身震いをした。


 かじかんだ足で、側溝から溢れたドブ水を懸命に踏みつけて進んだ。マデリンは、古ぼけたアパートの一室で、一体彼は今何をしているのだろうと想像した。こんなに頭から爪先までぐっしょりと濡れそぼった女を、はたして迎え入れてくれるだろうか。いや、きっとこの鞄の中を見せて、今夜は一緒にホラー映画を見ましょうと言えば、彼は少し驚いて、それから笑ってマデリンの冷えた手を引いてくれるはずだ。


 あと少し。あのパブの角を曲がれば、彼の家はもうすぐ目の前だ。

 マデリンは自然と小走りになった。

 あぁ、早く彼に会いたい。









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