第18話:それだけのことだから
張り詰めた空気が喉に引っかかる。いっそ呼吸しない方が楽とさえ思うほどの息苦しさ。
マザーの部屋を訪れたあたしたちだが、シェリーの提案を彼女は善しとしなかった。マザーの表情はいつになく険しい。それだけ彼女にとってシェリーの提案は受け入れ難いものだったのだと思う。
「……ミライはまだ療養中です。そんな状態で試験など行えません」
「そんなに過保護でいいのかしら~? カウンセラーは過酷な仕事、マザーは知っているはずよねぇ?」
「だからです。過酷な仕事だからこそ十全の状態で試験に臨ませなければ意味がありません」
人のこころに干渉する以上、心身共に疲弊しやすい仕事なのだとは思う。それ故に、試験は万全の状態で臨むべきというのがマザーの考え。
一方、シェリーはそうでないようだ。くす、と笑みを溢してはいる。しかし彼女の笑顔は必ずしも肯定的なものではない。
「マザーの考えの方がよっぽど無意味よ? カウンセラーはいつ、どんな患者の相手をするかわからないんだもの。十全で仕事に臨めることの方が珍しいじゃない」
シェリーの声に鋭さが増す。クラリスように目に見えるものではなく、首に刃物を添えられるような、冷たさを伴った声。
彼女のことはよく知らないが、節々に窺える“危うさ”のようなものはマザーとしても注意しているのか、頑なに頷かない。
平行線を辿るやり取りが続く。膠着状態が続く中、一石を投じたのはティオだった。
「話し合いなら勝手にやってくれないか。マザーが言うようにミライは安静にするように言われている。試験を続行しようが延期しようが、ここにこいつを立たせていることが一番無意味だ」
「同感ね。そもそも試験の日程は私とマザーで決める。あんたが出る幕じゃないのよ、シェリー」
クラリスも続く。あたしのことを想っての提案なのはわかるのだが、シェリーの機嫌を損ねるとどうなるのかがわからない。少なくとも彼女に楯突いて痛い目を見た者がふたりいる。
感情に任せて大暴れするような人には見えない。むしろ彼女が手荒な手段を取るのは極めて冷静な思考によるものに見えた。
「抵抗しないの」や「痛いの嫌でしょう?」といった、あくまで相手を納得ーーあるいは屈服させる手段として暴力を行使しているだけに過ぎないように思える。
つい息を飲む。限界まで膨張した緊張を破ったのはシェリーの吐息だった。
「そうね~、ちょっと気が逸っちゃったみたい」
「へ……?」
思ったよりも素直に引き下がるシェリー。つい声が出たが、彼女は気に留めた様子もなく踵を返した。あたしの肩に手を置き、耳元で囁く。
「頑張ってね、ひよこちゃん」
「あ、ありがとうございます……?」
「それじゃあね~、また仕事が入ったら呼んでねぇ」
ひらひらと手を振って去っていくシェリー。その背中を誰もが無言で見送った。
彼女が部屋を出たのを機に、クラリスが仰々しいため息を漏らす。
「ったく……付き合ってられない」
「あなたにも苦労をかけますね、クラリス」
「いえ、私よりもマザーの方が余程大変でしょう」
「そんなことはありませんよ。ただ……身内のあなたにこんなことを言うべきではないのですが、少々手を焼いているのは事実です」
マザーがここまで言うのも珍しい。あたしにさえそんなことを言わなかったのに。
「ねえマザー、シェリーさんってそんなに問題児なの? 確かにちょっと不思議な感じだけど……」
「シェリーはエースの中で最も戦果を挙げています。そこは評価すべきなのですが……やり方が感心しないのです」
「やり方? クラブのカウンセラーだよね? 感心しないやり方ってなに?」
「……徹底的。その一言に尽きる」
重々しい声音で語るのはクラリス。徹底的? 妄界症とはいえ患者は患者だ、なにを徹底的に行うというのか。
「ハートリウムは患者のこころそのもの。そして妄界症は現実をハートリウムであるかのように歪める。つまり、現実の一部を患者が自由に歪めることができるんですよ」
「それがわからないの。現実を歪めるってどういうこと? 現実とハートリウムは違うのに」
