第26話:「おはよう」

 時間は待つことを知らない。

 待てど暮らせど、奥の扉が開く気配はない。間違いないと信じての行動だったが、こうも進展がないと焦りも帰ってくる。


 クラブの力で産み出したテーブルにはたくさんのお菓子が並んでいる。キッチンにあった材料を余すことなく使い切って用意したものだ。

 患者のこころが求めていたのであればこれも正解のはず。なにが間違っていた? 制限時間のことは考えないようにしていたが、鼓動は少しずつ不穏さを増していく。


「ミライ、焦るな」

「うん、わかってる。大丈夫」

「どのツラが言いやがる」

「出てる?」

「出てる」


 焦るな、というのも無理な話だ。これは試験なのだから、結果が出せなければカウンセラーになることはできない。

 とはいえ、ここで焦るのかどうかも評価基準に含まれるだろう。進展がない中でも平静を保てるかどうか、試されているのかもしれない。


 クラリスの表情を見ても変化はない。相変わらず険しい顔をしたままだ。もう少し様子を見るのが正解か? 待つにしても限度はあるだろう。


「……ううん、間違ってない。これでいい」


 言い聞かせるように呟く。

 エントランスにはなんの音もない。ティオのあくびが随分大きく聞こえる。


 ――そういえば、患者の気配は?


 この世界を訪れてから感じていた患者の気配。ここまで導いてくれた不思議な感覚。屋敷に入ってからはぱたりと変化がなくなってしまった。

 もう少し神経を集中させるべきか? 集中してわかるものなのか?


 試すより他はない。言ってしまえばあれも“見極める力”。即ちダイヤの力の派生と考えられる。


 まぶたを閉じ、患者のこころ――心象世界を全身で感じ取る。しかし音もなければ気配もない。存在を認識はできる。いずれも動きはない。

 四つの存在は寝静まった人格たちになる。荒れ、乱れは感じ取れず、満足して休息を取っているように感じられた。一方で、最も大きな存在感を放つものもある。


 目を開き、その気配を目で追う。当然、視線の先には開かずの間。あと一歩、もうすぐそこまで来ているはずなのだ。なにかこちらからアクションを起こす必要があるのでは?

 ヒント――なにかヒントはないか? 思い出せ。この世界で進展があったとき、あたしは、患者はなにをした? カウンセリングのためにやったことはなんだ?


「……もしかして」


 思い当たることがひとつある。

 ただし、これは賭けに等しい。あと一歩の勇気が出ないところだと仮定しても、突き放すことになりかねない。

 だが、不安は残る。あたしが動かなければこれ以上の進展はない、それは間違いない。


 最初に出会ったカイルは「帰る」と言ったときに寂しそうな顔をしていた。つまり、人と接点を持つことを拒絶しているわけではない。

 別な人格とはいえ、カイルをベースに生まれたことは間違いないのだ。それに、彼らは本当のこころを守るために生まれている。本当のこころが救われるのなら、彼らにとってもそれが一番だろう。

 そのためにあたしができること、やるべきことは? なにが正解なのかは決断しきれずにいた。


「……うーん、正解がわからないな」

「人のこころは複雑なもんだ、お前みたいに単純な奴ばかりじゃねぇだろうよ」

「そうやってすぐあたしのこと貶すんだから」

「貶しちゃあいねぇよ。単純な方が得することもある。複雑に考えるからこころが疲れるんだ、もっとシンプルでいいんだよ」

「猫にはわからないよね、人の繊細さって」

「言うようになったじゃねぇか、ええ?」


 ティオの憎まれ口もいまは響かない。思考の淵に落ちていく感覚。どうするのが患者にとって正解か、カウンセラーとして適切な対応なのか。

 考えろ、考えろ。考えて考えて考え抜け。


「こら、顔」

「んー……難しい顔しちゃってた?」

「ああ。患者も喋りにくくなっちまうような顔してたな」


 あまり考え過ぎると表情が硬くなる。一度深呼吸が必要だ。深く息を吸い込み、思考をリセット。

 クリアになった頭の中、瞬く間に湧いてくる課題、疑問。煮詰まってしまっていることがよくわかる。

 そんなとき、ティオが「まあ」と呟いた。


「押して駄目なら引いてみろ、なんて言葉もある。これだけやったなら押せるだけ押しただろう。他にやれることなんざ引いてみるくらいのもんじゃねぇか?」

「引くって言ってもなぁ……ここまで来てばいばいなんて薄情じゃない?」

「なにをやっても響かない奴だっている。どれだけ手を尽くしても、変わろうと思わない奴は他人の厚意や奉仕じゃ変わりゃしねぇよ」

「……カウンセラーとして一番言っちゃいけなくない? それ」

「だが事実だ。変化を求めない奴に変化を促してもうんざりするだけだろう。余計なお節介にしかならん」


 ティオの言葉は手厳しい。願わくば患者が塞ぎ込まないことを祈るばかりだ。カウンセリングのときに彼に喋らせてはいけないと実感した。

 とはいえ、押して駄目なら引いてみる。理屈としてはわかるが、リスクが大き過ぎる気がする。

 ここで帰るなんて言ってみろ。ああやっぱりと落胆させるだけ――


「……? 本当に?」


 無作為に散らばった点を結ぶように、一本の線が走る。


 出て行けと言った手前、帰ってほしくないと訴えていた。人との関りを拒絶しているわけではない。

 四人のカイルはあたしたちと積極的に関わろうとしていた。潜在的な欲求として「構ってほしい」「相手にしてほしい」が大きいと見える。

 であれば、それらは満たされたと考えていい。満たされたからそれぞれの人格は休息しているのだ。

 満たされていないのは患者の本心だけ。しかし扉からは出てこない。扉を開ける最後の一歩が踏み出せていない状態だ。


 本当のこころも同様の欲求を持っているのなら、やはりこれしかない。あたしは踵を返し、玄関へ向かった。


「どこ行く気だ?」

「帰ろう。あたしたちはやれるだけのことはやった。だから、後はカイルくん次第だよ」


 ティオはなにも言わない。だが、彼の表情を見るに意図は伝わっているようだった。なにも言わず、のっそりと立ち上がりついてくる。

 クラリスは当然無言を貫いている。これ以上は彼女の立場としても言えることがないはずだからだ。

 扉に手をかける。それと同時、奥から大きな音がした。扉を乱暴に開け放つ音。


「ま……待って、ください……!」


 精一杯、搾り出したような声。振り返り、音のする方を見やる。姿を見せたのは四人と同じ顔。瞳は不安に揺れ、体も震えているように見えた。


 ――踏み出せてよかった。


 あたしは満面の笑みを浮かべる。ここに来てからずっと、きみ・・とお喋りしたかった。その気持ちを隠すことなく顔に映し、告げた。


「おはよう、カイルくん。一緒にお喋りしよう!」

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