カウンセラーとして長く活動していれば、いずれは妄界症に直面することもあるだろう。知識として持っていてもいいとは思う。
あたしの問いに答えたのはマザーではなくクラリスだった。
「確かにあんたの言う通り、現実とハートリウムは違う世界。でもそれは健常者の発想なの」
健常者。
その言葉で思い出す。ハートリウムが具現化した段階で、とっくに健康なこころではなくなっているのだ。クラリスは続ける。
「ハートリウムは“疲れたこころを隔離して癒すもの”。これは間違ってないけど正確じゃない。専門的に言うならハートリウムは“過度のストレスから社会生活が困難になり人生そのものを放棄する病気”……精神疾患の中でも最も重いものとされてる」
クラリスの言葉で改めて思い知らされる。ハートリウムという言葉で本当の意味が包み隠されていただけだ。
こころを肉体から隔離するような現象は普通じゃない。健常者と同じ発想にはならないのかもしれない。
「話を戻すけど、妄界症は現実とハートリウムの区別がつかなくなる。例えば、攻撃的な患者が区別できなくなったらどうなると思う?」
「……ものが壊れたり、人を傷つけたりする?」
「そういうこと。だから患者のこころが鎮めることが妄界症の被害を抑えることに繋がる。じゃあ患者を鎮めるために、あの女がなにをすると思う?」
なにをする、と言われても。あたしが試験でやったように患者と向き合って話が聞ける状態にするのがセオリーだろう。
「……患者と向き合うんじゃないんですか?」
「普通のカウンセラーならそう。あんたは間違ってない。ただ、シェリーは違う。患者のこころを屈服させるの。抵抗する気も起きないように、徹底的に、完膚なきまでへし折る」
「へし折る……?」
「あの女は患者と対話する気がない。『自分の方が優れている。抵抗するな。歯向かうな。楯突くな』……そういう奴。まともなカウンセラーじゃないことはあんたにもわかるでしょ?」
躊躇なく頷ける。話を聞く限りまるで侵略者だ。カウンセラーは患者のこころに寄り添い、こころを在るべき場所へ返すのが仕事だ。
シェリーの行いは患者のこころを踏みにじることに他ならない。蹂躙して、従わせる。カウンセラーの在り方として間違っている。あたしにだってそれはわかる。
それでもエースの座に位置しているということは、素行とは別に評価できる点があるということ。妄界症に対する専門家として充分な力が備わっているということだ。
「……ま、この話はあんたには関係ないね。病室に戻って。試験の日程は追って報せるから」
「わかりました。じゃあティオ、帰ろっか」
「やれやれ、やっと終わったか」
あたしの足元で大きなあくびを漏らすティオ。さすがに猫はカウンセラーになれないのだから、彼にとっては退屈な話が続いていたことだろう。早く帰ってゆっくりさせてあげた方がいい。
「じゃあマザー、クラリスさん。お先に失礼します」
「ええ、お疲れ様です。ああそれと、ミライ」
「うん?」
呼び止めたマザーの表情に違和感を覚えた。なにか躊躇っているような、言っていいのか悪いのか、そんな迷いを感じる顔。
少しの間言葉を待っていると、彼女はいつもの温かい笑顔で告げる。
「頑張ってくださいね」
「へへ、ありがとう。頑張ります」
「そのためにも絶対安静。もう余計な騒ぎ起こさないように。二度は言わないからね」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
ティオが先んじて部屋を出る。あたしも彼を追いかけるように駆け出した。
絶対に合格する。どうしてかそう信じられる。きっと応援があったからだろう。意味のない言葉なんてない。
頑張ってください。
その言葉にそれ以上もそれ以下もない。言葉通りなのだ。あたしがカウンセラーになれるように背中を押してくれた。それだけのこと。
――それだけのことだから。疑わず、真っ直ぐに頑張れるんだ。
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